ロバート・コールズ「子どもの神秘生活」工作舎(1997/6/20)を読みました。
映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)が素晴らしかったので、ふとこの本を思い出して部屋の奥底から探して読んでみたのです。
原題は
「The Spiritual life of Children」
というもの。
子どもは、どういうSpiritual lifeを持っているのか、世界の子どもたちの心の世界のフィールドワークの本です。
作者はピュリッツァー賞も受賞している児童心理学者ロバート・コールズ。
特にホビ族の少女の話が素晴らしかったですが、
それ以外にもキリスト教・ユダヤ教・イスラム教、無宗教・・・
の少年少女の話が色々とりあげられています。
自分が子供の時を振り返ってもそうですが、幼い子供はかなり哲学的なことを考え、いろいろとおとなが作り出した社会の欺瞞を分かっているものです。
実際、自分も6歳?くらいの時に、何かすべてが分かったような(梵我一如?ワンネス?)、妙なインスピレーションを近所の山の中で感じた記憶があります。
大人の世界で作られている奇妙なルールや常識で社会が作られていることも、小学校低学年の時期にはほとんどわかっていました。だからこそ、ああいう世界に染まりたくないと強く思ったもので。いまだにその感覚は持ち続けています。
中高時代も、学校の勉強にはまったく関心が向かず、宇宙の始まりや終わり、なぜ人間が生まれてきたのか、生や死とは、わたしとは何か・・・そういう哲学的で答えがないことばかり日々考えていました。学校の勉強には興味が持てなかった子どもでした。
子どもの頃は、世間からの偏見や固定観念も少ない時期。
だからこそ、どの程度そういうのを受け入れるのか、どの程度自分なりに自分の頭で考えてみるか、そういうバランスを作っていく大事な時期でもあります。
子どもは「言葉」をまだ獲得していないので、自分の崇高な考えをうまく言葉で表現することができません。絵画や音楽の技術を持っているわけでもないので、その他の表現手段でうまく表現することができません。
ただ、うまく表現できないからと言って、その内的世界が何もないと誤解すると大間違いです。単に、表現するコトバを持たないだけです。それは、こどもの発信側の問題にすることは簡単ですが、こちら受け手の、受信側の問題でもあると思いますね。
映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)を見ても思いましたが、子供が「言語」という巨大な体系を獲得していくことで、「胎内記憶」「中間生記憶」・・・のようなものは無意識的に言語世界から「非合理的」とレッテルを張られ、記憶の奥底にしまわれていくものなのかもしれませんね。
だからこそ、まだ言葉が未熟なこどもたちは多くのことを記憶している。でも、それをうまく表現する手段を持たないので、うまく表現できないだけ。
そういうことをふと思いました。
・・・・・・・・・・・・
以下、ロバート・コールズ「子どもの神秘生活(The Spiritual life of Children)」工作舎(1997/6/20)の本文から、子どもたちの面白い発言をご紹介します。
=======================
「どこにたましいがあると思うかは、
それほど大事じゃないの。
大事なのは、そのたましいで何を探すかよ。
えっ、何を探すかって?
・・・・
生きるっていう事がなんのか、
そのなぞを解く手がかりかな。」
=======================
→実在論(あるかなしか)を追求していると、一生かかっても終わりません。
「愛」も、別にみんなが実在(あるかなしか)を証明してから使うわけではないのと同じものですよね。
感じられるままの世界を素直に生きていくことで、何かを発見していくための手段に過ぎないのだと思います。
■第1章 神や霊の世界は幻想にすぎないか
コニー(カトリック、8歳少女)
=======================
「この大きな世界は神様の心配の種なのだけど、
わたしだって心配してる。
だって、わたしは神様のものなんだもの。」
=======================
→このコニーは常に神さまを傍に感じている子でした。
神聖な感覚を常に感じることは素晴らしいことですよね。
それを人格的に神様とするか、神聖なものが漂う漠然とした雰囲気として曖昧に捉えるか、その辺りは文化や言語の差による違いのようで、本質は同じことかな、と思います。
=======================
霊感とは特殊な心理状態をさし、一種独特な愛の表現である。
「愛」とは、リズ―トの言葉を借りれば「生きている神」、すなわち救い主としての神という特定の「表象」に対する愛である。
=======================
→コニーの状態を、作者は「霊感」として、それは「愛」の表現の一部であると書いています。
=======================
コニー(カトリック、8歳少女)はこんなことを言っていた。
「天国も地獄もこの世にある。わたしたちがほほ笑むか、それともいやな顔をするかで、天国か地獄を選んでくるの」
=======================
コニーはイエスを敬っていたが、同時に不安も抱いていた。
「わたしがイエス様の時間をおりすぎているのではないかと心配になる」とコニーは打ち明けた。
イエスがコニーのことをどう思っているのかも、彼女の心配の種だった。
=======================
コニーは、一度捉えたら二度と放さないと言う悪魔の独占欲に、恐怖心と共に好奇心も感じていた。
「悪魔はいったいどうやって、そんなにたくさんの人の心をとらえてずっとはなさないでいるのかなあ」
=======================
コニーは精神の働きである良心(超自我)に困難な仕事を課していた。
「わたしを見ているが神様の目なのか、悪魔の目なのかたしかめるようにしている」というのである。
=======================
→神聖で超越的な視点を認めると、そこでは神様や悪魔のような概念も渾然一体になってくる。
神聖な存在に思いを巡らす行為が、人間の倫理観(善悪の基準)の大元になっているようにも思いますね。
法律的な善悪というのは人間が決めた基準。いつでも変わり得るものです。
それを間違って解釈すると、「法をおかさないかわいいんだ」という理屈が成立してしまいます。
本当に根源的な倫理観と言うのは、法律などを越えたもっと普遍的な価値観でしょうし、そちらの方がより重要な気がします。
■第2章 ホピの少女に学ぶ
ホピ族の10歳の少女
=======================
「空がわたしたちのことを見ていて、わたしたちの言うことを聞いてくれる。
空はわたしたちに話しかける。そしてわたしたちの返事を待っているの。
空には白人の神様が住んでいるって先生が言っていた。
あなたたちの神様はどこに住んでいるのでしょうって先生が聞くから、
わたしは知りませんって答えた。
だって本当に知らないんですもの!
