ワニなつノート

わたしは、無条件に子どもの側につく(その9)


わたしは、無条件に子どもの側につく(その9)



子どもを普通学級に入れるだけでは、
「無条件に子どもの側につく」ことにならない場合もあります。

親が子どもの道を決めて「守っている」あいだは、
子どもは、自分の側につくことができません。

親を守りながら、自分につくことは、
子どもにはできません。

子どもが「親を守っている」間は、
子どもは親の側につきます。

そうした子どもは、たとえば無条件に
自分を受けとめてくれる人に出会って初めて、
自分の本音を生きることができるようになります。

たとえば、親と離れて距離ができることで、
自分を生きていいと思い始めることができます。

親が子どもを守り続けている間は、
子どももまた親を守り続けるしかなく、
それは、苦しいだろうなと思います。

  ◇    ◇    ◇

無条件に子どもの側に立つということ。
それは、普通学級という条件を、
親が「選ぶ」のではありません。

他の子が「選ばなくていい」ことなら、
この子も「選ばなくていい」だけのことです。

だから、普通学級を「選ぶ」のではなく、
特別な生き方、特別な教育を「選ばない」ということ。

ただ、自分が子どもだったときと同じように、
自分が知っている子どもたちと同じように、
兄弟姉妹と同じように、
地域の子どもと同じように、
ただ、無条件に子どもの側につくのです。


義務教育の「義務」は、子どもの「義務」ではありません。
子どもたちに教育の場を、
学びあう場を準備するのは、親と国の「義務」です。

子どもにとっては、学ぶ権利としての教育です。
そこはすべての子どもが、
安心して学べる環境でなければなりません。

子どもが生きている世界、
子どもが生きていく世界を、
自分の目で、自分の体で、
自分の感情で、見て、聞いて、感じること。
子どもには膨大な量の観察学習が必要なのです。

無条件に子どもの側に立つとは、
この子にだけ一番いい場所を、親が選ぶことではなく、
ただ、地域の「普通学級」にふつうに行くことです。

そして、そこで「条件」をつけてくる「学校」に、
字が書けるようにしろだの、
45分座っていろだの、
親に付き添えだの、
ごちゃごちゃと「条件」をつけてくる学校に、
私はこの子の親として、「無条件に子どもの側につく」と
宣言することでした。

そこが「いいところ」だからと条件を選んで、
行くのではありませんでした。
だから、そこが「いいところ」でないなら
子どもが安心できるように変えてもらわなければなりません。

この子にとって「よくないところ」は、
みんなにとっても「よくないところ」だと、
自信をもって伝えていかなければなりません。


(つづく)

コメント一覧

ai
拍手拍手です。
あたりまえのことをあたりまえに生きること。
特別じゃないってこと。
みんな同じ子どもだってこと。
ともに学びともい育つことに、なにも遠慮はいらないのだということ。
ひとつひとつ・・・
私自身の育ちなおしです。


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