日常

願い

2013-05-05 00:21:45 | 考え
「願い」は、基本的に叶うものだと思う。
「引き寄せの法則」が言うように、基本的には本当に何かを引き寄せている。


そこで重要なことは、「願い」が素直であるか、純粋であるか、という点だろう。
表面の「願い」ではなく、根っこの本心の「願い」であるかどうか。
根っこの部分は、その人自身にしか永遠に分からない。



誰かを、何かを、引き寄せたいと願うとき、そこに純粋ではない思いが混ざると、複雑で分かりにくいものが引き寄せらてくる。
その人は、まさか本当に何かを引き寄せたと夢にも思っていないから、「何も起きていない」「何も引き寄せなかった」と勘違いする。
ただ、おそらくは本当に何かを引き寄せているはずだ。



そこでのポイントは、願いや引き寄せは、顕在意識だけではなく、潜在意識も含めてのトータルな「願い」が引き寄せられている、というところだろう。
潜在意識をできるだけクリアで透明にするためは、素直で純粋な心が必要になる。


人間のエゴが動いたり、意図的に何かを操作しようとしているのは、必ずしも顕在意識だけではなくて、潜在意識もその舞台になっている。舞台は広い。
潜在意識が分かりにくければ、無意識という言葉でもいい。無意識は、夢などで少し視覚化できる、あの世界のことだ。


誰しもが何かを引き寄せている。そうして「願い」は叶っている。
自分の潜在意識に何かブロックがあったり(それは偏見や思い込みだろう)、プラスのものとマイナスのものが妙な結合をしていると(人間の心理とは複雑で歪なものだ)、その心の全体の構造そのものに類似な願いが、引き寄せられてくる。


そしてこう言う。
「ああ、やっぱり願いは叶わなかった。」と。

ただ、ここは非常に面白い構造になっている。
潜在的に「願いは叶わない」と思っている人は、本当に「願いは叶わない」願いを実現させてくれる。だから、言葉通りに「願いは叶わない」。


だから、まず「願いは叶う」という当たり前のことを、無邪気で無心に当たり前に信じることが、すべてのはじまりとなる。スタート地点にすら立てない人がほとんどだ。

本当に、願いは叶う。
本当に叶ってしまうからこそ、本当に注意したほうがいいと、自分は思う。だから、本当にそのことを知っている人は、そうむやみに願うことはしない。
自分も「願い」は慎重にしている。自分の素直な心理状態こそが試されるから。結局、自分の心の状態が問われるからだ。それを鏡面構造のように、現実として見せてくれるからだ。




本当に願いが叶ってしまうから、「成功哲学」などビジネス世界で使われることがあるし、異性との出会いを求める「恋愛哲学」でも使われることがあるのだろう。
ただ、過剰な期待や過剰な欲望は、それが純粋で素直でないことが多いし、その根っこには違う「願い」が複雑に混成されている。だから、妙で複雑な形で現実化している。そのためにわかりにくい。

「とりあえず数十億円欲しい」という根拠のない願いは、自分でもその金額に根拠がないことを潜在意識も含めてちゃんと知っている。
顕在意識では「自分が自分に嘘をつく」という自作自演の行為で一時的にだますことができるけれど、潜在意識は基本的にだますことができない。
そうなると、その「願い」の根底にべったりこびりついて離れない「お金がない」現実の方が強く引き寄せれてしまう。(そういう意味では、その人は潜在的には「本当はお金を持つと困る」と思っているはずだ)
「やはり願いは叶わなかった」という願いこそが、ちゃんと叶う。うまくできている。


文章で書くとこうして複雑になるけれど、そのメカニズムがわかってしまうと、すごくシンプルな法則で動いていることが実感できると思う。



純粋な思いから発露した願い、「自分はこのことを真剣に学びたい。そのためには100万円が必要である。だから、何かの形でそのお金が必要だ。」という願いは、おそらく学ぶ動機が純粋であるから、願いは叶う。
その場合、本当はお金が必要なわけではない。「学ぶ」ことが純粋な願い。だから、必ずしも自分のところに「現金」として願いが叶うわけではないし、その必要もない。(そんな場合もあるかもしれないけれど・・)

