ハイデガー著「存在と時間」上・下(1)

2020-06-29 16:06:37 | 「ハイデガーへの回帰」

      ハイデガー著「存在と時間」上・下

 

           (1)


 敬愛する木田元の「ハイデガーの思想」(岩波新書)を再読していると、

どうしてもハイデガーの著作「存在と時間」を読まずに居れなくなって、

ネットで買ってしまいました。それというのもハイデガーのこの著作は

第一次世界大戦後の1927年に刊行され瞬く間に西欧の思想界に多大

な衝撃を与え、その後の思想家たちも少なからず影響を受けました。も

しも今の時代が100年前の世界状況と似ているのであれば、おそらく

限界に達した世界を再認識しようとする渇望に苛まれるに違いありませ

ん。そもそも木田元が終戦後(昭和25年)の混乱した時代にそれまで籍

を置いていた農業専門学校をやめて東北大学の哲学科に再入学したのは

このハイデガーの「存在と時間」をどうしても読みたかったからだった

と述懐しています。そして、ハイデガーとは同い年(1889年生れ)の

哲学者ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』(1922年)の中

のことばから「私の言語の限界が世界の限界を意味する」を引用して、

「言語によって〈語られうるもの〉はすべて世界の限界内に、つまり世

界の内部に存在している、ということである。われわれは日常、この世

界の内部でこの〈語られうるもの〉、つまりは〈存在者〉とだけ関わり

あって暮らしており、それら存在者を在らしめている〈存在〉とか、そ

の場をなしている〈世界〉とかを意識することはない。」(木田元「ハイ

デガーの思想」) ところが、「これまで過ごしてきた自分の人生全体の

意味なり、何らかの作用連関によって連続的に経過してきたように思わ

れた歴史全体の意味なりが根本から問われるような場合、それが心理的

動機になって、日頃は意識されることのない〈存在〉とか〈世界〉とか

が突然意識されるようになる。そんなふうに、ある機会に、日常そこに

閉じこめられている言語の限界、世界の限界を突き破って、それを超え

出ようとする形而上学的衝動といったものがわれわれのうちにはあるの

だ――と、こういうことをウィトゲンシュタインは語ろうとしているの

である。そういうとき、『存在とは何か』といった、日常的経験のレベ

ルではほとんど無意味としか思われないような単純な問いが発せられ、

その問いに人生なり歴史なりの全体に対する根本的な態度決定が結集さ

れるのであろう。ハイデガーの思索の重要性も、こうした問いを徹底的

に問いぬこうとしたところにある。」(同上)

 つまり、われわれは改めて「存在とは何か」を問うことによって限界

に達した世界を見直して転換させようとするのだ。 

 ただ、それにしても難解だ。すでに上巻の半分、つまり四分の一くら

いまでは目を通したが、一度読んだだけではまったく頭に入って来ない。

しかも、上下巻合わせて1000ページを超える大冊にもかかわらず未

完だという。にもかかわらず爆発的に読まれた。そもそもハイデガーは

自著「存在と時間」を「現象学的存在論」、或は「存在の歴史の現象学

的解体」と考えているが、現象学とは現存在の意識を問う認識論であり

「存在とは何か」を問う存在論とは異なる。木田元は「〈存在〉という

ものがけっして存在者に属する何かではなく、人間において生起する在

る働きだということを原理的に解き明かし、その働きを体系的に解明す

ることが現象学の使命だと言っているのである。」(同上)と説くが、し

かし、 恥ずかしながら私はこの〈存在者〉と〈存在〉の違いがしばらく

理解できなかった。〈存在者〉とは、たとえば机やその上に載っている

リンゴや、それら諸々の存在物のことを言うが、ところが〈存在〉とは、

それらすべての存在者をそのように存在者たらしめている〈存在〉全体

をいう。ライプニッツという哲学者は、「なぜ何もないのではなく何か

が存在するのか。」(『理性にもとづく自然と恩寵の原理』)と言い、こ

の〈存在する〉というのはどういうことなのかと問うている。つまり「

存在は存在者ではない」ということである。

 

 

                           (つづく)