わたしたちの神様は空。
だから空のあるところには必ずいる。
太陽も月もわたしたちの神様。
それにホピ族の人たちも。
わたしたちはここに住んでいなければならないの。
ここから離れたら、神様も消えてしまうから。」
=======================
→ホピ族(Hopi)はアメリカ・インディアンの部族のひとつ。「ホピ(Hopi)」は「平和の民」という意味です。
ホピ族はマヤ文明の末裔とされていて、「ホピの予言」という神さまからの預言を持つことで有名ですよね。
そんな貴重な古代の思考を保存しているホピ族の10歳の子供発言は深いです。
自然そのものすべてに神聖を感じるのは、日本の神道と相通じるものを感じますね。
=======================
「白人はわたしたちの言う事に耳を貸さない、自分たちの言う事しか耳に入らないって、四六時中白人と付き合っているお父さんが言ってた。
おばあちゃんはね、白人は空をせいふくしようとしているけど、わたしたちは空に祈りをささげるために生きているって。
せいふくしようとする人に話しても無駄だから、白人の分もいのるしかないって。
だからわたしたちはただニヤニヤして白人にイエスばかり言うのよ。
そしてあの人たちのためにいのるだけ」
=======================
=======================
少女は嵐でも起こりそうな不気味な入道雲のふくらんだところを指さした。
そこが「やかましい音のおうち」だと少女は言った。
彼女は、「わたしたちの中にもやかましい音のおうちがあるのよ」と言う。
彼女は「自然」をいかに真剣に受け止めているかを話してくれた。
人間は自然のアウトサイダーではなく、自然の一部であると説いた。
=======================
=======================
「ナバホ族がほしがっている土地は、わたしたちホピ族のためにここにある土地なのよ。
わたしたちがここから出て行ったら土地はさびしがるわ。土地には違いが分かるの。
ナバホ族は地面を掘ってものを作りたいの。だから土地を切り刻んでしまう。
ここが静かになったら、ほんとうに静かになったらナバホ族もわたしたちも白人も、みんな神様といっしょになる。
そのとき、この土地はわたしたちのものではなく、神様のものになるの。
そのときまで、誰もこの土地をきずつけないようわたしたちがここで見守る。
そのときが来たら私たちの役目は終わるから、どこかへ行ってもいいの。」
=======================
→こういうホピ族の少女の感性はほんとうに素晴らしいですね。
日本でも、子どものこういう感性をつぶさないように育て、花開くようにしたいものですよね。
大人の世界は、子どものこうした美しい世界を簡単にふみにじりがちです。それは、まるで自分が子ども時代にされたことに対する復讐のようなものかもしれませんが、その復讐クロニクルは、どこかで断ち切らないといけません。
=======================
イエスは次のように語った時、子どもの霊的な世界の豊かさを言っていたのである。
「幼子を私のところに来させなさい。彼らの中にこそ神の国が宿っているのだ。」
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■第3章 神の顔
12歳の少女マーサ
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「わたしたちと同じような顔だなんて誰が言ったの?
わたしたちとは似ても似つかなかったらどうするの!
神様には顔がないかもしれないし、全部が目かもしれない!
神様はわたしたちのことを見守っていなければならないから目はなくちゃね。
わかんないよ本当のところ。
もしかしたら、神様はわたしたちのことなんか気にしてないのかも。
少なくとも最後の審判の日まではね。」
=======================
→神様を人格としてではなく「視点」としてとらえると言うのは、ある種の「良心」の存在と近いのかもしれない。「内なる声」。
10歳の男の子
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「神様はみんなの神様でしょ。
だから神様は白人でもなければ黒人でもない。茶色の肌でもない。
みんなの肌の色と目の色をしているはずだ。
でもそれがどんな色なのか考えもつかないから、(クレヨンや絵の具じゃなくて)鉛筆で描くようにするよ。」
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→こういう子どもの素朴な考えを洗脳しないようにしないといけない。
12歳の少年マーク
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「神様は無視されるのがいちばんつらいんだ。無視されると悲しむ。それが顔にあらわれるんだ。
だからといってみやみにあがめられたいと思っているわけでもないんだよ。
神様がどういう人かわかって、それであがめてほしいんだ。」
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「おいのりしているとき、神様がすぐ横にいると思う事がある。
かと思うと、ぼくなんかをはげましている場合じゃないって思う事もよくあるよ。
でも神様は上からぼくを見下ろしている。ぼくが死ぬ時もそうだよ、きっと。
神様のところに行くと神様はぼくをじっくり見てどうするか決めるんだ!
ぼくたちはベストをつくすためにこの世にいる。
ベストを尽くせば、神様とはいい出会いになるさ。」
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「ぼくたちは一人ひとり神様に会いに行かなきゃいけない。神様に自分をさらけだなきゃ。
それで神様にお願いすればきっと聞いてくれる。
なぜかって?だって人間同士だって相手を知らなくては助けようがないでしょ?神様だって同じさ。」
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「正しい祈り方とか間違った祈り方なんてないと思うよ。母さんも言ってた。
神様を知る方法は、それぞれの人が見つけるんだって。」
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→この子も、何か自分の中の内なる「神性」を理解するために、一度外部化して客観化して理解しようと努力しているように思えます。
結局は、自分の中にあるものとが反応しているんですよね。
12歳のソフィア
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「神様を見た時、大きいマントのようなものを着ていたけど、見えたのは顔だけ。
それが大きいんだ!