つまり、大抵の「願い」の本質は、お金ではない。だから、そう簡単にお金は転がりこんでこない。
お金は、単なる水の流れのようなもの。お金は有限だから、あちらに動けば、こちらが不足する。だから、「お金」としては願いは叶いにくい構造になっているだけだと思う。


願いの本質が「お金」そのものであることはほとんどない。なぜなら、「お金」という物体は単なる紙か金属だから。

お金で何かを買うにしても、本当はその奥に何か目的があるはずだろう。
その奥底に潜む用途が、自分の自尊心を満たすため、という抽象的なものである場合、それは自分が自分に対する自尊心がないことを意味している。
その場合は、何度も書くように、自分の自尊心がない状態を強化させるように、「願い」が引き寄せられ、強く現実化する。


こういう風にして見ていると、確かに「願い」は実現化している、ということがよく分かる。
同時に、その人の奥底の潜在意識や無意識の「願い」まで透けて見えてくるから、面白いものだ。

12 コメント

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赤鬼さん (さ。)
2013-05-06 21:56:18
これ、ほんとにそうだね。
最近自分のなかでもいろいろ体験していることがあって、正に、本当は願って欲しくないと思っていた願いが、叶ってしまったヨ。。それはとても辛いことだったけれど、その願いが実は本当ではなかったんだ!ということ、願わないことを願っていた!(願わないことで、その価値を勝手に高めて、安心していた←まあ、なんて歪んでいるんだ…苦笑)ということ、本当に願いは叶ってしまうんだ!ということに気付けてよかった。これからは、願い事には、よく注意しようと思うよ。引き寄せって磁石や磁場みたいだね。本当に人間というのも、いろんな極があるのかもしれないね。

それにしても、真実は劇薬で、うそは常備薬とはよく言ったもので、本当の自分を知ることには、恐さがあるなぁ…。ある意味自分を守ってきたものが剥がれ落ちていくような感覚。下手に何十年と生きてきたから、多分それに愛着も執着もあるのだろうな。

ひとつ質問があるのだけど、嫉妬についてはどのように考えている?これが厄介なもので。特に私がこれから向き合わなくてはいけないこと。剥がれ落ちてきたせいか、中にこんなものが、育っていたのか!薄々気付いてはいたけれど…という感じ。赤鬼さんみたいな感じで、暴れるのです。でも、これ、退治するのではなく、ちょっと話を聞いてみようかなと。。そうじゃないとこの袋小路で出会った生きもの、いつまでもここから出ていってくれない気がして。
嫉妬って不思議。憧れにも似ているのかな。どんな根っこから来ているのだろう。。。「怒りの下には深いかなしみがある」という言葉も思い出す。


あー
何か、お悩み相談室みたいになってしまったなぁ。。ごめん(T_T) 先生ー。

この記事、とても助かりました。いつもありがとう。
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Unknown (さ。)
2013-05-06 22:22:10
願わないことを願っていた、ではなく、
叶わないことを願っていた、でした。。
ややこしー(T_T)
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自我egoと自己self (いなば)
2013-05-07 22:40:10
>>さ。さん
そうなんですよ。本当に願いは叶ってしまうんです。
というのも、人生には何かしらのパターンで繰り返し訪れる場面があって、それは常に自分の急所だったり弱点のとこ。つまり、大事なポイントなんだよね。そこが引き寄せられる。それは陰と陽の関係に似ているかもしれない。だから、それはある意味チャンスなんだよね。その暗号をどう解読するか、というのが鍵になる。

自分を守ってきたものが剥がれ落ちていくような感覚。その「自分を守ってきたもの」というものは、もともとは無かったものだと思いますよ。赤ちゃんのころを思い出せばそうだと思う。究極のニュートラル。人間は赤ん坊の時代から色んな刺激を受けて自我をつくっていくのだけど、そこで受ける刺激というものは人の数だけパターンがある。それはその人にしかわからない。ただ、その成長の過程で守ってきた場所というのは、おそらくその人の魂だと思うんだが、その被膜自体は、結局自分が作っているんだよね。誰かが作ったようにおもっていたらそれは間違いなく錯覚で、自作自演でしかない。魂の被膜は、他人には作れない。 自分が映画の主人公であるから、その演技に熱中しているけれど、実は自分は監督であり演出家であり、同時にその映画を見ている観客でもある。だから、被膜はひとつの舞台の中での脚本の部分だと思う。最初はないし、最後にはない。  そういう自我の構造に気づくと、いろんなものが削げ落ちていくと思う。いろんな宗教がいろんな形で語っているものはこのあたりだと思う。


