ハイデガー「存在と時間」上・下 (6)

2020-07-28 02:50:19 | 「ハイデガーへの回帰」

      ハイデガー著「存在と時間」上・下

              (6)

 そもそも人間は、いや、この世界で命を得て存在するすべてのも

のはいずれ死ぬと存在しなくなる。いずれ存在しなくなる存在者を

果たして本当の存在者と言えるのだろうか?つまり、いずれ存在し

なくなる存在者とはいったい何であるのか?ところで「何であるか

?」を問うことは存在の本質を問うことにほかならない。存在の本

質を問うということは、不変の真理である本質存在と、いずれ存在

しなくなる事実存在に二分され、いずれ存在しなくなる事実存在と

は真の存在ではなく仮象の存在でしかなく、そして絶対不変の真理

としての本質存在こそが真の存在、つまり〈イデア〉の世界の存在

である、とプラトン/アリストテレスは考えた。そして、「イデア

としての存在こそがいまや真に存在するものへと格上げされ、以前

支配的であった存在者そのもの(つまり自然[ピュシス])は、プラトン

が非存在者と呼ぶものに零落してしまうのである」(ハイデガー)  移

り変わる自然もまた絶対不変の真の存在ではなく、いずれ存在しな

くなる存在者は「非存在者」として、それらは〈存在=被制作性〉

としての存在概念によって規定され、混沌の中から〈イデア=真の

世界〉を模倣して形作られた。このプラトン/アリストテレスによ

ってもたらされた存在概念は、以来、中世スコラ哲学では世界は神

によって創られたと信じられ、また近代では自然を制作のための単

なる材料として扱われ、ついぞ自然を生きて生成するものとして見

るような視点は失われた。

 それでは、プラトン/アリストテレス以前の思想家たちは〈存在〉

についていったいどういう風に考えていたのだろうか。彼らはドイ

ツ語読みで「フォアゾクラティカー」(vorsokratiker)と呼ばれ、意味

は「ソクラテス以前の思想家たち」で、人物を挙げればアナクシマン

ドロスやヘラクレイトス、パルメニデスといった人々だが、彼らは一

様に『ピュシス(自然)について』という同じ表題で本を書いたという

伝承があるらしい。あえて「ソクラテス以前の思想家たち」と分け隔

てるのは「何であるか?」を問うソクラテス、プラトンと同時代の人

々とは異なった思想を語っていたからである。これまで何度も記述し

てきたように、そもそも形而上学(メタ-ピュシス)とは、自然(ピュシス)

を越えた(メタ)学問のことで、それは「何であるか?」を問うが、存

在者の存在を問うことは存在者を本質存在と事実存在に二分すること

になり、不変の真理である本質存在は〈イデア〉の世界へ、変遷流転

する事実存在は〈仮象〉の世界でしかない。ハイデガーは、「存在が

区別されて本質存在と事実存在になる。この区別の遂行とその準備と

ともに、形而上学としての存在の歴史が始まるのである。」と、形而

上学の下では本質存在の事実存在への優位は揺るがない。しかし、「

ソクラテス以前の思想家たち」、つまり〈形而上学〉(メタ-ピュシス)

以前の思想家たちは〈ピュシス〉(自然)全体のことは思索したが、存

在者を本質存在と事実存在に分けて存在の意味を問うことは決してし

なかった。ハイデガーに言わせると、「存在者が存在のうちに集めら

れているということ、存在の輝きのうちに存在者が現われ出ていると

いうこと、まさしくこのことがギリシャ人を驚かせた」のであり、こ

の驚きこそがギリシャ人を思索に駆り立てたのだが、当初その思索は、

おのれのうちで生起している〈存在〉という視点の設定というその出

来事にひたすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかなか

ったのである。ハイデガーは、このようにして開始された思索、つま

りソクラテス以前の思想家たちのあの自然(ピュシス)的思索を「偉大な

る始まりの開始」と呼んだ。

 そもそも哲学(フィロソフィー philosophy)の語源であるギリシャ語の

フィロソフィア(philosophia)は、『「愛」を意味する名詞「フィロス」

の動詞形「フィレイン」と、「知」を意味する「ソフィア」が結び合わ

さったものであり、その合成語である「フィロソフィア」は「智を愛す

る」という意味が込められている。』(ウィキペディア「哲学」より一部

抜粋)「存在に随順し、それと調和し、そこに包まれて生きていることと、

この存在をことさらに〈それは何であるか〉と問うことは、まったく別

のことなのである。そのように問うとき、すでに始原のあの調和は破れ、

問う者はもはや始原の存在のうちに包みこまれたままでいることはでき

ない。こうして、〈叡智〉(ト・ソフォン)との調和がそれへの〈欲求〉(

オレクシス)、それへの〈愛〉(エロ―ス)に変わり、〈叡智を愛すること〉

(フィレイン・ト・ソフォン) が〈愛知=哲学〉(フィロソフィア)に変わっ

てしまう。」(同書) そして「ハイデガーは、このプラトンとアリストテ

レスの〈哲学〉を、ギリシャ的思索という『偉大な始まりの終焉』と見

る。」(同書)


                          (つづく)