「存在とは何だ」(3)
「ハイデガーは、『それは何であるか』という問い方そのものが
『哲学』の問い方であり、このように問うときすでに、存在に対す
るある態度決定がおこなわれてしまっている、と言いたいのである」
(木田元「ハイデガーの思想」岩波新書268)
この本はその後、ハイデガーによるプラトンの「イデア」、アリストテ
レスの「エネルゲイア」批判を展開するのだが、私は、それでは「そ
れは何であるか」と物事の本質を問うことが、何故、ある態度決定
がおこなわれてしまうことになるのかを考えようと思う。つまり、「何
であるか」とは何であるかということである。
たとえば、Aは「何であるか」と問う時、我々は少なくともAの
存在は認識しているはずである。そこではA=Aである。ところが、
Aについてさらに「何であるか」と問うことは事実(A=A)を超え
た本質を求めることになる。つまり、A= a+a' のように。それで
は a とはそもそも「何であるか」と問い始めるとそれは無限連鎖に
帰趨して、Aの本質そのものから離れて行ってしまう。つまり、本
質を求めるための解析は本質そのものに辿り着けない代わりに解析
という手法だけが残される。西洋形而上学は本質を問いながら本質
は見失われ、ただ解析という手法だけが残って自然科学が生まれた。
今、我々の自然科学は本質を追い求めて素粒子にまで辿り着き「何
であるか」と問いながら、何れそれは再び A へと回帰して来ることだ
ろう。つまり、 a + a' =A であると驚きをもって語られる日が来るに
違いない。
(つづく)かも
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