「日本存亡のとき」(2)

2011-09-25 05:47:32 | 「パラダイムシフト」

 


          「日本存亡のとき」(2)

 
 高坂正尭氏は著書「日本存亡のとき」の中でこう言っている。

「成功はすばらしいものだが、厄介なものでもある。というのは、

成功は次の時代における成功を難しくさせるところがあるからであ

る。それも、増長や慢心が最大の障害ではない。もちろん、それは

必ずおこる」 「にわかにその地位が向上したものはだれしも、この

ような成功が続くだろうか、という不安を心に抱いているものであ

る。だから、かれらは問題を見ないわけではなく、なにかしなくて

はならないと思っている。しかし、適切な対応策を講ずることがで

きない。」 「したがって問題は、成功したものが問題に直面して

適切な対応策をとりえないことにある。そこに成功の真実の恐ろし

さがある。成功したものは、成功がもたらす問題や、状況変化にう

まく対応できないところがある。」 「それを要約していうなら不確

定性が増大し、われわれが選択できる幅も選択しなくてはならない

こともともに増えた。それはよいことだが、難しくもある。」

(同書、第四章「成功と代償」1日本の成功「出世払いの請求書」)

 彼は「成功は次の時代における成功を難しくさせる」と言う。戦

後、何もない焼け野原の中でわれわれは如何に生きるべきかの選択

は限られていた。今をどう生きるかだけを考え、目の前のことに必

死でしがみつくしかなかった。もちろん、それが成功をもたらした

とは言えないが、ただ迷いが生ずる余地がなかった。ところが、成

功を果たしたものは次に選択(可能性)が拡がり、それが迷いを生む

原因となる。また、それだけではなく、成功の事実が周りの状況を

変化させたことに気付かない。つまり、自分自身は迷いながら状況

が変わったことに気付かずに同じ対応を繰り返す。いくら迷いを絶

って以前の虚心を取り戻そうとしても状況まで変えることはできな

い。状況の変化に気付たときは再びその状況の中で選択に迷い、そ

の堂々巡りを繰り返す。つまり、長嶋一茂はいくら望んでも長嶋茂

雄にはなれないのだ。いや、仮になれたとしても彼を取り巻く社会

状況は全く変わっているし、何よりもかつて長嶋茂雄という名選手

が活躍したという記憶まで消し去ることはできない。だから、長嶋

一茂がいくら父と同じ能力を持って現れたとしても再び同じ成功を

手にすることはできない。

 かつてわが国は「経済成長なくして財政再建なし」を定立として

財政再建に取り組んだが、しかし、それは高度経済成長を果たした

国家については適応すべきではなかった。何故なら、すでに経済成

長を果たし終えていたからだ。それは、長嶋一茂が父長嶋茂雄のよ

うになりたいと願っても叶わないのと同じことである。但し、テー

ゼそのものは誤りとは言えない。つまり、「長嶋茂雄なくして長嶋

一茂なし」。だからと言って、長嶋一茂に長嶋茂雄を求めるのは

誤りである。

 われわれは財政再建するための選択を、経済成長を成功させた後

の状況の変化を考慮せずに対応してしまった。「経済成長なくして

財政再建なし」というテーゼには前提条件が必要だった。それは経

済成長と財政再建が可能であることと、経済成長によって支出を上

回る税収が見込めることである。しかし、実はそれらは何れも怪しか

ったのだ。債務は既にGDPの二倍を越えていたし経済成長はデフレ

スパイラルから抜け出せず消費が落ち込んでいた。我々はテーゼば

かりを信じて現実を見なかった。それは、「成功したものが問題に直

面して適切な対応策をとりえないこと」に通じる。従って経済成長を成

功させた後の状況を考慮すればこう言うべきでなかったか、つまり、

「財政再建なくして財政再建なし」と。


                          (おわり)

 


 

 

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