なにか大事なことを言ってたみたいだけど、わからなかった。
目もそれまで見たことがないくらい大きかった。おでこも大きくてしわだらけ。かみの毛は白髪まじり。
話しているから口は開いていた。
おぼえてるのはそれだけだけど、わたしたちのことを見ていたわけじゃないんだよ。
何かをみつめていたけど、わたしたちじゃなかったみたい。
神様は人間をまともに見ることはしないんじゃないかな。
顔は見ないで見透かすような感じ。
みんなを見ているから、一人ひとりの目は見ないのかもしれないね。」
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→この子も、超個人的なイメージを持っている。
個人の現世利益としての神様ではなくて、人類や地球全体という全体性に対する神様のイメージ。
小学4年生のトミー
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「神様って星みたいなのかもしれない。それとも地球みたいなのかな。
地球でいちばん手ごわいのは神様なのかもしれない。」
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「神様を思い描くときは、神様を信用しなきゃね。」
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→子どもの豊かな内的対話を聞いているよう。
■第4章 神の声
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「イエス様のことを愛してますって言っても、
まばたきひとつしやしない。
なんにも聞こえてこない。
でもすっごく落ち込んでイエス様のことなんか思っていないとき、
自分のことであたまがいっぱいで、
あたしたち兄弟がどうなるのか心配してるときなんか、
急に話しかけてきてびっくりすることがある」
=======================
→この辺りも、「自我(Ego)」との関係性での神様が表現されているような。
「自我(Ego)」の支配からふっと抜けたとき、その時でも自分を動かす何かが存在していて、その「何か」と「神様」とがリンクしている。ユング的に言うと「自己(Self)」なのだろう。
■第5章 死の床からのまなざし
11歳の少年トニー
=======================
「ぼくたちがまだ生きているってことは、
神様がぼくについて会議を開いて、
もうしばらく保留にしておこう、
友だちと同じころに死ねるよう、
もうしばらくいさせてやろうと決めたのかもしれないね。
ぼく、入れてもらえるならすぐ天国に行きたい。
でも思ったんだけど、
いま天国に行っても友だちはまだしばらく来ないんだから、
さびしいよね。」
=======================
「ぼくは生きのびる資格があったと思いたい。
神様がほほ笑みながら、ここにいていいよって言ってくれる資格がね。」
=======================
→病や死に直面すると、どんな人でも超越的なものを考えると思います。
そのとき、その人なりのカミサマや神聖なるもの、もしくは本当の内なる声との対話が生まれるように思いますね。
死んだらあの世には何も持っていけないわけですから、自分が本当に求めているものは何か、ということに直面せざるをえないわけです。
■第6章 哲学するこどもたち
9歳の少女
=======================
「地球は実験なんだって、おじいちゃんが数年前に言ってたけど、
その通りだと思うんだ!
神様は人間をつくってみて、この惑星をくれた。
そこで好きなように生き、悪いことも思うぞんぶんやらせたわけ。
そうしたら、ほんとうに思う存分悪いことをしちゃった。
実験で人間はひどい目にあったけど、
いい人がいることもわかった。
そしていつの日か、神様は実験の成果について考える。
どうやってそれをやるのか、
どうやって成功かどうか決めるのかわからないけど。」
=======================
→この世界の創造主としての「神さま」への哲学的な対話。
人類も地球も、人間が作ったわけではない、ということは当然のことなので、それを思うだけでも謙虚になれるような気がします。
9歳の少年ギル
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「神様をみつけられたらいいなあ。
でも宇宙のどこかに神様がいて、宇宙船が着陸するのを待ってるなんてありえないよね。
だって神様は人じゃない。霊なんだもの。
きりや、かすみみたいな。地球では見たことがないようなものかもしれない。
だったら僕たちには分かるはずがないよね、あんまり違いすぎて。似たようなものがないから想像もできない。
だからぼくもこの点については分別をつかったほうがいい。
神様は神様、僕たちはぼくたちって。
空を見上げるとき、たぶんぼくは自分の考えを神様にとどかせようとしてるんだ。」
=======================
→かみさまはかみさまの仕事やお役目があるように、人間にも人間なりの仕事やお役目があるようです。
「かみさま」を巡る思考も、結局は「では自分はどうするのか」というところに戻ってくるように思いますね。
かみさまに責任転嫁したり、言い訳や屁理屈の対象にしてはいけないように思います。
■第7章 子どもの霊的ビジョン
=======================
「ナタリー、おちつきな。
今日をなんとか生きな。
時間は自然に立つのだし、
夜になったら、どこへでもすきなところに行けばいい!
あっというまにこの人生はおわり、
気がついたらつぎの人生の半分くらいおわってたりするものさ。
だからあわてない、あわてない。
自然に終わるまで人生を楽しもうよ。」
=======================
■第8章 絵に表された信仰
=======================
「いちばんいいのは床にひざまずきながらベッドにしがみついて、
きかないひざをなるべくまげてお祈りすること。
神様に向かってハミングするんだ。それから歌う。いつか救われるって。
つらい気持ちをブルースにして唄うんだ。おばあちゃんに言われたように。
自分の足に話しかけるんだ。
こんなことになっちゃってごめん、本当にごめん、って。
おまえたちのことは忘れないよって。
おまえたちのできないぶん、腕と腰から上でがんばるからって。
足のためにおいのりするんだ。」
=======================
→足が不自由な女の子の神さまとの対話です。
この第8章では「神さま」に対するイメージが子供の絵で表現されていますが、これは本を読んでもらうことにしましょう。
■第9章 キリスト教における救済
=======================
「神様とぼくたちはしっかり結び付いてるんだね。
ぼくたちは救われたいし、
神様はぼくたちを救いたいし。」
=======================
→キリスト教の子どもですが、微妙に宗教の違いによる言葉の使い方の差異がでますね。
<救う>という救済のイメージがそうです。
宗教間での違いに注目することと同じくらい、宗教間での共通点に注目することも大事だと思いますね。
■第10章 イスラム教における服従
=======================
「アッラーに選ばれなきゃ。
でも選ばれるには、
まずこっちがアッラーを選ばなくてはだめなのよ!わかる?
