「存在とは何だ」(4)

2011-09-20 12:51:35 | 「存在とは何だ?」

            「存在とは何だ」(4)


 本「ハイデガーの思想」に戻ります。

 以下は、著者(木田元) と ハイデガーの言葉が交錯しますので、

便宜上、「 」は著者の、『  』 はハイデガーの、それ以外は私の

言葉とします。

 ハイデガーは、西洋形而上学はプラトン、アリストテレスによっ

てもたらされたと言います。それは、アリストテレスによって、存

在者を「何であるか」(本質)と「それがある」(事実)に区別し概念

化されて、「『この区別の遂行こそが形而上学を成立させたのだ』と

ハイデガーは見るのである。」

 つまり、『存在が区別されて本質存在と事実存在になる。この区

別の遂行とその準備とともに、形而上学としての存在の歴史が始ま

るのである』(ハイデガー著『ニーチェ』)

 それでは、それ以前のギリシャ人たちはどうだったのか?「彼(ハ

イデガー)の考えでは、アナクシマンドロスやヘラクレイトスやパル

メニデスに代表される〈ソクラテス以前の思想家たち〉は、<叡知>

を愛する「アネール・フィロソフォス(叡知を愛する人)」ではあっ

たが「哲学者」ではなかったし、彼らの思索も、「叡知を愛するこ

と」ではあっても「哲学」ではなかった。彼らは哲学者よりも「も

っと偉大な思索者」だったのであり、「思索の別の次元」に生きて

いたのである。」そして、存在者に対する想いとは、「『存在者が

存在のうちに集められているということ、存在の輝きのうちに存在

者が現れ出ているということ、まさしくこのことがギリシャ人を驚

かせた』のであり、この驚きがギリシャ人を思索に駆り立てたのだ

が、当初その思索は、おのれのうちで生起しているその出来事をひ

たすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかなかった、

と言うのである。」つまり、存在者〈がある〉ことに驚き、〈それ

が何であるか〉(何のためにあるか)とは考えなかった。「彼(ハイデ

ガー)は、このようにして開始された思索を『偉大な始まりの開始』

と呼ぶ。」 それでは彼ら(古代ギリシャ人)は存在者をどのように解

していたのだろうか。「万物を<ピュシス>(自然)とみていた早期の

ギリシャ人は、存在者の全体を〈おのずから発現し生成してきたも

の〉と見ていたにちがいない。」 「ハイデガーは、この<ピシュス>

についてこんなふうに述べている。『ピシュスとはギリシャ人にと

って存在者そのものと存在者の全体を名指す本質的な名称である。

ギリシャ人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌えあがり

現れきたり、そしておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、

萌えあがり現れきたっておのれへと還帰してゆきながら場を占めて

いるものなのである』」

 ところが、プラトン・アリストテレスによって存在は本質存在と

事実存在に分岐され、「〈始原の単純な存在〉つまり〈自然〉とし

ての存在が押しやられ、忘却されてしまう。この〈存在忘却〉とと

もに〈形而上学〉が始まるのである。」 そして、『イデアとしての

存在こそがいまや真に存在するものへと格上げされ、以前支配的で

あった存在者そのもの(つまり自然)は、プラトンが非存在者と呼ぶ

ものに零落してしまったのである。』 つまり、『イデアの優位がエ

イドス(形相)と協力して、本質存在(何であるか)を基準的存在につ

かせる。存在はなによりもまず本質存在ということになるのである』 

 「以後、形而上学の進行のなかで、この<本質存在>を規定する形

而上学的(超自然的)原理の呼び名は、プラトンの<イデア>から中世

キリスト教神学では<神>へ、さらには近代哲学においては<理性>へ

と変わってゆくが、それによって規定される〈本質存在〉の<事実存

在>に対する優位はゆるがない。」

 つまり、「〈哲学〉にとっては〈それは何であるか〉という問い

が本領であるが、そう問うことによってすでに〈存在〉を〈本質存

在〉に限局してしまっている、ということにほかならない。」それ

では、ハイデガーはその哲学についてどう思っていたのだろうか。

もちろん、時代と共に彼の思想も変遷するが、「西洋=ヨーロッパ

の命運を規定した〈哲学〉と呼ばれる知は、自然を超えた超自然的

原理を設定して自然からの離脱をはかり、自然を制作(ポイエーシス)