嫉妬、それも基本的に自作自演だと思うよ。
人間にはいろんな感情がある。それは外からやってくるようだが、それはすべて内から生まれる。外から受けるのは刺激であり引き金にすぎないと思う。

嫉妬の心は、他と比較する心から生まれる。分離意識がスタートになる。
人間は、こころを発達させていく過程で、とりあえずは一つの人生を生きることを選ぶ。そのことが自我の構造ができるプロセスともつながっている。

一つの人生を選択した、という意識は、同時に、自分が生きることができなかった人生、もほぼ無限に生み出す。そこで自我と他者ができる。それを他者に投影しがちだけれど、それは本当は自分の心の中で起きている現象を、わかりやすく外に外部化しただけ。おまけに他者に投影しているだけ。

分離意識というのは、自我が持つもっとも基本的な機能。ここが成長過程でうまくいかないと、私が考えているのがあなたが考えていること、のようになり、自我の境界がなくなる。それを若い時期に経験すると少し危険。乗り越えれる人もいる。乗り越えれない人は病気と言われる。

自我は分離意識を生む。そのことで人間は成長していく。ただ、人間の心にはもともと自我はなく、分離意識はない。それは都市文化生活で構成された後天的なもの。後天的なものだから、ある時期に自我が持つ分離意識そのものを拒否する事態が起きる。それは統合したいという意識。その大きな一つが「愛」という感情。
ただ、「愛」は強力であるがゆえに間違いやすい。執着や支配を「愛」とする人がいる。これは、自我が見ている夢。自我という分離した意識の中に入れ子構造に取り入れたいという感じ。それは愛ではなく、支配や執着。自我(エゴ)の一形態に過ぎないと思う。

本来、人間が成長過程で学んでいく「愛」という感情は、自我という心の構造が内包する分離意識を消去するわけではなく、体感しながら抜けていき、より統合的な自己へ発展していくプロセスと関係がある。これをユングは個性化と呼んだ。今使われている個性化とは少し違う意味合いで使っている。その人が持っている可能性を開花させてゆくこと、人格をより完成させること、より完璧な人間に近づけること、のようなこと。


「嫉妬」は、あくまでも自我が持つ分離意識の一つの形態だと思う。愛が誤解された一つの形態だと思う。 それは、自我自体が自我を捨てきれず、自我を捨てきれない言い訳として、嫉妬として相手へ理由を投げつけている(投影)ような状態。そこには出口はない。
でも、その空間自体はもともと自分で作った空間。自家製の檻や牢獄のようなもの。だから、いつでもその檻から出ることは可能なんだが、そのためには、自分の自我の正体(構造)を見据えないといけない。

嫉妬はいろんな感情が総体として訪れてくるかもしれないけれど、それも結局は自我が混乱しているだけだと思う。混乱を正当化するために、あえてごちゃごちゃさせる。混乱の原因は、自分で作り出した自我への執着を、自分自身が捨てきれないことに起因すると思う。 だから、禅では放下といって、とにかく捨ててみればと促す。ものごとを放り投げて無我の境に入ることを放下するといった。ここでいう無我の我は、自我のこと。自己は残る。自分が何もなくなることではなくて。自我が消えるので、何かなくなったような気になる。何かがあるんだけど、何かがなくなったように見える。あるものは自己、消えたのは多数ある自我の一つ。
自己へと発達する過程で捨てていく蝉の殻のようなものが自我。


自我は、自分が成長する過程で魂を保護する役割を持つ。非常に重要な役目を果たすのだけれど、それはあくまでもプロセスに過ぎない。だから、成長と共に、執着せずに、一つ一つの自我EGO(それはペルソナのような仮面となる)をチェックしながら、勇気を持って自己SELFへと発展させていかないといけない。その過程そのものが成長ということと相似にもなる。
自己selfにもいろんな層があり、構造がある。それをいろいろと分類することもできる。高次の自己、低次の自己、とか。他にも分けることは無限にできてしまう。でも、分けだすと、それは自我の夢を見始めてしまうし、趣味の領域になっていくのである程度やめる。でも、確かに自己selfには層構造はある。 自己selfが最終的に発展、成長していくと、selfは森羅万象(everything)になると思う。そういう状態になる瞬間(継続する場合もあると思うけど)を、悟りや覚醒などと人は呼んだと思う。ただ、それは常にプロセスでしかないと思うけれど。



