「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」のつづきの続き
三島由紀夫は『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』の中
で更にこうも言っている、ここでも文中の「日本」を「国家」に置
き換えますが、
「『国家』はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国
が(極東の一角に)残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人た
ちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」と。
「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」とはどんな世界かとい
えば、まさに三島由紀夫が嘆くような世界に向かわざるを得ない。
デジタル化した世界は、もはや「国体とは天皇のことである」も「
血と大地」も「存在忘却」も、これまで人々が有史以来営々と積み
上げてきた伝統文化も精神も無機化されて、残るのは「機能」とし
ての「システム」だけなのだ。つまり、グローバル化によってロー
カルな民族の伝統文化は淘汰され無意味化される。だって天皇とい
う民族神話を日本人以外だれが信じたりするだろうか。つまり、「
超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」の下では国家はなくなる。
私は何故ロシアのプーチン大統領がウクライナに対してかくも破
滅的なジェノサイドを決断したのかまったく理解できなかったが、
ただ、これまでにそのような理解不能で無意味な事件は何度か見聞
きした覚えがある。それは、古くは西郷隆盛による「西南の役」で
あり、戦後は連合赤軍による一連の革命闘争や、三島由紀夫の自決
だった。おそらく国家主義者プーチンは「無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない」デジタル化した
「超国家主義(スープラ・ナショナリズム)」になびこうとするかつ
ての同邦ウクライナが許せなかったのではないだろうか。私は、プ
ーチン大統領に、新しい時代に希望を見い出せなかった晩年の西郷
隆盛や、連合赤軍、或いは三島由紀夫と同じ、たとえ世界が何と言
おうと「已むに已まれぬ」覚悟を感じないわけにはいられない。た
だ、彼らの覚悟は何れも成就しなかったのだが。
(つづく)