「存在とは何だ」(3)

2011-09-18 16:25:31 | 「存在とは何だ?」
        


             「存在とは何だ」(3)


 「ハイデガーは、『それは何であるか』という問い方そのものが

『哲学』の問い方であり、このように問うときすでに、存在に対す

るある態度決定がおこなわれてしまっている、と言いたいのである」

(木田元「ハイデガーの思想」岩波新書268)

 この本はその後、ハイデガーによるプラトンの「イデア」、アリストテ

レスの「エネルゲイア」批判を展開するのだが、私は、それでは「そ

れは何であるか」と物事の本質を問うことが、何故、ある態度決定

がおこなわれてしまうことになるのかを考えようと思う。つまり、「何

であるか」とは何であるかということである。

 たとえば、Aは「何であるか」と問う時、我々は少なくともAの

存在は認識しているはずである。そこではA=Aである。ところが、

Aについてさらに「何であるか」と問うことは事実(A=A)を超え

た本質を求めることになる。つまり、A= a+a' のように。それで

は a とはそもそも「何であるか」と問い始めるとそれは無限連鎖に

帰趨して、Aの本質そのものから離れて行ってしまう。つまり、本

質を求めるための解析は本質そのものに辿り着けない代わりに解析

という手法だけが残される。西洋形而上学は本質を問いながら本質

は見失われ、ただ解析という手法だけが残って自然科学が生まれた。

今、我々の自然科学は本質を追い求めて素粒子にまで辿り着き「何

であるか」と問いながら、何れそれは再び A へと回帰して来ることだ

ろう。つまり、 a + a' =A であると驚きをもって語られる日が来るに

違いない。


                                (つづく)かも



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 「存在とは何だ」(2)

2011-09-18 02:41:45 | 「存在とは何だ?」


          「存在とは何だ」(2) 


 木田元(著)「ハイデガーの思想」を読んだ。実は、ハイデガーの 

「存在と時間」を読んでいないので語ることはできないのだが、ぼ 

んやりとではあるがハイデガーが何を考えていたのかが窺えた。私

は若い頃、暇を持て余して東京の下町の図書館に入った時、そこで

偶々サルトルの「実存は本質に先行する」という言葉を目にし て、

それまで存在の本質を追い求めていた自分の思考を停止させられた

ことを思い出す。それは自分にとって大きな転換だった。その 頃、

ハイデガー「について」書かれた本も手に取ったが、確かその中で

ハイデガーは、サルトルのその言葉を聞いて「先行すると言ったの

か」と何度も尋ねた、と書かれてあったが、その意味がよく解った。
つまり、ハイデガーによれば、西洋形而上学はプラトン、アリスト

テレスによって存在を本質存在(イデア)と事実存在(自然)の二義的

に区別され、その優位性は時代によって何度も転換を繰り返してき

たと言うのだ。「そこで彼(ハイデガー)はサルトルのこの主張を嗤

って、『形而上学的命題を転倒しても、それは一個の形而上学的命

題にすぎない』」(同書より)、つまり、卵と鶏のジレンマと 同じこ

とだ。ただ、我々が「存在に関して『それは何であるか』と問うと

き、存在はすでに『本質存在』に限局され」(同書より)、そもそも

「本質存在と事実存在との区分の遂行とその準備とともに形而上学

としての存在の歴史が始ま」ったのだ。だから、上のサルトルの言

葉は、時代が変われば簡単に「本質は実存に先行する」ことになる

と言うのだ。ハイデガーのことばは明らかに「存在と何か」を問う

西洋形而上学の否定に他ならない。 


                               (つづく)