おいのりをして、自分はアッラーのもので、
アッラーのためならいのちだっておしまないと信じていることが
アッラーに通じれば味方になってくれる。
そうなれば、いくら悪魔とその兵隊にせめられたってだいじょうぶ。
わたしたちがアッラーに服従すれば悪魔を服従されてくれるわけよ!」
=======================
→兵隊とか服従とか、やや闘争のイメージが出てきますね。
■第11章 ユダヤ教における正義
=======================
「ぼくはだれにも、こうしろとかああしろとか言いたくない。
たとえ相手が自分の兄弟だって。
自分に言い聞かせればそれでいいんだ。」
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→自分なりの信仰の道。
ひとそれぞれ、信じている者は違うようで微妙に違うものです。
■第12章 宗教にとらわれない自己探求
=======================
「わたし、夜おいのりするんだけど、
ときどきあとでねながら考えてしまうの。
どうしてわたしがいまここにいるのかとか、
どうして他の人じゃなくてわたしが生まれたのかとか。
そういうこと考える人はいっぱいいるはずよね。
どうしても気になる人が。」
=======================
→自分の、夜になる前にこういうことはよく考えていました。
というか、いまだにしょっちゅう考えていますが・・・・(^^;
■第13章 巡礼する子どもたち
=======================
「わたしもあんなふうに年をとるのかなぁって考えた。
そんなとき、わたしみたいな子供に出会うかもしれない。
神様はずっと先に何が起こるかちょっとだけ教えてくれるために、
あのおばあさんに出会うようにしたのかもしれない。
そういうことには気をつけなきゃ。
だって神様がわたしに話しかけているのだから。」
=======================
→「巡礼」という形で外的世界を移動することは、おそらく自分の中にある不安定な心を旅させている内的なプロセスと一致しているのだと思います。だからこそ、人は旅に出る。
外に旅をする人もいれば、内的な宇宙旅行をする人もいる。人それぞれですね。
子どもは、人生という長く果てしない魂の旅に出発したばかりの巡礼者なのです。
・・・・・・・・・・・・
最後に、ホピ族の少女(10歳)のイメージと、膨大な子供のインタビューをした作者ロバート・コールズがふと文章内で漏らした言葉をご紹介します。
こういうイメージは素晴らしいです。
僕らは「子ども」や「お年寄り」などの声に、もっともっと耳を傾けて行った方がいいと思いますね。
ホピ族の少女ナタリー(10歳)
=======================
「ブラッキー(少女の愛犬)と散歩していたとき、空にけむりのすじを見たの。
ひこうき雲。いったいだれがのっているのかなって思った。
わたし、ひこう場に行ったことないんだ。
学校で写真は見せてもらったことはあるけど。
ブラッキーと二人でひこうきにのっているところをそうぞうした、太陽にむかってどんどんとぶところをね! そんなことしたらひこうきがとけちゃうって知っているよ。
太陽に近づくと、なんだってとけちゃうって学校で習ったもの。
でもたましいまではとかせないよ!
わたしたちはお日様やお星様に手をふるんだ。
光をおくってありがとうって。ずっとずっと前のおくりものを、いまわたしたちがうけとっているんだよね。
わたしって空想するのがとくいなんだ!
ホピ族のご先祖様たちに会って、先のことを話したい。
みんながまたいっしょになれるときのことを。
川には水がたっぷり流れていて、お日様が地球のさむいところをあたためて、すっごくあついところは少しのあいだあまりてりつけないようにする。
そして世界の人が大きな輪にすわる。
みんな、きょうだいってわけ!
そのとき世界中の霊が出てきておどりくるう。星もお日様も月もよ。鳥たちも地面にまい下りておどる。人間たちがそこらじゅうでおどったり、またすわって輪をつくったり。
輪はすっごく大きいから、メサの上に立って地平線のほうを見ても、どこまでつづいているかわからない。
でもみんなうれしそう。けんかなんかしない。
けんかするのは、まいごになって、先祖のことをわすれて、わるいことをしでかすから。
いつか、みんなが大きい輪になって手をつなげるときがくる。
ホピ族だけじゃなくて、みんなよ。
そうなったらほんとうに《いい》んだよね。
先生が良いこと、良いものの例をあげなさいって言ったことがあるの。
ブラッキーはいいよ。だってだれもきずつけないもん。
この世界もみんなが大きな輪をつくれるようになったらいいね。
ぐるぐる回りながら、世界中の人がその輪に入ってきたらさ」
=======================
=======================
子供たちが探し求めているのは、ひょっとして彼ら自身ではないか、神について一生懸命考えたり思い浮かべたりし、神のイメージに近づこうとあたまをひねり、自分を変えようとしている幼い心こそ、神そのものではないかという思いにかられた。
=======================
3990円とややお高いかもしれませんし、大きな本屋にしか置いてないかもしれませんが(神保町の東京堂書店でも、在庫希少、として置いてあった。全部で370ページと厚く、しかも文字が小さいのですごいVolume!)、地道なインタビューにまとめられた良書だと思います。
映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)が素晴らしかったので、ふとこの本を思い出して部屋の奥底から探して読んでみたのです。
原題は
「The Spiritual life of Children」
というもの。
子どもは、どういうSpiritual lifeを持っているのか、世界の子どもたちの心の世界のフィールドワークの本です。
作者はピュリッツァー賞も受賞している児童心理学者ロバート・コールズ。
特にホビ族の少女の話が素晴らしかったですが、
それ以外にもキリスト教・ユダヤ教・イスラム教、無宗教・・・
の少年少女の話が色々とりあげられています。
自分が子供の時を振り返ってもそうですが、幼い子供はかなり哲学的なことを考え、いろいろとおとなが作り出した社会の欺瞞を分かっているものです。
実際、自分も6歳?くらいの時に、何かすべてが分かったような(梵我一如?ワンネス?)、妙なインスピレーションを近所の山の中で感じた記憶があります。