のための単なる材料(ヒュレー)におとしめる反自然な知なのだ」。

そして、「近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間

中心主義的文化形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する

<存在=現前性=被制作性>という存在概念にあると見るべきだ」。

そこでハイデガーは、「人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間

性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存

在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような

自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近

代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたの

である」。ところが、彼の企ては挫折してしまった。それは、「人

間中心主義的文化の転換を人間が主導権をとっておこなうというの

は、明らかに自家撞着であろう。」

 「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれは何が

なしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけだ、と後期

のハイデガーは考えていたようである。」(木田元・著「ハイデガー

の思想」より)

 ほとんどが引用になってしまったが、ハイデガーは本質存在「何

だ?」ばかりを追い求め事実存在「ある」を見失ってしまった人間

に始原の〈自然「ピシュス」〉を復権させようとしたが、その自家

撞着によって挫折した。そして、我々にできることはただ「待つこ

とだけだ」と言ったという。ところが、今や我々は人間中心主義的

文化の限界を実感して、合理主義経済がもたらす環境破壊によって

自然環境が激変し、想定(本質)外の自然(事実存在)の反乱に怯えて

いる。たとえば、人間が主導権をとって人間中心主義的文化の転換

を図ることは自家撞着かもしれないが、それでは自然(事実存在)の

変動によってその転換を余儀なくされているとしたらどうだろうか?

本質存在の優位が事実存在の反乱によって脅かされ、「自然共生動

物」或いは「地球内生物」である「世界内存在」としての現存在が

文字通り〈存在=生成〉による転換を迫られているとしたらどうだ

ろうか?自然の猛威とは本質存在に拘束されていた事実存在がその

束縛を断って反抗(生成)しているのだ。忘れ却られていた自然の摂

理がまさにその事実存在によって我々の存在了解(想定)を脅かし、

ハイデガーが言うように、再び我々の「叡知」が甦える時が来ると

すれば、それは将に今こそがその時ではないだろうか。つまり、

ハイデガーの残した思想がようやく輝きを放って、歩むべき道を見

失った近代人を導いてくれるその時が来たのではないだろうか。

 最後に、本の中で見つけたヴィトゲンシュタインの次の言葉を引

用します。

「神秘的なのは、世界がいかに〈あるか〉ではなく、世界がある

〈ということ〉である」

 
「存在者」・・・〔補説〕 (ドイツ) Seiendes存在するもの。
          人・物など個々の存在物を、存在そのものと
          区別していう語。〈大辞林より〉

 尚、本書には到る所に原語のルビがふってありましたが、当然
   その連関を失えば著者の意が伝わらなくなることを承知の
   上で、出来るだけ分り易く伝えるために大部分割愛しました。
   もし伝わらなかったとすれば私の不手際です。

 

                                 (おわり)

 

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 「存在とは何だ」(3)

2011-09-18 16:25:31 | 「存在とは何だ?」
        


             「存在とは何だ」(3)


 「ハイデガーは、『それは何であるか』という問い方そのものが

『哲学』の問い方であり、このように問うときすでに、存在に対す

るある態度決定がおこなわれてしまっている、と言いたいのである」

(木田元「ハイデガーの思想」岩波新書268)

 この本はその後、ハイデガーによるプラトンの「イデア」、アリストテ

レスの「エネルゲイア」批判を展開するのだが、私は、それでは「そ

れは何であるか」と物事の本質を問うことが、何故、ある態度決定

がおこなわれてしまうことになるのかを考えようと思う。つまり、「何

であるか」とは何であるかということである。

 たとえば、Aは「何であるか」と問う時、我々は少なくともAの

存在は認識しているはずである。そこではA=Aである。ところが、

Aについてさらに「何であるか」と問うことは事実(A=A)を超え

た本質を求めることになる。つまり、A= a+a' のように。それで

は a とはそもそも「何であるか」と問い始めるとそれは無限連鎖に

帰趨して、Aの本質そのものから離れて行ってしまう。つまり、本

質を求めるための解析は本質そのものに辿り着けない代わりに解析

という手法だけが残される。西洋形而上学は本質を問いながら本質

は見失われ、ただ解析という手法だけが残って自然科学が生まれた。

今、我々の自然科学は本質を追い求めて素粒子にまで辿り着き「何

であるか」と問いながら、何れそれは再び A へと回帰して来ることだ

ろう。つまり、 a + a' =A であると驚きをもって語られる日が来るに

違いない。


                                (つづく)かも



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 「存在とは何だ」(2)