だから、嫉妬からも、学べる。人間はあらゆる要素から学べる。自分の最大の教師は、自分だと思う。常にここにいて、常に見守っている。だから、自分がすべての答えを握っている。だから、きっと大丈夫。


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ありがとう。 (さ。)
2013-05-07 22:51:14
せんせぃ~~~。・゜・(ノД`)・゜・。
って夕陽に向かって走り出したい気分です。
温かく深くわかりやすいコメントをどうもありがとう。感謝。ゆっくり何度も読んで咀嚼吸収してみます。ありがとう。とりいそぎ。
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「思い出す」 (いなば)
2013-05-09 13:27:22
>さ。さん。
こういうの書き出すと、無限に書けるよね。

こういうときは、<外に何か新奇なものを発見した>というよりも、<はじめから知っていたのをやっと思い出した>という感覚に近いと思うんですよね。
それは物理学でも数学でも新しい発見と言われるものもすべてそうなんだと思うのです。単に、その人の役割として数学に人生を長く時間費やしたから「思い出した」だけで、基本的には人類全員が「はじめから知っていたことを思い出した」のだと思いますね。

特にこういう話は、「思い出す」典型的な話だと思います。

別に自分の方が賢いとか優秀だとか・・、そういうわけでは決してなく、単に「思い出した」に過ぎないのです。
誰が偉いとか偉くないとか、そういうのはすべて存在しない。人類みな同じ。「思い出す」かどうかだけなのです。
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さ。さん、稲葉さん、ありがとう (まーこ)
2013-05-09 14:08:39
毎回多くの学びをありがとうございます!いつも楽しみに拝読させていただいています。

稲葉さんのさ。さんへのお返事が、私が普段、息子に対し感じることと関係していたので、さ。さんとのQ&Aに便乗という形で大変恐縮ですが、コメントさせていただきます。(ちょっと横道にそれますが、仏具職人の夫から聞いた話です・・・僧の精神修養の中で、手放すのが最も難しく、最後に残る課題が『嫉妬』なんだそうです。さ。さん、精神修養の最終コーナーにさしかかっていらっしゃるのかも!ですね。)

見た目でわかりにくい障がいなので、「アスペルガーの子ども(←アメリカの診断基準DSM5での改定でアスペルガーという名称が消滅、「自閉症スペクトラム障がい」に統一されるそうですね。日本では数年後でしょうか?)と、そうでない普通の子の、一番の違いは何なの?」とよく聞かれます。難しい質問で、その都度あれこれ答えてきたのですが、一番の違いは、この「自己と自我の形成プロセス」かもしれない!と、イナバさんのコメントを読んで思いました。

>分離意識というのは、自我が持つもっとも基本的な機能。ここが成長過程でうまくいかないと、私が考えているのがあなたが考えていること、のようになり、自我の境界がなくなる

この分離意識が、自閉症スペクトラムの子ども達に、大変薄い(もしくは、無い?)と感じます。そして、

>自我は、自分が成長する過程で魂を保護する役割を持つ。非常に重要な役目を果たすのだけれど、それはあくまでもプロセスに過ぎない

そうなんです!息子は、自我という鎧をつけずに、自己が丸裸で歩いているような、とても無防備な状態で生きているように見えます。その点が、健常発達の子ども達との大きな違いのように感じます。

また、

>嫉妬の心は、他と比較する心から生まれる。分離意識がスタートになる。

・・・そう、分離意識が薄いと思われる息子にはそこから発生する「嫉妬の心」が皆無なんです。(これは、他の自閉っ子ママにもよく聞く話なので、自閉っ子の特性だと思われます。)そして、どの人にも(また、人以外の生物や物にも)等しい分量の愛情(天女の羽衣のごとく、薄くて軽妙な!笑)を持っているような気がします。その点のみを純粋に考えると、自閉っ子たちは、人が最終的に到達したいと望む境地に生まれつき達しているように思われ、その特性は尊ぶべき宝物であるのかもしれない、と感じます。