大人の世界で作られている奇妙なルールや常識で社会が作られていることも、小学校低学年の時期にはほとんどわかっていました。だからこそ、ああいう世界に染まりたくないと強く思ったもので。いまだにその感覚は持ち続けています。
中高時代も、学校の勉強にはまったく関心が向かず、宇宙の始まりや終わり、なぜ人間が生まれてきたのか、生や死とは、わたしとは何か・・・そういう哲学的で答えがないことばかり日々考えていました。学校の勉強には興味が持てなかった子どもでした。
子どもの頃は、世間からの偏見や固定観念も少ない時期。
だからこそ、どの程度そういうのを受け入れるのか、どの程度自分なりに自分の頭で考えてみるか、そういうバランスを作っていく大事な時期でもあります。
子どもは「言葉」をまだ獲得していないので、自分の崇高な考えをうまく言葉で表現することができません。絵画や音楽の技術を持っているわけでもないので、その他の表現手段でうまく表現することができません。
ただ、うまく表現できないからと言って、その内的世界が何もないと誤解すると大間違いです。単に、表現するコトバを持たないだけです。それは、こどもの発信側の問題にすることは簡単ですが、こちら受け手の、受信側の問題でもあると思いますね。
映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)を見ても思いましたが、子供が「言語」という巨大な体系を獲得していくことで、「胎内記憶」「中間生記憶」・・・のようなものは無意識的に言語世界から「非合理的」とレッテルを張られ、記憶の奥底にしまわれていくものなのかもしれませんね。
だからこそ、まだ言葉が未熟なこどもたちは多くのことを記憶している。でも、それをうまく表現する手段を持たないので、うまく表現できないだけ。
そういうことをふと思いました。
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以下、ロバート・コールズ「子どもの神秘生活(The Spiritual life of Children)」工作舎(1997/6/20)の本文から、子どもたちの面白い発言をご紹介します。
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「どこにたましいがあると思うかは、
それほど大事じゃないの。
大事なのは、そのたましいで何を探すかよ。
えっ、何を探すかって?
・・・・
生きるっていう事がなんのか、
そのなぞを解く手がかりかな。」
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→実在論(あるかなしか)を追求していると、一生かかっても終わりません。
「愛」も、別にみんなが実在(あるかなしか)を証明してから使うわけではないのと同じものですよね。
感じられるままの世界を素直に生きていくことで、何かを発見していくための手段に過ぎないのだと思います。
■第1章 神や霊の世界は幻想にすぎないか
コニー(カトリック、8歳少女)
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「この大きな世界は神様の心配の種なのだけど、
わたしだって心配してる。
だって、わたしは神様のものなんだもの。」
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→このコニーは常に神さまを傍に感じている子でした。
神聖な感覚を常に感じることは素晴らしいことですよね。
それを人格的に神様とするか、神聖なものが漂う漠然とした雰囲気として曖昧に捉えるか、その辺りは文化や言語の差による違いのようで、本質は同じことかな、と思います。
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霊感とは特殊な心理状態をさし、一種独特な愛の表現である。
「愛」とは、リズ―トの言葉を借りれば「生きている神」、すなわち救い主としての神という特定の「表象」に対する愛である。
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→コニーの状態を、作者は「霊感」として、それは「愛」の表現の一部であると書いています。
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コニー(カトリック、8歳少女)はこんなことを言っていた。
「天国も地獄もこの世にある。わたしたちがほほ笑むか、それともいやな顔をするかで、天国か地獄を選んでくるの」
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コニーはイエスを敬っていたが、同時に不安も抱いていた。
「わたしがイエス様の時間をおりすぎているのではないかと心配になる」とコニーは打ち明けた。
イエスがコニーのことをどう思っているのかも、彼女の心配の種だった。
=======================
コニーは、一度捉えたら二度と放さないと言う悪魔の独占欲に、恐怖心と共に好奇心も感じていた。
「悪魔はいったいどうやって、そんなにたくさんの人の心をとらえてずっとはなさないでいるのかなあ」
=======================
コニーは精神の働きである良心(超自我)に困難な仕事を課していた。
「わたしを見ているが神様の目なのか、悪魔の目なのかたしかめるようにしている」というのである。
=======================
→神聖で超越的な視点を認めると、そこでは神様や悪魔のような概念も渾然一体になってくる。
神聖な存在に思いを巡らす行為が、人間の倫理観(善悪の基準)の大元になっているようにも思いますね。
法律的な善悪というのは人間が決めた基準。いつでも変わり得るものです。
それを間違って解釈すると、「法をおかさないかわいいんだ」という理屈が成立してしまいます。
本当に根源的な倫理観と言うのは、法律などを越えたもっと普遍的な価値観でしょうし、そちらの方がより重要な気がします。
■第2章 ホピの少女に学ぶ
ホピ族の10歳の少女
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「空がわたしたちのことを見ていて、わたしたちの言うことを聞いてくれる。
空はわたしたちに話しかける。そしてわたしたちの返事を待っているの。
空には白人の神様が住んでいるって先生が言っていた。
あなたたちの神様はどこに住んでいるのでしょうって先生が聞くから、
わたしは知りませんって答えた。
だって本当に知らないんですもの!
