(628)
今、中国を悩ましているのは、
「新疆ウイグル問題」と「新型ウイルス問題」である。
「何だそれ、ただ読み間違えただけじゃないのか?」
まあ、そうです。
仮題「科学と自然」
科学は真理の追究によってもたらされたが、しかし真理とは絶対
不変であるとすれば、科学は絶対不変の存在である唯一神への信仰
から派生した、いや、一神教の世界からしか派生し得なかった。そ
して、真理とは絶対不変であるとすれば、この世界はすべてが遷り
変わる非真理、つまり仮象の世界でしかない。この世界が仮象の世
界でしかないとすれば、この世界を超えた絶対不変の真の世界があ
るに違いない。こうして真理の追求が一神教(キリスト教)の世界を
生み、やがて科学をも発展させた。つまり、真理、神、科学、これ
らは世界を固定的にしか捉えられない理性によって産み出された。
ところで、「真理とは幻想である」(ニーチェ)とすれば、真理の追
究によってもたらされた神の世界はもちろんのこと、科学でさえも
幻想ということにならないだろうか。では、科学が幻想とはいった
いどういうことだろうか。生成の世界は循環して再生されることに
よって変遷流転するが、科学技術が産み出した人工の物質は再生さ
れずに自然循環を妨げる。それはさながら流動的な生成の世界に固
定化した真理がそぐわなくなることに似ている。変遷流転する生成
の世界の下で、固定的な科学的認識は一時的には《真理》に的中し
ても時間的経過の中で次第に《真理》から外れていく。たとえば、
私が石板に「今は2020年1月8日6時30分です」と刻印して
も、《真理》であり得るのは一瞬だけでその後は次第に《真理》か
ら遠のいて行く。つまり、われわれは変遷流転する生成の世界を認
識(理性)によって捉えることができない。科学とはわれわれの認識
(理性)によってもたらされるとすれば、生成の世界の下では科学的
認識もまた《真理》に近付くことができたとしても次第にそぐわな
くなる。
(つづく)
「杞憂」
広島県北部の中国山地の山間に島根県と県境を接する高野(たか
の)町という町があります。広島県と言えばどうしても瀬戸内海気
候で温暖なイメージを思い描きますが、しかし県北の山間部には約
15か所くらいスキー場があって、中でも高野町は県内有数の豪雪
地域です。そして、寒冷地でしか栽培できないリンゴが特産品でも
あります。私の住む三次市は高野町よりずっと南の方ですが、それ
でも冬には毎年積雪があってどうしても車をスノ―タイヤに履き換
えなければ生活できません。去年広島市内から来た人はこれまで一
度も冬用タイヤに履き換えたことがなかったので冬道の運転を怖が
っていましたが、幸い去年は暖冬でまったく雪が降りませんでした。
つまり、それほどまでに山間部と沿岸部では気温に違いがあります。
これまで高野町は市内からの直通道路がなかったので冬は「陸の孤
島」のようでしたが、しかし、山陽と山陰を繋ぐ横断道が開通して
から高野インターができて、そばにある「道の駅」は行き交う車の
中継地として降車する人々が絶えません。
私は仕事の関係でこれまでに何度か高野町に足を運びましたが、
先ほども言いましたが去年は暖冬で高野町でもまったく積雪がなく
、たまたま道端で立ち話した老女が呟いたことばを忘れもしないの
ですが、彼女は、これまで60年以上この地で暮らしてきたが雪が
まったく積もらなかった年は一度としてなかった、と言って、そし
て「何か空恐ろしい」と言いました。私は、まあそういう年も一度
くらいあるだろうと気にもしませんでしたが、今、2020年1月
2日の冬の真っただ中にもかかわらず、私の住む三次市では未だ一
片の雪も見ることなく新年を迎えました。杞憂であればいいのです
が、
「何か空恐ろしい」
「あほリズム」
(627)
新年明けましておめでとうございます、と言っても齢を重ねるこ
と何十年ともなればすでに見慣れた日常に過ぎず、年が改まること
以外に今さら改まることは何一つないのですが、たまたま夜中に目
が醒めてテレビを点けると恒例の「朝生」が放送されていて、途中
からではあるが若手政治家や知識人による議論を聴いた。テーマは
「少子高齢・人工減少」問題で、その一因である日本のジェンダー
・ギャップ(男女格差)指数が世界最低レベルであることが取り上げ
られ、ジェンダーフリー(男女平等)についての有意義な議論が交わ
されてなるほどと思った。ところが、その後にテーマが皇位継承問
題に移ると、先ほどまでジェンダーフリーを強く訴えていた論者た
ちの半数ほどの人が女系天皇への反対に手を挙げてさっきまでの話
はいったい何だったのかとそのギャップに耳を疑った。ジェンダー
フリーの問題と伝統としての天皇制を一緒くたに語ることはできな
いが、とは言っても、この国には天皇制に限らず神事や政事におけ
る男尊女卑の因習は到るところで踏襲されていて、それこそがジェ
ンダー・ギャップそのものであるとすれば、父系社会を見直すこと
以外にジェンダーフリーが実現することはあり得ないと思うのだが
、天皇だけは父系でなければならないとすれば、もはやそれは血統
を守るために交配を制限された天然記念物の「家畜」でしかない。
折しも去年は新天皇の即位に伴う宮中祭祀が執り行われ、即位礼で
は古式ゆかしいコスプレで、じゃなかったコッケイな装束を纏った
両陛下が、にもかかわらず誰も「おかしい」とは言えない空気感の
中で「檻」の中から詔(みことのり)を宣われ、それは子供の頃によ
く観た菊人形の見世物を思い出さずには居られなかったが、おお、
まさにそれは菊人形にはちがいないが、この伝統と近代の社会秩序
とのダブルスタンダードこそがわが国の社会進化を遅らせているの
ではないか。私は皇位継承問題の議論を聴きながらこんな化石化し
た制度にいつまでもこだわっていてはとてもジェンダーフリーは絵
空事だと確信した。われわれ皇民は、まず天皇制という伝統の檻を
解放して「衣装を纏い過ぎた王様」にもっと裸になるように言うべ
きではないだろうか。