ワニなつノート

伊部さんに会って話したいこと(その4)


伊部さんに会って話したいこと(その4)


《折れる力》



治すことへの無力さ。
相手を変えようとする意志の、弱さ。
相手をましにしようと、ねじふせる力の無さ。

能力=力があることが、教育だと間違えている人がたくさんいます。
力がしつけだと勘違いする親と同じ間違いなのに、それが「学校」だと人はかんたんに騙されます。

「相手のため」。
ほとんどの場合、「相手のこと」なんかじゃなく、自分の満足(境界線)の表現でしかないのに。

目の前の「相手」と、共にある、とは、相手と折り合いあう息の仕方を整えること。

折れる力。それは、相手に折れるのではありません。

「相手に折れる」と間違えるから、虐待や体罰は世界にあふれているのでしょう。

「子どもになめられている」と間違える。
「子どもにバカにされている」と間違える。
「子どもが反抗的」だと間違える。
「子どもに試されている」と間違える。


ただ自分という存在の譲れないものを必死に守ろうとしている子どもの姿が見えず、自分が折れて傷つくことしか考えられないのでしょう。

子どもは、ゆずれない思いにくるまって、じっと目を閉じ、息をひそめ、耳をすましています。

雑然とした怒鳴り声や響きわたる物音の、その遠く彼方から、まっすぐに間違いなく自分を呼ぶ声に耳をすませています。

その子に声を届ける力と、「折れる力」は、どこかでつながっていると思うようになりました。

「相手に折れる」のではなく、自分で作った自分のこだわりの形、に折れることだと思うようになりました。
自分の知っていること、自分の知っているやり方が、正しさの形だと、自分を守るために作った「常識」というこだわりが、おびやかされるのが怖いのでしょう。
自分のなかの小さな子供が脅かされるかのように、大人の私が恐れているように見えます。


自分で作った限界を知ること。

相手に折れるのではありません。
自分と、自分のなかの子どもと折り合うのです。
相手とうまく出会えない自分の窮屈さを、自分に認めること。

その自分に折り合うことで、相手と折り合う姿に、自分が変わる道がみえます。
相手は、まだ小さな子どもで、折れることなどできません。
折れてしまったら、自分じゃなくなると分かっているのですから。
折れる=折り合うだけの「常識」や比較、違いを手に入れるのは、ずっとその先のこと。

そのせめぎあいの時間のなかで、相手が聞きたい声。
待っている声。
相手が、呼ばれていると感じられる声を。

相手の名前を、
かけがえのない相手の名前を呼ぶ声を、
自分のなかに
見つけるために。
そのために、私に必要だったのは、折れる力でした。


普通学級の子どもたちの間に起こることは、この「相手を呼ぶ声」を自然と手に入れることができるということでした。

何度も自分の名前を呼ばれる体験を、呼びあう体験を、するということ。
大人の声でなく、仲間の声で、飛び交う「名前」同士の関係を生きる宇宙を、生きること。



伊部さん。
そんなことが、ようやく少しだけ感じられるようになりました。
いま、ふっと、伊部さんがいくつだったのか、知らないことに気がつきました。
…古い雑誌をみたら49年生まれとあったから、11コ上だったことになりますね。
…伊部さんの声が聞けなくなって6年が過ぎたけど、私はいつも伊部さんにうなずいてもらいながら、言葉を探しています。
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