「めしべ」⑧
たとえば、わたしの目の前にあるものを「コップ」と認識した時、
つまり、わたしが「コップ」という言葉からイメージするものと目
の前のものが一致した時、日常生活の中でわたしは途端にコップへ
の関心を失ってしまう。わたしはコップの用途も知っているし何故
ここに在るのかも解っている。だから、ことさら目の前のコップに
関心が沸かない。コップはすでにわたしによって意味付けされてい
るからだ。多分、コップはわたしの目を盗んでビンに変わったりは
しないだろう。コップはわたしの認識に捉えられて逃げ出すことは
できない。われわれが「何であるか?」と意味を問うのは「未知」
なものに対する本能的な恐怖から逃れるために理性による認識によ
って「既知」に捉え直すためである。ところが、わたしの認識がコ
ップを捉えたようには捉えることができないもの、たとえば「なぜ
世界は存在するのか」とか「なぜ世界は斯くあるのか」とか、それ
どころか「なぜ私は生まれてきたのか」とか、それなのに「なぜ死
ぬのか」とか、依然としてわれわれの認識によってしても「既知」
へと変換し得ずに止揚できないさまざまな「未知」のことがらにつ
いて、われわれはコップを認識したようには捉えることができない。
謂わば、それらは依然として「既知」外である。
(つづく)