仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(6)

2022-03-27 15:17:46 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」 

 

       (6)

 

 24歳の若さで死んだ大津皇子は、「日本の歴史」2巻 直木孝

次郎著(中公文庫)によると謀反の罪で「死刑に処された」と記され

ているが、自殺したとする説もある。現存する日本最古の漢詩集

『懐風藻(かいふうそう)』によれば、大津皇子は「状貌魁梧(じょう

ぼうかいご〈大きくりっぱ〉)にして器宇峻遠(きうしゅんえん)、幼

年より学を好み、博覧にしてよく文を属(つく)る。壮に及びて武を

愛し、多力にしてよく剣を撃つ」とある。つまり「姿は男らしく、

大人物の器で、学問がよくできるうえに武術にもひいでている、と

いうのである」(同書) また「詩賦の興るは大津より始まれり」とま

で言われ、つまり和歌や漢詩などの文芸が盛んになったのは大津皇

子から始まったというのだ。

 何れにせよ皇位継承を巡る対立から死を選ばざるを得なかった大

津皇子への哀惜の想いから姉の大伯(おおく)皇女が、「大津皇子の

葬られた二上山をのぞんで作った歌は、千年ののちもなお人の心を

うつ悲痛なひびきをたたえている。」(同書)

 以下は大伯皇女の歌、

 

現身(うつそみ)の人なる吾や明日よりは二上山を同母弟(いろせ)とわが見む

磯の上に生える馬酔木(あけび)を手折らめど見すべき君が在りといわなくに

         

 ところで、これは前にも記載しましたが、二十四歳で死んだ大津

皇子が残した最後の句は、


 百伝ふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴫を今日のみ見てや雲隠りなむ

 
 ですが、私はこの句を読んで以下の西行の句を思い出さずに居られ

なかった。


 心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋夕暮れ

 
 そもそも西行法師という人は、俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)

と言い、鳥羽院の院御所を警備する北面の武士として仕えていたが

、二十三歳の時に出家して、「その際に衣の裾に取りついて泣く子

(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。」(ウィ

キペディア)ほどその想いは固かった。私の記憶しているところで

は、「佐藤義清」はなるほど武士というだけあって、状貌魁梧(じょ

うぼうかいご)とまでは言わないが、上背のある逞しい体躯をしてい

たようで、何よりもあの時代に放浪を繰り返しながらも七十三歳ま

で長生きしたことからも頑丈な人のようだったが、ところが、もち

ろん歌から受ける印象によるのだが、「西行」と聞くと何となくひ

弱なイメージしか思い浮かばない。さて、大津皇子の辞世の句がな

ぜ西行の句を思い起こさせたのかはよく分らないが、ただ、共通す

ることばは「鴫」だけですが、何となく西行が詠う「(立つ) 鴫」と

は大津皇子が読んだ「池に鳴く鴫」にちがいないと直感した。もち

ろんそんなことはどんな解説書にも書かれていないが。新古今和歌

集を編纂した後鳥羽上皇が書き残したことばが残されていて、

「西行はおもしろくてしかもこころ殊にふかくあわれなる、ありが

たく、出来しがたきかたもともに相兼てみゆ。生得の歌人とおぼゆ。

これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず。不可

説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』) 

 今さら西行の歌の「上手」をとやかく説明するつもりは更々ないが

、歌人の彼が「詩賦を興した」大津皇子を知らないはずがないではな

いか。ただ、なぜ彼が「佐藤義清」という俗名を棄てて出家したのか

は親友の死や失恋など諸説あるようだが、しかし彼の歌を素直に読め

ば、腑に落ちる。つまり「ニヒリズム(虚無主義)」にほかならない。

 

                           (つづく)