仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(3)の改稿

2022-02-08 00:35:01 | 「死ぬことは文化である」

       仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

          (3)の改稿

 文字のなかった古代日本社会の様子はもっぱら中国が日本につい

て書き残した文献に頼るしかないが、その中国は3世紀後半に所謂

『魏志倭人伝』が載った『三国志』が書かれた三国時代の後に「五

胡十六国時代」と呼ばれる群雄割拠する戦乱の時代を迎えて、海の

向こうの島国日本に関心を向ける余裕などなくなり、中国の書籍か

ら日本に関する記述が消え、文字を持たなかった日本の歴史は3世

紀末から4世紀末まで「空白の4世紀」と呼ばれる時代を迎える。

とは言っても人々の往来は頻繁に続いていて、やがて帰化人たちに

よって「漢字」がもたらされた。そして、我国最古の歴史書と言わ

れる「古事記」が漢字によって編纂されたのは712年、続いて「

日本書紀」は720年と「空白の4世紀」は後から「神話」によって

埋められた。そもそも文字が伝わるということは当然書籍が伝わると

いうことで、書籍は必然的に現前性を超えた思想を伝えようとする。

こうして文字、つまり漢字は仏教思想とともに急速に広まった。とこ

ろで、『古事記』『日本書紀』には中国の正史として扱われる『三国

志』の中の所謂『魏志倭人伝』が伝える「邪馬台国」や「卑弥呼」に

関する記述はいっさい見当たらないが、それに代わってその実存が疑

わしい仲哀天皇の皇后である「神功皇后」を「卑弥呼」に見たてた「

新羅征伐」の物語が語られる。しかし、そもそも「卑弥呼」は皇族の

祖先であり、そして「邪馬台国」は大和朝廷へと繋がる古代国家であ

るとすれば、記紀の編纂者たちは当然『魏志倭人伝』を目にしたにも

かかわらず、何故「邪馬台国」「卑弥呼」の記述を知りながら敢えて

それには触れずに、実存しない「神功皇后」に置き換えなければなら

なかったのだろうか?つまり、『魏志倭人伝』が書かれた3世紀末か

ら『記紀』が編纂された8世紀始めまでの間に「卑弥呼」の「邪馬台

国」はそのまま「天皇」の「大和朝廷」へとは繋がらなかったからで

はないだろうか。つまり「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったく別の

国だったのではないのだろうか?ところで、かつて早稲田大学の水野

祐氏(1918年~2000年)は「応神天皇は応神王朝という新しい

王朝の始祖である」という考えをはじめて学界に提出した。(『日本の

歴史』①神話から歴史へP375~「水野学説」) 応神天皇とはその実

在が疑わしい仲哀天皇と神功皇后の子だが、「確実にその実在をたし

かめられる最初の天皇であるといってよいであろう。」(同書) 水野説に

よると、詳細は割愛するが、「3世紀の昔、耶馬台国は狗奴(くな)国と

争い、一度はその勢力をくじかれたのだが、邪馬台国が晋朝の南退(31

4年) によって後援を失うに及んで狗奴国が北九州を席捲した。」(同書)

「この狗奴国王家はさかのぼればツングース族で、早くから九州地方に

侵入し、倭人を征服して原始国家を形成したものであろう。」そして、

「応神天皇はその狗奴国王の後身である。」と言うのだ。つまり、伝説

の存在でしかない初代神武天皇から代を繋いで、その実在が確実な最初

の15代応神天皇とは、「卑弥呼」の「邪馬台国」ではなくツングース

族を祖先にする狗奴族の後裔で、言語の詳細な分析から「狗奴国つまり

応神王朝が、かつて朝鮮半島から渡来した征服王朝であったことの証拠

である。」と言うのだ。つまり、我々大和民族のルーツとは「卑弥呼」

の「邪馬台国」ではなく、朝鮮半島を南下してきたツングース族が北九

州を席捲し、そして「邪馬台国」を征服した狗奴国であると言うのだ。

                         (つづく)