しかし現実社会の中では、その「宝物」によって困難がもたらされるのが悩ましいところ・・・。

自我の境界があいまいなまま青年期を迎え、うつ病や統合失調症などの二次障害を引き起こすリスクが大きいことはよく知られています。

また、自分の心と他人の心に境界がないので、自分が面白いと思うこと(多くの場合、大変マニアックな事柄)が、全ての人にとってもそうであると思うから、TPOわきまえず一方的にその話をし続けて嫌われたり、他人が、自分が望むような行動を取らなければ、「あの人は僕の気持ちを知っているのに、そうしないなんて意地悪だ」と、他人に対して、理不尽な激しい怒りや憎悪を感じたり・・・。
成人のアスペルガーの方の、「物理的にも心理的にも、どこまでが自分のものなのかが判断がつかないのです」という発言が印象に残っています。

また、嫉妬に似た感情の「負けて悔しい」という気持ちや、「あの人のようになりたい」という憧れもない。このような感情は、マイナスでありながらも「向上心」の燃料になりやすい(向上心そのものの質はさておき・・・)ので、学校はそのような感情を奨励するような場所だと感じます。そして、まったくそれらの感情の持ち合わせがない子どもたちは、「ノリが悪くて張り合いが無い」「向上心がない」と、先生や友達から不評を買い、ぎくしゃくした関係になりがち・・・うううむ。

社会的には「難点」であると同時に、精神的には「美点」ともなりうる「自我の脆さ」。これから、どのようにバランスを取りながら、息子が成長してゆくのか?を、まず親自身がバランスのよい目で見守る必要があると感じます。


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あるがままの自己 (いなば)
2013-05-14 02:07:16
>>>まーこさん
コメント有難うございます。ご無沙汰しております。

「自我という鎧をつけずに、自己が丸裸で歩いているような、とても無防備な状態で生きている」

そう思いますね。自分は「わたし」の問題を考えることは万物に通じると思っている一人なのですが、人間の自我と自己の形成プロセスを考えること、そして「わたし」がどのように作られ、その上で生や死とは何を意味するのか・・・そのあたりはすごくリンクしていると思います。ブッダも「無我」と言いましたが、この2文字に込められた思いは非常に深遠なものを感じます。

この辺りを語りだすと止まらなくなるので、いつか「呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」(井上ウィマラ)(すごくいい本!!)の書評を書くときにでもこの辺りを触れたいな、と思いますね。 Y先生の「人は死なない」と通じる話題になります。(少しもったいぶる)



それはともかく。
自我EGOとはある意味色んな問題を引き起こす諸悪の根源でもありますが、それはやはりEGOがあるからこそ学べるものですよね。赤ん坊のようにずっと自我(EGO)がないと、それはそれで困ったことが色々あるのかもしれません。特に、今はそういう自己(SELF)のみの人は少数派な時代だけに。


「等しい分量の愛情(天女の羽衣のごとく、薄くて軽妙な!笑)を持っているような気がします」
というのは分かりやすい表現ですね。
ある意味、特定の誰かに執着していない。アガペーを当り前のものとして実践している。


僕らは自閉症の子たちを「矯正」という名のもとにマジョリティーへ無理やり歪めるのではなく、そこから大いに学ぶべきです。そして、それは互いの立場でそうでしょう。人間は学び尊敬し敬うことさえできれば、どんな世界でも生きていけると思います。それこそ、学び家としての学校で学ぶべきことでしょう。僕らは全てのことから学べる、ということを。


自我の境界があいまいなまま青年期を迎えると、うつ病や統合失調症などの「病」を通過することで新たなステージへ変容していこうとするのでしょう。そこは綱渡りのような状態かもしれませんが・・・


「自我」というものは、強くありながら柔らかくしなやかな状態がいいのでしょうね。
そういう「自我」を育てつつ、「自己」への発展へと常に開かれていく。
それこそが僕ら一人一人が人生と言う一生をかけた舞台の上で成長しながら学んでいくのでしょうね。
自分ひとりの中でバランスをとるのも大事ですし、ある環境の中で互いが互いのバランサーとしてバランス(調和)を作って行くのも大事だと思います。
バランスをとる「バランサー」としての存在は、この世界では目立たずに存在感が薄いかもしれないけれど、非常に重要な役割。


