仮題「心なき身にもあわれは知られけり」
(5)
今の社会から古(いにしえ)の時代を省みてまちがいを論(あげつら)
うのは過ぎた議論にちがいないが、忘れてならないことは古人の寿命
はわれわれよりもはるかに短かったことである。彼らが生死の境界を
まるで閾(しきい)を跨ぐようにいとも容易く越えてしまうことに驚か
されるが、それは生き死には天のみぞ知ることで執着したところでど
うすることもできなかったからに違いない。さらに、仏教の伝来によ
って仏教的死生観に救いを得て、閾は更に低くなった。
天武天皇の後の皇位継承を巡る対立は、鸕野皇后がわが子草壁皇子
の皇位を脅かす甥の大津皇子を陰謀によって殺害して憂いを払ったが
、ところがそのわずか3年後になんと愛息草壁皇太子が即位する前に
急逝した。そして草壁皇太子の子軽皇子は幼少だったので鸕野皇后が
仲天皇(なかちすめらみこ)として即位した、持統天皇である。その後
、軽皇太子が持統太政天皇の下で十四歳で即位、文武天皇と称号した
が、彼もまた在位十年二十五歳で病死した。
「まず、天武・持統夫婦がすでに叔父と姪の結婚である。二人の間に
生まれた草壁皇子は、持統女帝の異母妹阿閉(あへ)皇女(元明)と結婚し
たから、甥と叔母とが結ばれたことになる。その子が軽皇子、つまり
文武天皇である。草壁皇子は二十八歳、文武天皇は二十五歳で病死し
た。この二代の早世は、両親が近親だったことと関係があるのではな
かろうか。」(『日本の歴史』三巻【あいつぐ女帝】[近親結婚]より)
そもそも天皇とは天照大御神より繋がる天孫としての血統こそが存
在理由であるから近親婚が多く、それが皇族に夭逝が多かった一因だ
と言われている。
(つづく)