ハイデガー「存在と時間」上・下(4)

2020-07-17 08:07:36 | 「ハイデガーへの回帰」

                ハイデガー著「存在と時間」上・下

 

             (4)

 われわれが「存在とは何か?」と問うときに、そもそも「存在

(ある)とは存在者(あるもの)ではない」ということらしい。ここで

も形而上学思惟がもたらす本質存在と事実存在の二元論がみられ

る。そして、それは「現存在が存在を了解するときにのみ、存在

はある」(ハイデガー)。現存在とは人間のことであるから、人間が

現実(存在者)を離れて(超越して)〈存在了解〉するときにのみ〈存

在〉はある、ということになる。それでは〈存在了解〉とは何か?

「〈存在〉とは現存在によって投射され設定される一つの視点のよ

うなものであり、現存在がみずから設定したその視点に身を置くと

き、その視界に現れてくるすべてのものが〈存在者〉として見えて

くる、ということである。」(木田元『ハイデガーの思想』)

 しかし、〈存在了解〉によって存在者(世界)全体が見えたとしても、

一個の存在者である人間が〈存在〉の視点から存在者全体を変えるこ

とは、つまり、「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとって

おこなうというのは、明らかに自己撞着であろう。」(同書)

というのだ。

 これと似たような思いを私自身も味わったことがある。都市生活(人

間中心主義的文化)を棄てて自然の中で暮らすことに憧れたが、しかし

都市生活者がかりに「自給自足」によって生活するにしても、まずそ

こそこの現金、たぶん初期費用だけでも1000万円以上がなければ

生活できないことが分った。それは生活費を稼ぐために農機具などの

設備投資で忽ち消えてしまうが、かと言って収穫が補償される訳でも

ない。昨今のように異常気象の下では収入なしのことだって起こり得

る。そして何よりも、地方で暮らす人々もすでに近代化に呑み込まれ

ていて、否、地方こそが近代化を渇望していて、たぶん自然回帰への

思いは都市生活者の方が強いに違いない。分かり易く言えば、都会の

者は車に依存しなくても暮らせると思っているかもしれないが、地方

では何処へ行くにも車に依存しなければ暮らせない。すでに人間中心

主義的文化、つまり近代科学文明社会は、もはや後戻りすることがで

きないほど世界中を毒しているのだ。もはや自然の中でののんびりし

た暮らしは、所詮は都市経済に依存しなければ一時たりとものんびり

とは暮らせないのだ。こうして、「人間中心主義的文化の転覆を人間

が主導権をとっておこな」おうとすれば、まず人間中心主義的文化(近

代科学文明社会)に頼らざるを得ないという自己矛盾に気付かされる。

 ハイデガーは「存在と時間」の続編を出版する前に、本人自らが後に

言及したのだが、考え方が「転(ケ―レ)」して刊行を見送った。これは

以前にも記しましたが、ハイデガー哲学の第一人者木田元によれば、

「〈存在了解から存在の生起へ〉、もっと正確に言えば、〈存在了解の

歴史〉から〈存在生起の歴史〉へとその考え方を変える。これが彼のい

わゆる前期から後期への『思索の転回(ケ―レ)』と言われる。この転回

を、〈現存在が存在を規定する〉と考える立場から、〈存在が現存在を

規定する〉と考える立場への転回と言うこともできるかもしれない。」

 つまり〈存在了解〉という概念が躓きの原因だと言うのだ。さらに、

「この概念には、それが現存在の在り方と連動するものであり、したが

って現存在がその在り方を変えることによって変えることのできるもの

だという合意がある。そのかぎりでは、前期のハイデガーは〈現存在が

存在を規定する〉と考えていた、といってもよいかもしれない。」 

                          (つづく)