わたしたちの神様は空。
だから空のあるところには必ずいる。
太陽も月もわたしたちの神様。
それにホピ族の人たちも。
わたしたちはここに住んでいなければならないの。
ここから離れたら、神様も消えてしまうから。」
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→ホピ族(Hopi)はアメリカ・インディアンの部族のひとつ。「ホピ(Hopi)」は「平和の民」という意味です。
ホピ族はマヤ文明の末裔とされていて、「ホピの予言」という神さまからの預言を持つことで有名ですよね。
そんな貴重な古代の思考を保存しているホピ族の10歳の子供発言は深いです。
自然そのものすべてに神聖を感じるのは、日本の神道と相通じるものを感じますね。
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「白人はわたしたちの言う事に耳を貸さない、自分たちの言う事しか耳に入らないって、四六時中白人と付き合っているお父さんが言ってた。
おばあちゃんはね、白人は空をせいふくしようとしているけど、わたしたちは空に祈りをささげるために生きているって。
せいふくしようとする人に話しても無駄だから、白人の分もいのるしかないって。
だからわたしたちはただニヤニヤして白人にイエスばかり言うのよ。
そしてあの人たちのためにいのるだけ」
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少女は嵐でも起こりそうな不気味な入道雲のふくらんだところを指さした。
そこが「やかましい音のおうち」だと少女は言った。
彼女は、「わたしたちの中にもやかましい音のおうちがあるのよ」と言う。
彼女は「自然」をいかに真剣に受け止めているかを話してくれた。
人間は自然のアウトサイダーではなく、自然の一部であると説いた。
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「ナバホ族がほしがっている土地は、わたしたちホピ族のためにここにある土地なのよ。
わたしたちがここから出て行ったら土地はさびしがるわ。土地には違いが分かるの。
ナバホ族は地面を掘ってものを作りたいの。だから土地を切り刻んでしまう。
ここが静かになったら、ほんとうに静かになったらナバホ族もわたしたちも白人も、みんな神様といっしょになる。
そのとき、この土地はわたしたちのものではなく、神様のものになるの。
そのときまで、誰もこの土地をきずつけないようわたしたちがここで見守る。
そのときが来たら私たちの役目は終わるから、どこかへ行ってもいいの。」
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→こういうホピ族の少女の感性はほんとうに素晴らしいですね。
日本でも、子どものこういう感性をつぶさないように育て、花開くようにしたいものですよね。
大人の世界は、子どものこうした美しい世界を簡単にふみにじりがちです。それは、まるで自分が子ども時代にされたことに対する復讐のようなものかもしれませんが、その復讐クロニクルは、どこかで断ち切らないといけません。
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イエスは次のように語った時、子どもの霊的な世界の豊かさを言っていたのである。
「幼子を私のところに来させなさい。彼らの中にこそ神の国が宿っているのだ。」
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■第3章 神の顔
12歳の少女マーサ
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「わたしたちと同じような顔だなんて誰が言ったの?
わたしたちとは似ても似つかなかったらどうするの!
神様には顔がないかもしれないし、全部が目かもしれない!
神様はわたしたちのことを見守っていなければならないから目はなくちゃね。
わかんないよ本当のところ。
もしかしたら、神様はわたしたちのことなんか気にしてないのかも。
少なくとも最後の審判の日まではね。」
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→神様を人格としてではなく「視点」としてとらえると言うのは、ある種の「良心」の存在と近いのかもしれない。「内なる声」。
10歳の男の子
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「神様はみんなの神様でしょ。
だから神様は白人でもなければ黒人でもない。茶色の肌でもない。
みんなの肌の色と目の色をしているはずだ。
でもそれがどんな色なのか考えもつかないから、(クレヨンや絵の具じゃなくて)鉛筆で描くようにするよ。」
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→こういう子どもの素朴な考えを洗脳しないようにしないといけない。
12歳の少年マーク
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「神様は無視されるのがいちばんつらいんだ。無視されると悲しむ。それが顔にあらわれるんだ。
だからといってみやみにあがめられたいと思っているわけでもないんだよ。
神様がどういう人かわかって、それであがめてほしいんだ。」
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「おいのりしているとき、神様がすぐ横にいると思う事がある。
かと思うと、ぼくなんかをはげましている場合じゃないって思う事もよくあるよ。
でも神様は上からぼくを見下ろしている。ぼくが死ぬ時もそうだよ、きっと。
神様のところに行くと神様はぼくをじっくり見てどうするか決めるんだ!
ぼくたちはベストをつくすためにこの世にいる。
ベストを尽くせば、神様とはいい出会いになるさ。」
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「ぼくたちは一人ひとり神様に会いに行かなきゃいけない。神様に自分をさらけだなきゃ。
それで神様にお願いすればきっと聞いてくれる。
なぜかって?だって人間同士だって相手を知らなくては助けようがないでしょ?神様だって同じさ。」
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「正しい祈り方とか間違った祈り方なんてないと思うよ。母さんも言ってた。
神様を知る方法は、それぞれの人が見つけるんだって。」
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→この子も、何か自分の中の内なる「神性」を理解するために、一度外部化して客観化して理解しようと努力しているように思えます。
結局は、自分の中にあるものとが反応しているんですよね。
12歳のソフィア
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「神様を見た時、大きいマントのようなものを着ていたけど、見えたのは顔だけ。
それが大きいんだ!