ちなみに、片山洋次郎さんの「整体。共鳴から始まる」にも、別の言葉でそのことが説明されていました。2012-09-26に、その本の感想を書いたところから抜き書きしておきます。
この本も、まーこさんがお子さんと共に生きていく過程で色んな示唆に富んだ観点をもらえる本だと思いますよ。お薦めです。


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片山洋次郎さん「整体。共鳴から始まる」より
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生まれたばかりの子供はいい子も悪い子もなく、偏見も信仰も自己意識もなく、世界と完全に共鳴している。
しかし、人の場合はこの「あるがままの自己」のまま生きてゆくことはできない。
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後で経験的に分かってきたのだが、言語を持たない子供たち(自己を強く持たない、自己が希薄)は、みな気的コミュニケーション(共鳴力)を持っている。
実はその子達によって気的世界に招き入れられたのだ。
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役に立つ、自己主張がある、という人は、存在感があって目立つが、共鳴力は弱く、緊張関係を生み出す。
気的コミュニケーションは誰でも意識下に行っていることなのだが、それは自己を強く持とうとしたり、人を支配しようとするほど弱くなり、自己を希薄にするほど強くなる。
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共鳴関係(ゆるやかな間合い)はエネルギーの発散を促し、緊張関係(緊密な間合い)はエネルギーの集中を促す。
生きるということは不断のエネルギーの集中(緊張)を必要とするが、その裏には必ず発散があって、「発散・共鳴」というカオスをはらむほど、より思い切り生きられるのである。
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Unknown (さ。)
2013-05-20 01:08:03
まーこさん、はじめまして。お二人のコメントにより、さらにまた色々深まりました。ありがとうございます。私は、まだまだなかなか苦しいですが、お坊さんにとっても、嫉妬や執着は、なかなか大変なのだと知って、少し気持ちが楽になりました。嫉妬って、動植物には、あるのでしょうかねぇ。。植物の嫉妬…はとりあえず、なさそうだな。笑。やはり、嫉妬は、人間らしさでもあるのかな。

色々書きたいのですが、ふと思い出した文章があったので、それをここに引用させていただきたいと思います。



とにかく自己ほど神秘的で謎めいた存在はない。これこそが人間であると思うよ。説明不可能な事象に科学のメスを入れたり、分析したりしなければならん理由などどこにもない。合理的な解釈が行われなきゃ行動できないというのは自我の崩壊に恐怖を抱いているせいだ。苦悩や苦痛の原因を生む自我が何ほどの価値を持つというのや。自己を愛するということと自我を愛するということは別問題だと思うがね。
もし本当に自己を真から愛することができるのなら自我を捨てることぐらい朝めし前でなきゃおかしい。自我を後世大事に守りながら、自己を愛するということは不可能に近い。芭蕉が俗界から足を洗って旅に出たのも真に自己が可愛かったからであろう。何ものからも束縛されず本当に自然の本源と一体になって真の自由の大海の中を悠々と抜き手を切って泳ぎたいと念ずるなら、芭蕉がしたように全てを放下(ほうげ)するより道はないのと違うか。永遠の真理の探究者になることを自己に約束するなら、自我を捨てることが最も近道だろう。
自分自身を完璧に愛することを躊躇していることは自我を愛していることである。自我を愛することは芸術家にとっては完全な神の意志の伝達者としての道具としては不完全である。とにかく難しい。何も芭蕉みたいに家族も名声も捨てて旅にでる必要はないけど、人は一度手にしたものを手離すということが、如何に難しいかということだ。一度手にしたものには情が移る。愛情ではなくて、情なのである。愛はその対象を解放して自由にしてやることができるが、情はその反対に抱きかかえて相手の自由を束縛してしまう磁性力がある。
多くの場合愛と情をごっちゃにしてしまっているはずだ。執着というのは愛ではなく情を指す。この執着が曲者である。われわれは愛と情の区別さえできないでいるように思う。子どもや妻に対する愛は本物だろうかと自問することがある。愛と言う名のもとで子どもや妻の自由を縛っているとすれば、それは愛ではなく情だ。天上界には親子の情愛というものはないはずだ。天上界では全て兄弟(姉妹)としての共存で満ちている。友だちのような親子関係が望ましいのだ。
日本人の美学の中に情を認める文化があるが、この美意識は危険なものであるとワシは思う。情をかけることによって相手が生かされるというのは実は大間違いだ。「情は人のためならず」とか言うじゃない。真に相手のことを思うなら、そこには自己犠牲の精神がなければそれにタッチすることを禁じるべきだ。情は相手も自分も同時に殺してしまうことになるからだ。
(横尾忠則)”
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岡潔 (さ。)
2013-05-20 01:30:39
数学者の岡潔の文章をふと思い出し、連続投稿です。

