ハイデガー「存在と時間」上・下
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ハイデガーの「存在と時間」を「一応」読了しました。私はどうし
ても木田元が自著「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で「
『存在と時間』には壮大な文化の転回の企てが隠されている」と語
ったことが気になって読み始めましたが、この本のどこにそんな「
企て」が隠されていたのかと言いたくなるほど現象学的存在論に終
始した内容だった。「隠されている」から見つからなかったと言え
ばそれまでですが、実にわかりづらくて、労多くして功少なしの思
いです。ただ、たとえばハイデガーの言葉として、現存在(人間)と
は「世界=内=存在」であるとするならば、つまり「世界は人間に
先行する」とするならば、現存在とは世界の中から派生した存在で
あり、人間が世界の中心であるという世界観(ヒューマニズム)は、
自らの存在根拠を見失った誤まった認識であることに間違いはない。
ハイデガーはそれを「存在忘却」と呼んだ。そして、われわれは世
界の中から生れてきて、その生れてきた世界を作り変えようとして
いる。それは、プラトン・アリストテレス以来、真理を問う西洋形
而上学によって、存在は本質存在と事実存在に二分され、永遠不変
である真の世界「イデア」こそが本質存在であって、いずれ死滅す
る人間が存在する事実存在としてのこの世界は、「イデア」を模倣
して制作された仮象の世界だと考えられた。すると自然とは制作の
ための単なる材料・質料でしかなく、「当然のこととして制作のた
めの技術知の担い手である人間を世界の中心に据える人間中心主義
(ヒューマニズム)と、顕在的潜在的に連動している」(木田元 著「ハ
イデガーの思想」)もちろんそれは近代科学文明に引き継がれ、今
日では科学技術がもたらす環境破壊は許容の限界を超えて、その影
響はさまざまな環境変化を生んでいる。つまり「世界=内=存在」
という概念だけで「人間中心主義的世界観」、つまり「ヒューマニ
ズム」は事実存在が限界に達した時に行き詰ることが読み取れる。
(つづく)