「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづき
すでに世界は科学技術の発展によってグローバル化が進み、望め
ば世界中の見知らぬ人々と自室に居ながらモニター越しではあるが
いつまでも語り合うことができる。つまり、南米に居る人が友人で
あってもでいい時代で、世界中がインターネットで繋がっているの
だ。一般に「国家」の定義が「領土・人民・主権」だとすれば、世
界と繋がった個人を取り巻く生存環境もどうしてもこの国でなけれ
ばならないという必然性が希薄になった。そしてグローバル化の波
はやがて民族性の違いも容易く越えていくに違いない。つまり、領
土に縛られることなく、多様化した民族性の下での「国家」の主権
とは果たしていったい誰の主権なのか。一部の権力者の主権の行使
は他の多くの人民の人権を奪うことになる。やがて主権は人民監視
の下で個人に平等に分け与えられるしかない、こうして、インター
ネットの発達は「国家」の概念を希薄化させる。かつて、明治維新
の恨みから会津藩の人々は遠く離れた長州藩の人に一角の恨みを禁
じ得なかったが、近代化がもたらした交通機関の発達によって、そ
の距離が著しく縮まると、藩を超えた日本という国家の枠の下で、
日本人同士の交流が進むと遺恨が無意味になった。つまり、アナロ
グな「国家」を超えるデジタル化した「超国家主義(スープラ・ナシ
ョナリズム)」の世界では、もはや、領土も、民族も、主権さえも無
意味化して、かつて三島由紀夫が嘆いたような世界、つまり彼が日本
について語った言葉を「国家」に置き換えたなら、
「このまま行つたら『国家』はなくなつてしまうのではないかといふ
感を日ましに深くする」(果たし得てゐない約束―私の中の二十五年)
という予感はまさに当を得ている。
(つづく)