なにか大事なことを言ってたみたいだけど、わからなかった。
目もそれまで見たことがないくらい大きかった。おでこも大きくてしわだらけ。かみの毛は白髪まじり。
話しているから口は開いていた。
おぼえてるのはそれだけだけど、わたしたちのことを見ていたわけじゃないんだよ。
何かをみつめていたけど、わたしたちじゃなかったみたい。
神様は人間をまともに見ることはしないんじゃないかな。
顔は見ないで見透かすような感じ。
みんなを見ているから、一人ひとりの目は見ないのかもしれないね。」
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→この子も、超個人的なイメージを持っている。
個人の現世利益としての神様ではなくて、人類や地球全体という全体性に対する神様のイメージ。
小学4年生のトミー
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「神様って星みたいなのかもしれない。それとも地球みたいなのかな。
地球でいちばん手ごわいのは神様なのかもしれない。」
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「神様を思い描くときは、神様を信用しなきゃね。」
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→子どもの豊かな内的対話を聞いているよう。
■第4章 神の声
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「イエス様のことを愛してますって言っても、
まばたきひとつしやしない。
なんにも聞こえてこない。
でもすっごく落ち込んでイエス様のことなんか思っていないとき、
自分のことであたまがいっぱいで、
あたしたち兄弟がどうなるのか心配してるときなんか、
急に話しかけてきてびっくりすることがある」
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→この辺りも、「自我(Ego)」との関係性での神様が表現されているような。
「自我(Ego)」の支配からふっと抜けたとき、その時でも自分を動かす何かが存在していて、その「何か」と「神様」とがリンクしている。ユング的に言うと「自己(Self)」なのだろう。
■第5章 死の床からのまなざし
11歳の少年トニー
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「ぼくたちがまだ生きているってことは、
神様がぼくについて会議を開いて、
もうしばらく保留にしておこう、
友だちと同じころに死ねるよう、
もうしばらくいさせてやろうと決めたのかもしれないね。
ぼく、入れてもらえるならすぐ天国に行きたい。
でも思ったんだけど、
いま天国に行っても友だちはまだしばらく来ないんだから、
さびしいよね。」
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「ぼくは生きのびる資格があったと思いたい。
神様がほほ笑みながら、ここにいていいよって言ってくれる資格がね。」
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→病や死に直面すると、どんな人でも超越的なものを考えると思います。
そのとき、その人なりのカミサマや神聖なるもの、もしくは本当の内なる声との対話が生まれるように思いますね。
死んだらあの世には何も持っていけないわけですから、自分が本当に求めているものは何か、ということに直面せざるをえないわけです。
■第6章 哲学するこどもたち
9歳の少女
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「地球は実験なんだって、おじいちゃんが数年前に言ってたけど、
その通りだと思うんだ!
神様は人間をつくってみて、この惑星をくれた。
そこで好きなように生き、悪いことも思うぞんぶんやらせたわけ。
そうしたら、ほんとうに思う存分悪いことをしちゃった。
実験で人間はひどい目にあったけど、
いい人がいることもわかった。
そしていつの日か、神様は実験の成果について考える。
どうやってそれをやるのか、
どうやって成功かどうか決めるのかわからないけど。」
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→この世界の創造主としての「神さま」への哲学的な対話。
人類も地球も、人間が作ったわけではない、ということは当然のことなので、それを思うだけでも謙虚になれるような気がします。
9歳の少年ギル
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「神様をみつけられたらいいなあ。
でも宇宙のどこかに神様がいて、宇宙船が着陸するのを待ってるなんてありえないよね。
だって神様は人じゃない。霊なんだもの。
きりや、かすみみたいな。地球では見たことがないようなものかもしれない。
だったら僕たちには分かるはずがないよね、あんまり違いすぎて。似たようなものがないから想像もできない。
だからぼくもこの点については分別をつかったほうがいい。
神様は神様、僕たちはぼくたちって。
空を見上げるとき、たぶんぼくは自分の考えを神様にとどかせようとしてるんだ。」
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→かみさまはかみさまの仕事やお役目があるように、人間にも人間なりの仕事やお役目があるようです。
「かみさま」を巡る思考も、結局は「では自分はどうするのか」というところに戻ってくるように思いますね。
かみさまに責任転嫁したり、言い訳や屁理屈の対象にしてはいけないように思います。
■第7章 子どもの霊的ビジョン
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「ナタリー、おちつきな。
今日をなんとか生きな。
時間は自然に立つのだし、
夜になったら、どこへでもすきなところに行けばいい!
あっというまにこの人生はおわり、
気がついたらつぎの人生の半分くらいおわってたりするものさ。
だからあわてない、あわてない。
自然に終わるまで人生を楽しもうよ。」
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■第8章 絵に表された信仰
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「いちばんいいのは床にひざまずきながらベッドにしがみついて、
きかないひざをなるべくまげてお祈りすること。
神様に向かってハミングするんだ。それから歌う。いつか救われるって。
つらい気持ちをブルースにして唄うんだ。おばあちゃんに言われたように。
自分の足に話しかけるんだ。
こんなことになっちゃってごめん、本当にごめん、って。
おまえたちのことは忘れないよって。
おまえたちのできないぶん、腕と腰から上でがんばるからって。
足のためにおいのりするんだ。」
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→足が不自由な女の子の神さまとの対話です。
この第8章では「神さま」に対するイメージが子供の絵で表現されていますが、これは本を読んでもらうことにしましょう。
■第9章 キリスト教における救済
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「神様とぼくたちはしっかり結び付いてるんだね。
ぼくたちは救われたいし、
神様はぼくたちを救いたいし。」
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→キリスト教の子どもですが、微妙に宗教の違いによる言葉の使い方の差異がでますね。
<救う>という救済のイメージがそうです。
宗教間での違いに注目することと同じくらい、宗教間での共通点に注目することも大事だと思いますね。
■第10章 イスラム教における服従
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「アッラーに選ばれなきゃ。
でも選ばれるには、
まずこっちがアッラーを選ばなくてはだめなのよ!わかる?
