「新しい価値定立」
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哲学者 木田元によると、ハイデガーは「人間を本来性に立ちかえら
せ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそらくは《存在=生
成》という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと
見るような自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにき
ている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てて
いたのである。」(木田元著「ハイデガーの思想」より)と言う。ハイ
デガーは、理性によって固定化された近代科学文明社会は生成として
の人間にいずれそぐわなくなり行き詰まることを早くから予見してい
た。たとえば極端な話だが、我々が走る能力を進化させて時速100
kmで走ることができれば、自動車は役に立たなくなりガラクタにな
ってしまうが、それとは反対に車に頼った生活は人間から歩行機会を
奪っていずれ人間の歩行能力は退化する。つまり、人間だけを自然の
中から取り出して、人間の思い通りに自然を作り変えることは人間か
ら進化を奪うことになる。ところで、人間中心主義的文化とは自然を
《存在=現前性=被制作性》と認識して、自然は《作られたもの》ま
た《作られ得るもの》として捉えられ、自然を制作のための死せる材
料と見る自然観の下に近代ヨーロッパの文化形成が行われてきた。そ
れは《作る》技術を担う人間が世界の中心である人間中心主義にほか
ならない。では、「もう一度自然を生きて生成するものと見るような
自然観を復権すること」(木田元) になれば、科学技術によってもたら
される人間中心主義は崩れ、それはヒューマニズムの終焉を意味する。
たとえば、ヒューマニズムが科学技術によって代表されるのは医療技
術にほかならならないが、生成としての人間が事故や病気が原因で死
ぬことは極めて自然なことだとすれば、科学技術による延命治療は自
然に反することになる。こうしてハイデガーはヒューマニズムに撞着
して自らの考えを改めざるを得なかった。果たして人間とは自然の中
の一部なのか、それとも、自然とは人間が生きるための材料(ヒュレ―)
にすぎないのか?
(つづく)