「あほリズム」
(826)
原子力技術は行き過ぎた科学技術だと言わざるを得ない。
何故なら、一度重大な事故が起これば原点にすら戻れないの
だから。
《科学》とは失敗を繰り返して進歩するとすれば、失敗を
繰り返せない技術を《科学的》とは言えない。
「あほリズム」
(826)
原子力技術は行き過ぎた科学技術だと言わざるを得ない。
何故なら、一度重大な事故が起これば原点にすら戻れないの
だから。
《科学》とは失敗を繰り返して進歩するとすれば、失敗を
繰り返せない技術を《科学的》とは言えない。
「あほリズム」
(825)
三度問います、福島原発で貯水されている汚染処理された処理水
は、海洋放出してもまったく安全であると言うのなら、なぜ最初か
ら処理後にそのまま海に流さなかったのですか?
* * *
「何故貯水したのか?」
2019-09-19 12:22:54
福島原発事故の関係者は「世界の、日本の、全ての原発からは処
理水海洋放出が当たり前のように行われており、何の問題も起こっ
ていない。」(原田義昭前環境大臣のブログ)と言うが、それでは
何故これまで処理水を放出せずに100万トンもタンクに貯めてい
たのかの説明をしなければならない。問題があるから放出しなかっ
たんじゃないのか?今になって、海洋放出しても何の問題も起こら
ないというなら貯水する必要はなかったことになるではないか。
「あほリズム」
(824)
競泳の池江璃花子選手が難病を克服して東京五輪候補の内定が
確定したことと、そしてプロゴルファー松山英樹がアジア人への
ヘイトクライムが頻発するアメリカでのマスターズ優勝の快挙に
多くの日本のスポーツファンたちは久々の感動に心震わせたが、
そもそもスポーツ選手たちは困難に打ち勝って勝利を手にするこ
とによって「国民を元気にすること」が本来であって、かつて敗
戦間もない絶望に打ちひしがれた時代にはプロレスラーの力道山
やボクサーの白井義男、さらには前の東京オリンピック代表の女
子バレーボールチームなど、いずれも彼らは自信喪失した観客を
勇気付けることがあっても、決して「応援よろしくお願いします」
などと観客に応援を請うようなことはしなかった。しかし今日では
限界に阻まれたアスリートたちは手段と目的が転回(ケ―レ)してい
る。それでも一流のアスリートは観客が自信を取り戻せるように優
れた技を披露して「観客を応援する」。
「あほリズム」
(823)
哲学者ハイデガーは主著である「存在と時間」の執筆途中に思想的
「転回」(ケ―レ)を余儀なくされて、筆を置きました。私はまったくの
素人ながら、彼が「存在の意味は時間である」(木田元)と考えたことに
誤りがあるのではないかと思います。私は「現存在は『おのれを時間化
する』」(木田元)までは何とか理解できますが、しかし「存在が時間に
還元される」ことにはどうしても納得できません。
そもそもハイデガーは、まず「存在とは何か?」を問う「人間とは何
者か?」を問いました。何故なら答えが人間が了解できることでなけれ
ば意味がないからです。すると「人間とは時間性である」ということを
了解して、そして、その人間が設定した時間性(テンポラリテート)の場
に「存在」を企投して「存在とは時間である」という「存在了解」を得
ました。しかしそれではあまりにも人間本位に傾かざるを得ないのでは
ないかと思いました。そこで、そもそも「時間とは何か?」と考えまし
たが、何一つ時間についての概念が浮かんできません。それはまるでア
ウグスティヌスの言葉「私はそれについて尋ねられない時、時間が何か
を知っている。尋ねられる時、知らない」(アウグスティヌス『告白』
第11巻第14章)に共感を覚える次第です。しかし「時間」を検索し
てたまたま見つけた本「時間は存在しない」( カルロ・ロヴェッリ) を取
り寄せて、こんどは物理学の方から知ろうと思って読んでいます。
ここまで、もうすこし勉強してからまた記事にします。
「・・・」
(2)のつづき
そこで、もう一度「人間とは何か?」に戻って考えてみようと
思いますが、そもそも時間を認識できるのは人間だけである。本
能に支配された動物たちは目の前の現実がすべてで人間のように
理性による過去の記憶も記憶から派生する未来も思い描けない。
そして理性を進化させた人間は目の前の現実から脱け出して「お
のれを『時間化』する」ことによって世界へと「超越」する。こ
うして「時間化」こそがわれわれを「存在とは何か?」を問う契
機をもたらし、たとえば、そこで神の存在が「了解」されれば、
世界は一気に宗教的世界観に支配されることになる。つまり「存
在とは何か?」の答えが「存在了解」であり、「存在了解」が世
界を作り変える。こうして「存在とは何か?」という形而上学的
疑問は人間が構築した「時間的地平」(テンポラリテ―ト)へ「企
投」されて「存在了解」がもたらされる。つまり、「存在とは何
か?」とは、人間が目の前の現実を脱け出して時間化することか
ら提起され、時間化された地平のもとに「企投」され「存在了解」
される。つまり、「存在」は人間が創り出した時間的な地平の下
で「了解」され・・・
アカン!どうしても「時間」に続けられんので(つづく)