ハイデガー「存在と時間」上・下(2)

2020-06-30 10:47:58 | 「ハイデガーへの回帰」

        ハイデガー著「存在と時間」上・下

 

              (2)

 ただ、それにしても難解だ。すでに上巻の半分、つまり四分の一くら

いまでは目を通したが、一度読んだだけではまったく頭に入って来ない。

しかも、上下巻合わせて1000ページを超える大冊にもかかわらず未

完だという。にもかかわらず爆発的に読まれた。そもそもハイデガーは

自著「存在と時間」を「現象学的存在論」、或は「存在の歴史の現象学

的解体」と呼んでいるが、現象学とは現存在(人間)の意識を問う認識論

であって「存在とは何か」を問う存在論とは異なる。木田元は「〈存在〉

というものがけっして存在者に属する何かではなく、人間において生起

する在る働きだということを原理的に解き明かし、その働きを体系的に

解明することが現象学の使命だと言っているのである。」(同上)と説くが、

しかし、 恥ずかしながら私はこの〈存在者〉と〈存在〉の違いがまった

く理解できなかった。〈存在者〉とは、たとえば机やその上に載っている

リンゴや、それら諸々の存在物のことを言うが、ところが〈存在〉とは、

それらすべての存在者をそのように存在者たらしめている〈存在〉のこ

とである、つまり「存在は存在者ではない」ということである。そして

〈存在とは何か〉とは一に人間だけが拘る問いである。ライプニッツと

いう哲学者は「なぜ何もないのではなく何かが存在するのか。」(ライプ

ニッツ『理性にもとづく自然と恩寵の原理』)と言い、この〈存在する〉

というのはどういうことなのかと問うている。たとえば「人間以外の動

物は、その時どきの生物学的環境に身を置き、それにうまく適応するこ

とによって生きている。」「しかし原理的には、その環境を離れること

は動物にとって死を意味する。動物にとっては与えられた環境がすべて

であり、それはそれしかありえないものなのである。動物のこうしたあ

り方を、マックス・シェーラーが〈環境呪縛性〉と呼んでいる。」(この

シェーラーは、ハイデガーと同じフッサール門下で兄弟子にあたる)「し

かし、人間だけはその時どきの環境に完全にとりこまれ縛りつけられる

ことなく、そこから少し身を引き離し、」「もっと広い〈世界〉に開か

れている。」ハイデガーは「人間のこうしたあり方を〈世界内存在〉と

いう奇妙な概念で捉えている。」そして、「いったい生物学的〈環境〉

と対比して、人間に特有の〈世界〉とは何であろうか。」と問い、「一

般に動物は、多少の幅はあるにしても狭い現在を生きることしかできず、

したがって、現に与えられている環境に閉じこめられることになる。そ

こには過去も未来もないのである。ところが、神経系の発達がある閾を

越えた人間は、記憶や予期の働きによって、過去や未来という次元を開

くことができる。もっと正確に言えば、現在のうちに、あるズレ、差異

化(デリダの言う〈差延[デイフェランス]〉)が起こり、そこに過去とか

未来とか呼ばれる次元が開かれてくる。そうした次元へ関わる関わり方

が記憶とか予期とか呼ばれるのである。そうすることによって人間は、

現に与えられている環境構造のうちに生きながらも、そこにかつて与え

られたことのある環境構造や、与えられうる可能な環境構造を重ね合わ

せ、それらをたがいに切り換え、相互表出の関係におき、そうすること

によって、それらさまざまな環境構造のすべてをおのれの局面(アスペク

ト)としてもちながらも、けっしてそのどれ一つにも還元されることのな

いような参照項Xを構成して、現に与えられている環境構造をそのXの

もちうる可能な一つの局面として受けとることができるようになる。」

 長い引用になりましたが、「」内はすべて木田元「ハイデガーの思想」

からの引用です。

                           (つづく)