おいのりをして、自分はアッラーのもので、
アッラーのためならいのちだっておしまないと信じていることが
アッラーに通じれば味方になってくれる。
そうなれば、いくら悪魔とその兵隊にせめられたってだいじょうぶ。
わたしたちがアッラーに服従すれば悪魔を服従されてくれるわけよ!」
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→兵隊とか服従とか、やや闘争のイメージが出てきますね。
■第11章 ユダヤ教における正義
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「ぼくはだれにも、こうしろとかああしろとか言いたくない。
たとえ相手が自分の兄弟だって。
自分に言い聞かせればそれでいいんだ。」
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→自分なりの信仰の道。
ひとそれぞれ、信じている者は違うようで微妙に違うものです。
■第12章 宗教にとらわれない自己探求
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「わたし、夜おいのりするんだけど、
ときどきあとでねながら考えてしまうの。
どうしてわたしがいまここにいるのかとか、
どうして他の人じゃなくてわたしが生まれたのかとか。
そういうこと考える人はいっぱいいるはずよね。
どうしても気になる人が。」
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→自分の、夜になる前にこういうことはよく考えていました。
というか、いまだにしょっちゅう考えていますが・・・・(^^;
■第13章 巡礼する子どもたち
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「わたしもあんなふうに年をとるのかなぁって考えた。
そんなとき、わたしみたいな子供に出会うかもしれない。
神様はずっと先に何が起こるかちょっとだけ教えてくれるために、
あのおばあさんに出会うようにしたのかもしれない。
そういうことには気をつけなきゃ。
だって神様がわたしに話しかけているのだから。」
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→「巡礼」という形で外的世界を移動することは、おそらく自分の中にある不安定な心を旅させている内的なプロセスと一致しているのだと思います。だからこそ、人は旅に出る。
外に旅をする人もいれば、内的な宇宙旅行をする人もいる。人それぞれですね。
子どもは、人生という長く果てしない魂の旅に出発したばかりの巡礼者なのです。
・・・・・・・・・・・・
最後に、ホピ族の少女(10歳)のイメージと、膨大な子供のインタビューをした作者ロバート・コールズがふと文章内で漏らした言葉をご紹介します。
こういうイメージは素晴らしいです。
僕らは「子ども」や「お年寄り」などの声に、もっともっと耳を傾けて行った方がいいと思いますね。
ホピ族の少女ナタリー(10歳)
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「ブラッキー(少女の愛犬)と散歩していたとき、空にけむりのすじを見たの。
ひこうき雲。いったいだれがのっているのかなって思った。
わたし、ひこう場に行ったことないんだ。
学校で写真は見せてもらったことはあるけど。
ブラッキーと二人でひこうきにのっているところをそうぞうした、太陽にむかってどんどんとぶところをね! そんなことしたらひこうきがとけちゃうって知っているよ。
太陽に近づくと、なんだってとけちゃうって学校で習ったもの。
でもたましいまではとかせないよ!
わたしたちはお日様やお星様に手をふるんだ。
光をおくってありがとうって。ずっとずっと前のおくりものを、いまわたしたちがうけとっているんだよね。
わたしって空想するのがとくいなんだ!
ホピ族のご先祖様たちに会って、先のことを話したい。
みんながまたいっしょになれるときのことを。
川には水がたっぷり流れていて、お日様が地球のさむいところをあたためて、すっごくあついところは少しのあいだあまりてりつけないようにする。
そして世界の人が大きな輪にすわる。
みんな、きょうだいってわけ!
そのとき世界中の霊が出てきておどりくるう。星もお日様も月もよ。鳥たちも地面にまい下りておどる。人間たちがそこらじゅうでおどったり、またすわって輪をつくったり。
輪はすっごく大きいから、メサの上に立って地平線のほうを見ても、どこまでつづいているかわからない。
でもみんなうれしそう。けんかなんかしない。
けんかするのは、まいごになって、先祖のことをわすれて、わるいことをしでかすから。
いつか、みんなが大きい輪になって手をつなげるときがくる。
ホピ族だけじゃなくて、みんなよ。
そうなったらほんとうに《いい》んだよね。
先生が良いこと、良いものの例をあげなさいって言ったことがあるの。
ブラッキーはいいよ。だってだれもきずつけないもん。
この世界もみんなが大きな輪をつくれるようになったらいいね。
ぐるぐる回りながら、世界中の人がその輪に入ってきたらさ」
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子供たちが探し求めているのは、ひょっとして彼ら自身ではないか、神について一生懸命考えたり思い浮かべたりし、神のイメージに近づこうとあたまをひねり、自分を変えようとしている幼い心こそ、神そのものではないかという思いにかられた。
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3990円とややお高いかもしれませんし、大きな本屋にしか置いてないかもしれませんが(神保町の東京堂書店でも、在庫希少、として置いてあった。全部で370ページと厚く、しかも文字が小さいのですごいVolume!)、地道なインタビューにまとめられた良書だと思います。
それをめんどりが卵を孵すように、一生、心に抱いて、老年になって、卵がヒヨコに孵る時が来たりする。
初心忘れずに生きていて良かったなと思う瞬間。
思いつつ。稲葉さんって夢中になってわーって書くんだろうなあ。
ホピの少女の言葉が素直で身に沁みます。
いつも、読むだけでけっこうエネルギー使うので
コメントなかなか残せないのですが、本当に
いい本ばかり紹介してくれてありがとう☆
ヘレン・ケラーの本は今度読んでみますね(^O^)
スイッチ
おっしゃる通りです。
それぞれ、子供の時に抱いた問いを、形を変えて人生のなかでなんとか解こうとしているように思いますね。子供の時の問いは偏見や先入観がないだけに、問いそのものが本質をズバリついていることが多いです。
自分も、子供の時に感じた問いを、仕事や読書の中で答え続けているような気がしますね。
>スイッチさん
いえいえ。
あとで本を開かなくてもWebで読めるので、こういうのは全然苦にならないんですよ。どれだけでもタイピングできます。目と指が痛くなるだけで。笑
ほんとは、朗読したら全部きちんと活字になるソフトがあると画期的ですよね!!そうなると文字お越しもなくなってすごく楽ですし。
ホピの少女の言葉、いいですよね!!!
そうそう。
読むだけでエネルギー使いますよねー。
ほんと、読者をいたわってなくてすみません・(^^;
ヘレン・ケラーの本も、さきほどUpした<嫌われる勇気>って本も、すごーーくお薦めですよ!(時には、ブログに書いた内容だけで十分、っていう本もあるかもしれませんが、特に<嫌われる勇気>は全部書くと異常な量になるので、本のエッセンスの2割くらいしかあえて書きませんでしたー)