疑いをおこし強く打ち消している「ある」ではなく、さやかに冴えた「ある」を大切にすること。肉体と花園。濁りと澄みやか。重さと軽やかさ。地と天。その境い目。そのけじめ。とてもとても大切なことだなあと。嫉妬というのも、疑念、疑うことからうまれるのかもしれないなあとも思ったり。うーん。
おそらく自分の欠落を他人に埋めてもらうことはできないし、たとえ埋まったとしても、それが喪失した場合は、非常な渇きとなってしまう。疑念が疑念をうみ、渇望が渇望をうむ。どろどろ。。。(>_<) さやかに冴えた「ある」というのは、自灯明にもつながるような気がしてきます。
西洋と東洋の根本的な違い、肯定、否定、二重否定、「ある」と「ない」、色々ふくらみます。。



 ここにわたしの家の花園があります。花はいま一つもありませんが、目の前にみどりの花園がある、と思ってください。そうすると、これは「ある」としか思えないでしょう。感覚があって、それに判断がともなうというだけではありません。だから正確にいえば、それらに加える「ある」という実感があるのです。つまり、存在感があるのです。
 ところで、あなたの肉体もあります。これも、いろいろなせんさくを抜きにして、いまある、としか思えないですね。それで、いちおうこれも存在感があるといえます。
 そうすると、目の前の緑の花園も存在感、あなたの肉体も存在感です。しかし、この二つの存在感は同じですか。なんだかちがいます。
 みどりの花園は、さやかに「ある」。しかし、自分の肉体はあり方がなんだか濁って「ある」。そのように思えるでしょう。もうすこしことばを加えますと、花園がある、というのは、「ある」ということに対して、疑いがおこらないのですね。
 ところが、肉体がある、というほうを仔細に見てください。「ある」ということに疑いをおこしそれをひじょうに強く打ち消して、「ある」と思うのです。
 そうなのです。この二種類の「ある」があるのです。
 さやかに冴えた「ある」と、否定を打ち消している「ある」です。
 一つは光の「ある」、もう一つは影の「ある」です。影は存在しませんが、しかし、存在するともいえる、その「ある」です。
 そのみどりの花園がある、という「ある」が冴えてくると疑いがまったくおこらない。そんなふうな「ある」です。これだけが「ある」という感じなのです。そうしますと、「あるような気がし」たらもうそれでじゅうぶんあることが信じられます。それを確かめたりしません。
 確かめるというのは、疑いをおこしてそれをより強く否定する。そうしてはじめて「ある」と思うことです。そういうあり方だけが、たしかにあることだとたいていの人は思っています。
 しかし、それは影の「ある」であってその影をとってしまえば、はじめは「あるような気がする」だけですが、それをじっとよく見ているともっとあるようになるのです。だんだんはっきりしてきて、あるという疑いをともなわない実感になるのです。 
 人と人とのつながりもそうです。真のつながりは、これを一度疑いそれをより強く否定する、という形式で、確かめたりはしません。それが心の紐帯(ちゅうたい)です。
 この「ような気がする」というのをたよりなく思って、影の「ある」を目標にしていたのでは、真・善・美どの道においても向上というものはありません。向上するほど「ような気がする」が自明な「ある」になってくるのです。疑いをおこしてそれを強く打ち消す、という形式ではけっしてそうはなっていかないのです。
 なにかいちいち文字に書き表して、それに認め印までおしてもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するというふうなつながりでは、つながっているということの実感はけっして出てきません。
 もう一度いいますと、さきのみどりの花園があるという「ある」と自分の肉体があるという「ある」とは、ことばとしては同じですが、実はまったくちがったものです。
 ここの境めが非常に大事なところです。さやかにあるという「ある」を「ある」と思っていると軽く澄んで天となり、疑いを強く打ち消す形の「ある」を「ある」とおもっていくと重く濁って地となります。だから天地はこの線で分かれるのです。このけじめがすこしでもわかるような気がしてくれば、それがあなたの心の夜明けなのです。

