「偽りのネット社会」
拙い作文をブログに書ていて、というのは、これからは電子書籍の
時代だと思ったからで、ところが、どうもしっくりこない。自分で小
説を書いているくせに、人の作品は読む気がしない。もちろん、まっ
たく読まなかったわけではなかったが、夢中になって読みたくなる小
説や文章に出会わなかった。これは何も、作者の所為ではなくて、こ
の電子媒体に原因があるのではないだろうかと思い始めている。つま
り、インターネットは情報を遣り取りするのには優れていても、だか
ら「今何処で何が」を伝えるには適していても、人の生き方や思想を
語るには相応しくないのではないか。私は、誰もが気儘に書ける落
書き帳に「近代文明の終焉」や「存在とは何か」を長々と載せてしま
った勘違いに気付いた。電子媒体の記事は常に更新しないと埋もれて
しまう。しかし、人の生き方や思想やはそんな簡単に更新することな
ど出来ないのだ。更に、媒体として安易であるが故に書物のように残
らない。本と電子書籍との扱いの違いを指摘する記事を読んだが、恐
らく、そんなことには何れ慣れてしまうだろうが、読み終えた本のよ
うにものとして残らないことが、人の生き方や思想に対する自分の思
索の拡がりを生まない。再び思い起こす便(よすが)がないので読み終
わると同時に思索も終わる。つまり、我々の想いとは、実は「もの」
に根付くものなのではないだろうか。
かつて私は、青空文庫で北条民雄の『いのちの初夜』を読んだ。実
は、それまでその作家を知らなかった。彼は、作家として自らの病と
向き合い、その絶望的ないのちを澄み切った眼で見て綴り、その絶望
感が伝わってきて涙を流さずには読めなかった。そして、サイトを閉
じると最早私の手元にはその感動を振り返る「もの」は何も残されて
いない。しかし、本として残されいれば、恐らく、その本を目にする
度に彼の想いを振り返る機会を得たのではないか。本は読後に追想
や思索を生むが、ネットは残らないが故にその契機を生まない。数
分後には猫か犬の動画を見て微笑んでいるか、裸のお姉ちゃんを見て
興奮している。しばらくすれば心揺すぶられたことさえ忘れ去られる。そ
ういう媒体に四六時中接していて、我々は信念だとか意志だとか自分自
身に関わる大切なアイデンティティーを失わずに居れるだろうか。情報
化社会ではその場限りの言葉が交わされ、政治家は、国民に約束した
ことを簡単に反古にし、糾されたら悪びれることなく削除して遁る。誰も
問題から逃れることばかり願って真摯に向き合おうとはしない。政治家
だけならず社会全体が先のことばかり追い求めて今を蔑にしていないだ
ろうか。言葉だけの「ポジティブ」に励まされて自らを省みることなく明るく
振舞う。ただ逃げてるだけじゃないのか。避けること、拘らないこと、そし
て忘れること、不都合な事態も更新すればすぐに埋もれてしまうのだから。
そして、会ったこともない「ともだち」のどうでもいい話に、「いいね」「いいね」
をクリックして繋がりを求め、しかし、果たしてその中のどれだけの他人が
本当の「ともだち」と呼べるのだろうか。そこから「絆」が生まれるのだろうか。
そんなものは誰も求めていないって。そうだ、きっと俺が間違っていたんだ。
つまり、インターネットとは、自分自身を忘れて偽りの社会と繋がるための
「自慰」装置だったのだ。だから、ここから「新しい何か」が生まれてくるとは
到底思えない。私は、語る場所を間違っていた。
* 北条民雄 「いのちの初夜」(青空文庫より)