日常

ヘレン・ケラー 光の中へ

2014-03-31 00:06:46 | 
ヘレン・ケラー(Helen Keller)「光の中へ」めるくまーる (1992/10)を読みました。
この本は、「私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る」 未来社 (2013/12/26)として新装版が出ています。

読書とは不思議なもので、なんとなく読みたくなることがあり、それがちょうどベストのタイミングのようなのです。


この本はヘレンケラーが何を信仰していたか。彼女が大切にしていたものはどういう考えか。その奥深き信仰の書とも言えるもの。


ヘレンケラーが最も尊敬していたのはスウェーデンボルグでした。
スウェーデンボルグに関しては、以前も何度か感想書いてますが、大科学者にして、大神秘思想家。あらゆる知識を貪欲に追求した巨人です。未だ彼の凄さは正しく理解されていないような気がします。


「スウェーデンボルグの「天界と地獄」」(2013-03-27)
「スウェーデンボルグの思想―科学から神秘世界へ」(2013-03-12)
一条真也「法則の法則」(2012-04-29)



ヘレン・ケラーがスウェーデンボルグのことを歌った詩も紹介されていました。


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スウェーデンボルグ 天は彼にその高き門の扉を開きたり
訳:根岸愛子

盲(めしい)の我が眼(まなこ)に光を与えし君、
けっして我より遠ざかることなき霊なる者よ!
深き苦悩の時に我は在りても、
汝は我が身の近き処にいまし給う、
聖なる真(まこと)を表す汝の言葉が
輝く宝石のごと、我が魂の内に宿りしゆえに。
死がそのやさしき手にて我を、
我が愛する神の御許(みもと)へ導きゆかんその日まで
此処(ここ)にては闇の中の松明となり、
彼処(かしこ)にては永遠(とこしえ)の我が喜びとならん
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五感のうち三つの感覚の障害を持っていたヘレン・ケラーが語る言葉は重いです。
コトバもそうだけど、その人の人生や生き様そのものに重みがある。
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あらゆる種類の障害は、当人がみずからを開発して真の自由を獲得するように勇気付けるための愛のムチということになります。
それらは、石のように硬い心を切り開いて神からの高尚な贈り物を自分の存在の中から見つけ出すために、私たちの手渡された道具なのです。
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ウォルト・ホイットマン
「我々はみずからの存在自体によって人を説得する」
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ヘレンケラーは、まさに「存在」そのものでいろんな人を感化した人だと思います。
コトバだけでは一時的に熱狂させることはありますが、持続性はないことがあり。そこに存在との共鳴があるからこそ、コトバは響く。



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様々な困難に遭遇して暗闇の中をさすらうとき、私は霊界からの囁きに勇気づけられているのがわかります。
無限の泉から聖なる情熱が降り注いでくるのを感じます。
神の鼓動に合わせて高鳴る調べに、心が奮い立ちます。
見えない絆で太陽や惑星につながれた私の霊魂の、永遠なる炎を感じます。
ここ、この日常の大気の真ん中で、降り注ぐ永遠の慈雨を感じます。
私は、地上の全てを天上の全てと結びつけているものの素晴らしさを知っています。
私は、この世で無音と無明に閉じ込められていながら、死が私を解放した時にはその千倍ものヴィジョンを与えてくれるであろう光を持っているのです。
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ヘレンケラーにとって、僕らが言うところの「見えない世界」「見える世界」の区別はありません。すべての世界のことです。
一般的に言う「見える世界」とは可視光線の範囲内のことなので、電磁波のうち、360-760nmの波長の世界。360nmより短いものを紫外線、760nmより長いものを赤外線と呼びます。

ヘレンケラーは、元々がそういう光の波長での制限がなかったため、生者も死者も境界がなかったのではないでしょうか。
実際、一回しか会ったことがない人は、その人が生きているか死んでいるかは確認する手段もありませんし。

スウェーデンボルグと同様に、ヘレンケラーはあの世を含めた「見えない世界」を当然のように感じていました。
そのことを、スウェーデンボルグが強く後押ししてくれたようです。




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手で触れるものはみんな生きていて、それぞれ自分の意識をもっているものだと信じていました。
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生命、いのち、生きている、というものは、独立した観念というより、こちらが感じとるもののような気がします。
それぞれに意識がある、いのちがあると思えばそれを大切にできるし、意識やいのちがないと思うと、無作法に扱うことになる。

映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)もそうですが、胎児や赤ん坊にも意識があり個性があると思えば、僕らはどんな存在物でも尊重して敬意をもって接することができるはず。
それは年齢の差や能力の差ではないような気がします。




