観測にまつわる問題

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「原子炉時限爆弾」批判(第一章 浜岡原発を揺るがす東海大地震 1)

2011-05-15 00:54:38 | 日記
>浜岡原発は今を去る三四年の一九七六年三月一七日に、一号機が営業運転を開始した。(28p)

>その運転開始からわずか五ヶ月後の八月二三日に、当時東京大学理学部助手だった石橋克彦氏が地震予知連絡会で「駿河湾でマグニチュード八クラスの巨大地震が起こる」と、東海地震説に基づく重大な警告を発した。(28p)

石橋氏の警告は、後年に確立されるプレート運動の理論によってその正しさが、次々と実証されてきた。(29p)

石橋氏の予言的警告には、確たる根拠があった。私たちが乗っている地球の表面が、プレートという岩盤でできていて、それが毎日少しづつではあるが、動いているからである。(29p-30p)

※以上、縦書きが横書きになっているが原文ママ。下線部筆者。以下も同じ。

プレートテクトニクス理論は1960年代後半に発展した。これは資源エネルギー庁ホームページなど複数の専門的ページで確認したので間違いないと思う。つまり1976年の石橋氏の警告は、プレートテクトニクス理論に当然拠ったのであり、石橋氏の警告の正しさが後年に確立されるプレート運動の理論で実証されたというのは、とんでもない印象操作である。

また、確たる根拠として、地球の表面がプレートという岩盤でそれが動いているなどと知識を披露する至っては失笑するより他ない。地学の初歩の初歩を確たる根拠などともったいぶられてもね。高校の授業を聞いていれば、誰でも知っていると思う。1943年生まれの広瀬氏の時代は載っていなかったのかもしれないが。それにしたって、プレートが動くなんて言葉は、テレビでも頻繁に出ているのではないか。序章で日本人は誰も知らない事実とか大見得を切ったが、日本人を馬鹿にし過ぎの可能性が濃厚である。

ちなみに、最近(1990年以降)はプルームテクトニクス理論というのがあるらしく、この分野で確たるとか実証とか根拠とかそういう言葉を振りかざすこと自体、何も知らないか嘘つきであると看做されてもしょうがないのではないかと思う。プレート運動の理論自体の信頼性が揺らいでいるのに、実証もヘチマもあったものではない。

そもそも、地震予知で確たるとか実証とか予言とか言って本を出してしまうあたり、トンデモ系の人なのだなと分るのだが、昔のこととは言え、真に受けてこの人の本を買ってしまったあたり、自分の不明も反省せざるを得ないのは痛いところではある。

>時期的には、東海地震発生周期のリミットを切って、すでに発生期間内に突入している「地球の時限爆弾」である。百パーセント間違いなく起こる大地震の発生を「今か今か」と待っている不安な状態にある。(35p)

これは前の記事(5月8日)で引用した文章にあったが、東海地震が単独でおきた例は無く、東南海地震の地震発生時期を考えると、山場は2030年らしい。大体、広瀬氏自身で周期を100年~250年としている(32p-33p)のに、どうして150年でリミットを切る計算になるのか不思議でならない

>この時期の江戸時代の日本の全人口は、二千八百万人程度だったので、いまはその五倍ぐらいである。このような大災害では、同じ面積の人口密度が五倍になれば、被災者は一〇倍を超えると予想されるので、地震だけの被害で、数十万人の犠牲者が出てもおかしくない。(35p)

何処をどう考えてもおかしい。江戸時代は倒れやすく燃えやすい木造建築だったのであり、鉄筋コンクリートの住宅が増えている現在では犠牲者は減ることが予想される。アベコベだろう。乱暴な比較ではあるものの、地震の規模はM7.9の関東大震災の犠牲社は約10万5000人とされ、M7.3の阪神大震災による犠牲者6,434名(木造建築倒壊による圧死が80%)を大幅に上回ると参考までに指摘しておきたい。人口密度が五倍になれば、被災者が一〇倍というのも意味不明であるが、人口も東海地震の地域の人口を出して比較したほうがいいだろう。

>もしその最悪の予想通りになれば、あのすさまじい一九九五年の阪神大震災が一〇〇回繰り返された時の死者数、を意味する。(35p)

危機管理は最悪を想定するのが基本ではあるが、ツッコミどころ満載の荒唐無稽な「予想」に基づかない限り、地震だけの被害で数十万死ぬとは考えられないだろう。もしも東日本大震災クラスの津波が来れば、被害者数は人口密度からとんでもない数になると予想はされるが、勿論阪神大震災の数字と比べることに何の意味もないということになる。

・・・ところで、35p進めるだけでこの有様である。このトホホな本につっこんでいくと、何時までたっても終わらないという目処はついてきた。道理で論争を拒否するわけである。残念ではあるが、今後飛ばし飛ばしになるかもしれない。