岡潔「情緒と想像」


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Unknown (さ。)
2013-05-20 01:36:34
あれ… 顔が半分切れたところで、切れてしまいました(>_<) 以下、引用です。西洋と東洋の「ある」ということの根本的な違い、己のなかの「ある」の違い、たくさんの「ない」に支えられている「ある」の尊さなど、色々ふくらみます。




 ここにわたしの家の花園があります。花はいま一つもありませんが、目の前にみどりの花園がある、と思ってください。そうすると、これは「ある」としか思えないでしょう。感覚があって、それに判断がともなうというだけではありません。だから正確にいえば、それらに加える「ある」という」実感があるのです。つまり、存在感があるのです。
 ところで、あなたの肉体もあります。これも、いろいろなせんさくを抜きにして、いまある、としか思えないですね。それで、いちおうこれも存在感があるといえます。
 そうすると、目の前の緑の花園も存在感、あなたの肉体も存在感です。しかし、この二つの存在感は同じですか。なんだかちがいます。
 みどりの花園は、さやかに「ある」。しかし、自分の肉体はあり方がなんだか濁って「ある」。そのように思えるでしょう。もうすこしことばを加えますと、花園がある、というのは、「ある」ということに対して、疑いがおこらないのですね。
 ところが、肉体がある、というほうを仔細に見てください。「ある」ということに疑いをおこしそれをひじょうに強く打ち消して、「ある」と思うのです。
 そうなのです。この二種類の「ある」があるのです。
 さやかに冴えた「ある」と、否定を打ち消している「ある」です。
 一つは光の「ある」、もう一つは影の「ある」です。影は存在しませんが、しかし、存在するともいえる、その「ある」です。
 そのみどりの花園がある、という「ある」が冴えてくると疑いがまったくおこらない。そんなふうな「ある」です。これだけが「ある」という感じなのです。そうしますと、「あるような気がし」たらもうそれでじゅうぶんあることが信じられます。それを確かめたりしません。
 確かめるというのは、疑いをおこしてそれをより強く否定する。そうしてはじめて「ある」と思うことです。そういうあり方だけが、たしかにあることだとたいていの人は思っています。
 しかし、それは影の「ある」であってその影をとってしまえば、はじめは「あるような気がする」だけですが、それをじっとよく見ているともっとあるようになるのです。だんだんはっきりしてきて、あるという疑いをともなわない実感になるのです。 
 人と人とのつながりもそうです。真のつながりは、これを一度疑いそれをより強く否定する、という形式で、確かめたりはしません。それが心の紐帯(ちゅうたい)です。
 この「ような気がする」というのをたよりなく思って、影の「ある」を目標にしていたのでは、真・善・美どの道においても向上というものはありません。向上するほど「ような気がする」が自明な「ある」になってくるのです。疑いをおこしてそれを強く打ち消す、という形式ではけっしてそうはなっていかないのです。
 なにかいちいち文字に書き表して、それに認め印までおしてもらわなければ承知できない、そのようにしてはじめて安心するというふうなつながりでは、つながっているということの実感はけっして出てきません。
 もう一度いいますと、さきのみどりの花園があるという「ある」と自分の肉体があるという「ある」とは、ことばとしては同じですが、実はまったくちがったものです。
 ここの境めが非常に大事なところです。さやかにあるという「ある」を「ある」と思っていると軽く澄んで天となり、疑いを強く打ち消す形の「ある」を「ある」とおもっていくと重く濁って地となります。だから天地はこの線で分かれるのです。このけじめがすこしでもわかるような気がしてくれば、それがあなたの心の夜明けなのです。

岡潔「情緒と想像」


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