2011-09-18 02:41:45 | 「存在とは何だ?」


          「存在とは何だ」(2) 


 木田元(著)「ハイデガーの思想」を読んだ。実は、ハイデガーの 

「存在と時間」を読んでいないので語ることはできないのだが、ぼ 

んやりとではあるがハイデガーが何を考えていたのかが窺えた。私

は若い頃、暇を持て余して東京の下町の図書館に入った時、そこで

偶々サルトルの「実存は本質に先行する」という言葉を目にし て、

それまで存在の本質を追い求めていた自分の思考を停止させられた

ことを思い出す。それは自分にとって大きな転換だった。その 頃、

ハイデガー「について」書かれた本も手に取ったが、確かその中で

ハイデガーは、サルトルのその言葉を聞いて「先行すると言ったの

か」と何度も尋ねた、と書かれてあったが、その意味がよく解った。
つまり、ハイデガーによれば、西洋形而上学はプラトン、アリスト

テレスによって存在を本質存在(イデア)と事実存在(自然)の二義的

に区別され、その優位性は時代によって何度も転換を繰り返してき

たと言うのだ。「そこで彼(ハイデガー)はサルトルのこの主張を嗤

って、『形而上学的命題を転倒しても、それは一個の形而上学的命

題にすぎない』」(同書より)、つまり、卵と鶏のジレンマと 同じこ

とだ。ただ、我々が「存在に関して『それは何であるか』と問うと

き、存在はすでに『本質存在』に限局され」(同書より)、そもそも

「本質存在と事実存在との区分の遂行とその準備とともに形而上学

としての存在の歴史が始ま」ったのだ。だから、上のサルトルの言

葉は、時代が変われば簡単に「本質は実存に先行する」ことになる

と言うのだ。ハイデガーのことばは明らかに「存在と何か」を問う

西洋形而上学の否定に他ならない。 


                               (つづく)

「デフォルト」

2011-09-17 04:00:14 | 「パラダイムシフト」

                       

 

                    「デフォルト」
 


 
  以下の記事を見つけたのでその全文を載せます。                                                                                                                                        ケケロ脱走兵


 2011年09月16日 J―CASTニュース&メディアウオッチより
 [ http://money.jp.msn.com/newsarticle.aspx?ac=JC107558&cc=06&nt=00 ]


「ギリシャの国家破産は確定的 リーマン・ショックより酷い事態」

ギリシャ国債のデフォルト(債務不履行)が懸念されるなど、欧州
 
危機の深刻の度合いが増している。 米証券大手のリーマン・ブラザ

ーズの経営破たんから、2011年9月 15日で丸3年。ギリシャが財政破

たんすれば、イタリア、スペインに も危機が波及、そして欧州危機

が「第2のリーマン・ショック」にな る可能性が膨らんでいる。

 ■ギリシャ国債、年内にデフォルトの可能性「ほぼ100%」  

 世界銀行のゼーリック総裁は2011年9月14日、ワシントン市内で

 講演し、「世界経済は新たな危険水域に入った」と述べた。ギリシ

ャやポルトガルなどの財政危機に、日米欧の先進国が協調して早急

 に課題を解決しなければ、世界経済はさらに落ち込むと警告した。

 欧州連合(EU)がこれまでとってきた対策は、ギリシャに一時的

 に資金を融通して混乱を収めるという場当たり的なもので、「時間

稼 ぎ」に過ぎない。ギリシャはEUと国際通貨基金(IMF)による資

金支援がなければ財 政破たんする。これに対してギリシャは、

「EUとIMFとの支援合意に 基づくすべての責務を果たす」と融資の

継続に懸命だが、これまで も度々聞かされていたフレーズだ。

 米格付け会社のムーディーズ・インベスターズ・サービスは7月25

 日、ギリシャ国債の格付けを3段階引き下げ、「Ca」にした。その

下 はデフォルトの水準で、ムーディーズは「ギリシャ国債は、事実

上 100%の確率でデフォルトになる」との見通しを示した。  

 第一生命経済研究所の首席エコノミスト、嶌峰義清氏は「ギリシ

 ャの今年7月までの財政赤字は約150億ユーロと、すでに前年を上回

 っています。今の状況が続けば融資は受けられません」と話し、

ギ リシャ国債が年内にデフォルトする可能性は「ほぼ100%」と言

い切る。みずほコーポレート銀行国際為替部のマーケット・エコノ

ミスト、唐鎌大輔氏は「もはや(ギリシャは資金の出し手である)