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ジョン・ヒッツ
「むずかしい本を読むときは、何が真実であるかよりも、何が善であるかを見つけることのほうが簡単だということを、いつも思い出すといいでしょう。」
「善とは光を発する小さな炎のようなもので、人の目を引き、認めさせ、信じさせるからです」
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ヘレンケラーもスウェーデンボルグも、人間にとって「善」とは何かを追求した人でした。
そして、善は「役立ち(Use)」にも通じると著作にあります。

このことは、映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)で子供たちがこの世に生まれるための目的として掲げていることと同じです。


禅で世界的に有名な鈴木大拙は、自宅に
To do good is my Religion 
という、スウェーデンボルグの標語を板に彫って掲げていたとのこと。

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スウェーデンボルグ「生命」
「All religion has relation to life, and the life of religion is to do good.」
「宗教はすべて生命に関係し、宗教の生命は善を行なうことにある。」
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と述べています。
本来的な宗教とは、団体をつくることでも誰かを支配することでもなく、純粋に善を行うための教えとして、スェーデンボルグも鈴木大拙禅氏も考えていたことがよくわかります。






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自分の周りを認識しているのは内なる人間であり、この内なる源泉から見てこそ初めて感情や感覚は生き生きとしてくる。
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けれども、すべての感覚的経験は外側のものだという錯覚があまりに一般的であるため、精神を集中する訓練をしない限り、この錯覚を頭から取り除くことはできないのです。
私自身は、絶えず自分の思考やイマジネーションに没入しているので、この錯覚にとくに悩まされたことはありません。
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人間は霊・知性・肉体という三重の層から出来ている、ということを正しく理解すれば、人が肉体で感じ取るあらゆる形と言うものは心象へと還元され、その心象は霊魂によって生命を意味を与えられます。
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神からの新しい観念の啓示はすべて、それを受け取る人の状態や能力に見合うように調整されているのです。
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神の本性とは愛と知恵と役立ちであり、神は誰に対しても、いかなるときにも、その態度をけっして変えはしないということを悟ることができます。
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天界は役立ちの王国。
すべての魂がひとつの壮大な役立ちシステムの中に相互に関係しながら結びあわされています。
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あの世(天界)は、全員が全員の「役に立ちたい」と思っている世界のようです。
そういう気持ちが、すでに神聖なもの。

この世の人間がすべてそういう気持ちになれれば、おそらくこの世やあの世という区別すらなくなるのだと思います。
というのも、私たちは「主観的な死」というのは永遠に経験することができないので、主観的にはあの世もこの世も常に夢の中のような相対的なものでしかないから。

いづれにせよ、ヘレンケラーが言うような<内なる人間>とは、人間だれもが持つ神性(仏性)のことになると思いますが、3重苦を経験したヘレンケラーは、否応なしにこの<内なる人間>との対話を迫られた人でした。
自分の中をとにかく深く掘ったからこそ、人類全般に共通する鉱脈まで掘り当てたような人だったようです。





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天界は彼岸にあるのではなく、私たちの心の内にあるということを悟った時、もはや別世界などというものは存在しません。
私たちは今ここで、もっともっと働き、愛し、希望を求め、心の内にある天界の美しい色彩で身の回りの闇を断固塗りこめるよう励まされるだけです。
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スウェーデンボルグが革新的だったのは、地獄も天国も、死んだあとに自分が望んでいくところであるということ。
地獄に行きたいと思う人が地獄に行くし、天界に行きたいと思う人は天界に行く。
それは自由。
そして、それはあの世に限らず、この世でも同じようなものだと思います。
この世を喜劇と思う事も、悲劇と思う事も、自由ですし。




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愛は人間のもっとも内奥の本質であり、それによって人間の霊的身体が形作られています。
私たちが愛と認識しているものは、その本質から発せられる暗号にすぎません。
ちょうど大気が触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚に感覚的な実感を与えているように、じつは愛も人間の様々な能力を活性化しつづけているのです。
愛とその現象はいつも勘違いされます。
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愛は意識的な思考、意図、目的、努力、動機、衝動の全体を包含しており、しばしば抑圧されることはあってもつねに潜在していて、いつでも行動として現れ出る用意があります。
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スェーデンボルグ『真のキリスト教』
「思いやりの歓びでもある愛の歓びは、善なる者を善と呼ばしめ、信仰の魅力である智慧の魅力は、真なるものを真理を呼ばしめる。
それは、様々な種類の歓びと魅力が善や真理の生命を生み出すからであって、もし歓びと魅力から生まれる生命がなければ、善や真理は無生物のようなものであり、実を結ぶこともないからである。」
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愛っていうのは、やはりどんな人でもどんな時代でも課題のようですね。
ただ、ヘレンケラーが言うのは、やはり観念的なものではなく、何かした行動として表現することが大事だと書いています。
そうして現実世界と微調整することで、自分のエゴから来るものなのか、心の深い場所から来る愛なのか、自己内対話が起きるのでしょう。