ドイ ツ次第。デフォルトするかではなく、それがいつかという話に

なっ てきた」という。

  ■欧州大手金融機関にも信用不安が広がる

 ギリシャ国債のデフォルト観測が強まったことで、これまでギリ

 シャ国債を大量に買ってきた欧州大手金融機関にも信用不安が広が

り、預金が流出するなど経営不安を招いている。  それもあって、

9月14日にはムーディーズが仏銀行大手のソシエテ ・ジェネラルと

クレディ・アグリコルを格下げした。ギリシャの財政破たんをきっ

かけに、欧州の大手金融機関が経営破たんし、「第2 のリーマン・

ショック」を引き起こす可能性がささやかれているが、 そのメカニ

ズムはこうだ。

 ギリシャの財政破たん→世界同時株安、ユーロ安→金融機関の損

 失が膨らみ、信用不安が拡大→金融機関の経営破たんや企業への貸

し渋り→企業業績や資金繰りの悪化→リストラや倒産、消費低迷と

 いった具合にデフレ・スパイラルに陥って、世界的な大不況がやっ
てくる。

「一国が破たんすることに加えて、通貨危機を引き起こすことに

 もなりかねないのですから、リーマン・ショックより酷いことにな

 るかもしれません」(みずほの唐鎌氏)。

 

 

 


「9.11」

2011-09-11 15:14:52 | 「パラダイムシフト」
                 「9.11」




 あれからもう10年も経つのか、確か久米宏の「ニュースステー

ション」で中継を交えた放送を見て、アメリカで一体何が起こって

いるのかと思いながら、理性では理解できても実感が伴わなかった

ことだけは覚えている。今思い出すのは、何もあの日からアメリカ

がおかしくなったわけではないということだ。それよりも随分前の

新聞の小さな囲み記事に、サウジアラビアだったかに駐留するアメ

リカ軍の女性将校が基地での勤務を終えた外出時に女性にブルカの

着用を義務付けているのは、個人の自由を保障した「アメリカの」憲

法に反すると言ってアメリカの裁判所に訴えたことがあった。私は

よその国へ行った者がその国の習慣や決まりを受け入れることは至

極当たり前のことだと思っていたので、女性将校の身勝手な言い分

に唖然とした覚えがある。つまり、アメリカの絶対主義の横暴はず

っと以前から自分たちの文化以外の各国の伝統文化を認めず蔑(さげ

す)んできた。だから、イスラム文化の伝統を踏み躙られたことへの恨

みに苛まれたムスリムの中からウサマ・ビン・ラディンが現れたことは

それほど驚かなかった。アメリカ同盟国へのテロ行為はイスラム社会

に対する蹂躙への報復でありイスラム文化を守る為のジハード(聖戦)

なのだ。

 アメリカの覇権主義はソ連の崩壊によってその絶対性を得て、絶

対であるが故に省(かえり)みられることがなく独善的に振る舞い世

界を巻き込んで暴走してきた。しかし、米ソ二極化時代のアメリカ

はベトナム戦争の苦い屈辱から自省して社会を見つめ直し、そこで

は多様な新しい考えが生まれ多少虚無的ではあったが自由な文化が

花開いた。その頃、一方でソ連はアメリカの撤退をいいことに覇権

を拡げようとしてイスラム世界への軍事介入を試みたが、足元の自

国経済の破綻からあっけなく崩壊してしまった。我々はこのことか

ら言い古された言葉ではあるが次の教訓を忘れてはならない。

 つまり、「驕る者は久しからず」。

 いまや一極支配とはいえアメリカの経済は破たん寸前で、米国の

みならず日本はもとよりEUを始め先進各国も巨額の債務に苦しめ

られている。恐らくアメリカは国内経済を再建するために形振り構

わず行動してくることだろう。そして、それはかつて何度か経験し

た自国の産業を守るためのモンロー主義へと向かうに違いない。つ

まり、経済のグローバル化を推し進めてきた当のアメリカがグロー

バル経済から早々と撤退するのだ。そうなれば、一気に保護主義が

拡がり輸出に頼っていた国は破綻を免れないだろう。日本のことで

ある。もちろんそれを世界恐慌と言っても構わないが、我々は再び

次の教訓を思い出さなければならないかもしれない。

 つまり、「歴史は繰り返す」。



                                 (おわり)


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