そして、それは喜びや魅力を伴うものであると。


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人間を変えるものは環境ではなく、人間自身の内なる力なのです。
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もっとも重要な問題は、私たちがどんな環境にいるかということではなく、私たちが日々どんなことを考えているかであり、どんな理想につき従っているかです。
ひとことでいえば、私たちが実際にはどんな男であり女であるかということなのです。
「自分が今いる世界、それだけが世界である」というアラビアの格言は、いみじくも真理をうがっています。
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ヘレンケラーは、苦境の中で自身の内なる力を奥底から掘り出した人でした。
存在の力というのは大きなものだと感じます。
この世界がよくなっていくときも、人間に対する存在への共鳴から、変わって行くように思います。



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人は、ゆっくりと、できるかぎり楽しみながら成長してゆかねばなりません。
さもなければ、人格を持続的に強化してゆくことは決してできないでしょう。

人間は愛すべき人を、知るべきことを、達成すべき事を、永遠に見つけ出してゆきますから、実際のところこの世においてもあの世においても、人が新たな誕生への歩みを止めることはけっしてないはずです。
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肉体的なものであれ精神的なものであれ、人間が本来持っている能力はいづれも、その能力に見合った満足のいく仕事を選んで活用すべきです。
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人それぞれに歩くスピードがあるように、成長のスピードもタイミングもひとそれぞれ。
欠けたピースを探す永遠の旅。



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たとえ好ましくない歓びをもっていても、それを認める正直な知性があり、自分のハートを価値ある状態に高めようと真剣に努力するなら、絶望する必要はないし、絶望してはならない。
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歓びとはいつでも生命を支えるものだ。
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人の真の生命というものは、歓びが心を満たすのを受け入れる能力のことなのです。
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神が宇宙を創造されたのは、生命と歓びを与えたいという神の本性からの限りない要請があったからだ。
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喜びや歓喜というのは、人間の深い深い場所から出てくるオリジナルな感情だと思います。
その鉱脈にたどりつくために、僕らは色んな感情を体験して学んでいるように思います。
赤ちゃんのような存在は、まさに存在そのものが喜びや歓喜のような状態だと思いますね。



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私たちはあまりに自分自身を知らなすぎます。

だからこそ、内なる自己を開き、無知を追放し、仮面を剥ぎ取り、古い偶像を捨て、間違った規範を打破するために、私たちには障害と試練が必要なのです。
このような荒っぽい覚醒手段だけが、絶え間なく圧力をかけてくる外的世界の執拗な窮屈さや煩わしさから私たちを解放してくれます。
そして、そうなって初めて、私たちは真と善と美に対する新たな受容力と評価力を発見するのです。
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試練は、私たちの生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能なあの高い天命にそなえて私たちに強さを身につけるよう促す、神の激励なのです。
自分を超えたものに向かって努力してこそ、意識の拡大と歓びが獲得されるのです。
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私の生活は、盲、聾、唖という三重苦のためにとても複雑なものとなっていますので、思考と努力で自分の経験を合理化しなければ、ごく単純なことすら行う事ができません。
もし、外側の世界を理解しようとせずに、いつも神秘的な感覚だけを働かせていたら、私の進歩は妨げられ、あらゆるものが身の回りに崩れ落ちて混沌となっていたことでしょう。
夢と現実を混ぜ合わせ、霊的なものとまだきちんと見たことのない物質的なものをごちゃ混ぜにするのは私にとって容易いことであり、内的な感覚がなければそれらを分けておくことはできません。
ですから、私は常に外側の生活と内側の生活との均衡を保つように心がけなければならないのです。
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ヘレンケラーに言われると、背筋が伸びます。

「わたし」を知ることはとにかく重要なことです。
デルポイのアポロン神殿の入口に「汝自身を知れ(gnothi seauton、Know thyself)と書かれていたのは有名な話。

ヘレンケラーの夢と現実とのバランス感覚も素晴らしいですよね。



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以下は、この本のハイライトのようなもの。
ヘレンケラーがW・A・T・E・Rを「みず」と認識したときの瞬間が記載されていました。
そういう天啓を受けるときも、スウェーデンボルグの大きい影響があったようです。

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スウェーデンボルグ『天界の秘儀』
「自分の外側で起こっている事を見たり認知したりするのは内側の人間であり、この内側の人間を源泉として、感覚的な経験は生き生きとしてくる。
なぜなら、この主体的な源泉をおいてほかに、知覚や感覚のいかなる能力も得られる場はないからである。
だが、感覚は外からやってくるという誤りはあまりに当り前で一般的であるために、感覚から離れて抽象的に考えない限り、素朴な精神はもとより、合理的な精神ですら、その誤りから脱することはできない。」

(この文章を受けて)
、ヘレンケラー「意識の太陽がはじめて私の頭上に輝いた時の、その奇跡を考えてみてください!
すでに枯死していた私の若い命の切り株が、知識と言う水にひたされて再び育ち、再び芽吹き、再び幼い花を咲かせて香り立ったのです!
私は心の奥底から「生きていてよかった!」と叫びました。
私は震える二本の手を生命に向かって差し出したものです。

それ以降は、沈黙の世界が私に無言を押しつけようとしても無駄でした!
私が目覚めた世界は依然として神秘的でしたが、そこには希望と愛と神があり、それ以外のものは問題ではありませんでした。
私たちが天界へ入ってゆくというのも、私のこの経験と似たようなものではないでしょうか?
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私の場合は、言葉が思考のシンボルであるということをある日突然理解したのです。
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突然、私の中に不思議な感動が湧きあがりました。

おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは、まるで死から甦ったような感動でした!

サリバン先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走り抜ける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだということを、私は理解したのです。

それは決して忘れることのできない素晴らしい1日でした!前へ後ろへすばやく駆け巡る思考がやってきました。
思考は、頭から出て全身にくまなく広がってゆくようでした。
今では、それが私の精神的目覚めであったことが分かります。
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ヘレンケラーの「!!!」としか言えない瑞々しい感動が伝わってきます。
このとき、ヘレンケラーは生まれ変わったと言っていました。
Repairではなく、Rebornなのだと思います。





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死というのは生命の終わりなのではなく、とても重要な経験の一つにすぎないということです。
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私には、死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は理解することができません。
死の前でくずれ落ちるような信仰は、頼りがいのないか細いアシに過ぎないからです。
私は、私の魂が霊の光の中に立ち「生と死はひとつのものだ」と叫ぶまで、確固とした思想をもってあらゆる視力を超えた視力につき従ってゆきます。
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唯一、本当の盲人というのは、真理を見ようとしない人々、霊的なヴィジョンに対してみずからの眼を閉ざした人々のことなのです。このような人々にとってのみ、暗闇は解消できないものになるのです。
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この本の最後で、ヘレンは、目に見える視覚的な世界に惑わされず、心の目を開くことを説いて終わっていました。


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ヘレンケラーの思いが素直に表現されている本です。
改めて、自分の心の目、心の耳を開かせてくれたような気がします。
ヘレンケラーの生き様に興味がある方は、是非読んでみてください。いい意味で、ヘレンケラーのイメージもかわると思います。

6 コメント

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三重苦 (玉猫)
2014-03-31 19:26:10
いなばさんは、本当にたくさんの本を読んでいるのですね。感心してしまいます。
私が座禅・瞑想するのは、五官を閉じて、自分の内部の声を聴きたいわけなのですが、これがなかなかできません。目を閉じても音は聞こえるし、脳はいつもグルグル考え事をしているし・・・。
ヘレンケラーさん、<三重苦でお可哀想に>と思っていたら、毎日毎分、ご自分の内なる声を聴いていたのですね。人生はパラドクスだなぁと、いつも思っています。
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Unknown (スー)
2014-04-01 22:18:59
10年以上前に読みました。それと「私の生涯」‥強い性格をしている人だと思いました。
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内的世界 (いなば)
2014-04-03 13:24:34
>玉猫さま
おかげさまで自分なりの課題図書が多く日々眠いです・・・。(^^;
普段の仕事をするのでいっぱいいっぱいですが、そのまま寝るといい夢見れないので、なんとか一行でも本を読んで眠るようにしています。

座禅・瞑想は、まさにヘレンケラーの状態に近いかもしれませんね。
あと、意識障害や昏睡状態の人も、運動機能の障害で「存在の次元」になっているので、精神世界ともしてもかなり近い状態になっているのではないかと思います。

いろいろと外部に依存されない状態になると、否応なしに内的世界が優位になりますし、そういう方々から人間の奥深さを学ぶことは多いですよね。ヘレンケラーも、まさにそういう偉大な方だと思います。

>スーさん
どちらもいい著作ですよね。
本を通して作者と出会えるので、やはり読書はやめられません。
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Unknown (スー)
2014-04-17 22:47:40
そのヘレンケラーが「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と言ったひとが中村 久子さんです。
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TV「知ってるつもり」 (いなば)
2014-04-18 08:10:56
中村久子さんは、当時「知ってるつもり」のTVで見て驚きました。ふとYoutubeで探してみたら、やはりUpされてて驚きました。こういうのこそ共有財産ですね。久子さんの人生も、全員が共有していいと思いますね。
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Unknown (スー)
2014-04-18 22:10:42
その「知ってるつもり」で知った人が大石 順教さんと井深 八重さんでした。いい番組でした。
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