仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(4)の改稿

2022-02-20 13:39:58 | 「死ぬことは文化である」

   仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

        (4)の改稿


 漢字が書かれた書物の伝来は古代国家日本に大きな社会転換をも

たらした。仏典が説く仏教的世界観への関心はもとより、何よりも

国家意識の共有から中国に倣って官司制の下で中央集権化が図られ

律令制度が布かれた。もちろんそれらは古代中国政府の制度を丸写

ししたもので、今でこそアメリカへの従属意識から中国に対して批

判的ではあるが、しかし明治維新までのおよそ1千年間は政治的に

も文化的にももっとも影響を受けたのは中国だった。まず、その漢

字がもたらした大きな社会転換は仏教の伝来であり、そもそも現人

神の子孫である皇太子が仏教に改宗することも異常なことだが、驚

くべきことに今日でさえも神仏習合の二元論は何の対立もなく器用

に併存している。にも拘らず一つの天皇の御座を巡る一元論の争い

は豪族をまき込んで悲惨な暗殺や自経が繰り返された。以下は「日

本の歴史」(中公文庫全26巻)からの引用だが、古くは587年に

在位2年足らずで崩御した用明天皇の皇位継承を巡って、対立した

皇子たちが近臣蘇我馬子によって相次いで惨殺され、さらに馬子は

自らが擁立した崇峻天皇までも殺害し、そして馬子の孫入鹿は古人

皇子を天皇に擁立するために聖徳太子の長子山背大兄王を自害にま

で追い込んだ。やがて蘇我入鹿の専横を怖れた中大兄皇子は中臣鎌

足と謀って入鹿を宮中で暗殺した、所謂「乙巳の変」である。その

中大兄皇子は古人皇子を謀叛の疑いで殺し、さらに孝徳天皇の有馬

皇子を陥れて絞首刑にして、後に即位して天智天皇となるとその立

太子大友皇子は皇位を狙う皇弟大海人皇子との戦いに敗れて自経し

た、「壬申の乱」である。皇位継承を巡る権力争いはこれが神の所

業かと言いたくなるほど讒言などによる陰謀によって命を奪われる

ことがめずらしいことではなかった。間もなく大海人皇子は即位し

て天武天皇となり、10人の后妃との間に10人の皇子と7人の皇

女をもうけてさらに皇位継承者問題がより複雑になった。その中で

どちらも天智天皇の皇女である鸕野皇后(後の持統天皇)と大田皇女

のそれぞれの皇子である草壁皇子と大津皇子の二人が皇太子の候補

として残ったが、皇后の皇子である草壁皇子が選ばれた。ただ伝え

るところによれば「器量・才幹は大津のほうがすぐれていたようだ

」(「日本の歴史」2巻) 皇位継承問題を抱える天武天皇は皇后と六

皇子を従わせて吉野に行幸し、「天皇は皇后と六皇子とを行宮(かり

みや) の庭に集めて、たがいに二心(ふたごころ)のないことを天地の

神々に盟(ちか)いあった。」(同書) やがて死期を覚った天武天皇は病

の床から、「天下の事は大小を問わず、悉(ことごと)く皇后および皇

太子に啓(もう)せ」と詔して、信頼を寄せる皇后に称制(天皇が在位し

ていないときに、皇后・皇太子などが臨時に政務を行うこと)を委ね

た。ところが、天武天皇の亡き後ひと月も経たないうちに、鸕野皇后

の称制の下で、わが子草壁皇太子の皇位を脅かす大津皇子の謀叛が発

覚したとして、皇子以下三十余人が捕えられ、皇子は早くも翌日には

死刑に処された。死期を悟った大津皇子は以下の辞世を残した、享年

二十四才。

 百伝(ももつた)う磐余(いわれ)の池に鳴く鴫を
 
 今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ

 「きさきの山野辺皇女が、髪をふりみだし、はだしのままあとを追

うて殉死したのがことに世人の涙をさそった。」(同書)

                          (つづく)


「あほリズム」(885)

2022-02-16 06:18:53 | アフォリズム(箴言)ではありません

       「あほリズム」

 

        (885)

 

 アメリカ軍が撤退した後にイスラム原理主義組織タリバンが実効

支配するアフガニスタンで、経済が破たんして貧困が深刻化してい

るというニュースを聞く時、「そりゃあ、超保守的なイスラム教原

理主義の教義を優先する限りそうなるわな」と思ってしまうが、翻

って日本経済は30年の長きに亘って低迷したままだと聞けば、少

なくとも今われわれの目に見えている社会的課題、たとえばジェン

ダーフリーや男女共同参画社会、さらにはデジタル化への転換など

、社会変革を望まない既得権益に与る保守的な人々の反対によって

遅々として前へ進まない現実を見れば、どの国の保守的な人々も経

済よりも守るべきことがあると思っているのかもしれない。経済成

長とは今の社会を企投して新しく地平を拓くことだとすれば、伝統

に縛られていては何も変えられない。かつて三島由紀夫は、昭和4

5年7月7日(1970年) 産経新聞に「果たし得てゐない約束――

私の中の二十五年」という文章を寄稿した。その中で、

「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかとい

う感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機

的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がな

い、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいい

と思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているの

である。」と嘆き、その年の11月25日に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯

地にて割腹自殺した。

 すでに「日本」という国はアメリカと中国が奪い合うボールのよ

うな存在で、国家としての意志などとうになくなってしまったが、

私は「或る経済的大国」として残るのであれば、それでもいいとさ

え思っているが、しかし、今やそれさえもなくなってしまおうとし

ているのであれば、伝統文化などと言ってる場合じゃないだろう。

ところで、わが国はすでに中国と入れ替わって三流国になろとして

いるが、中国共産党が少なくとも経済的に成功した原因は伝統文化

を破壊してデジタル社会しか残されていなかったからである。ニー

チェの箴言を借りれば、「われわれは陸地を後にして、舟に乗り込

んだのだ!われわれは背後の橋梁を撤去した――と言うよりむしろ

、戻るべき陸地を撤去したのだ」「もはや戻るべき『大地』はどこ

にも無いのだ」。爪に火を灯す暮しに「みやび」もないだろう。


「あほリズム」(884)

2022-02-13 15:55:58 | アフォリズム(箴言)ではありません

      「あほリズム」

 

       (884)

 

 米欧の情報ではロシア軍によるウクライナ侵攻が差し迫っている

と言う。それは中国共産党が強制的に香港を併合したことに同調し

た気運に促されたからに違いない。だとすれば、次は間違いなく中

国軍による台湾侵攻だ。


「あほリズム」(883)

2022-02-10 23:22:27 | アフォリズム(箴言)ではありません

    「あほリズム」

 

      (883)

 

 ニーチェ著「悦ばしき知識」信太正三訳(ちくま学芸文庫)より

        第三書

        124

『無限なるものの水平圏内で。――われわれは陸地を後にして、舟

に乗り込んだのだ!われわれは背後の橋梁を撤去した――と言うよ

りむしろ、戻るべき陸地を撤去したのだ!いざ、小舟よ!心せよ!

お前のかたわらに広がるのは太洋だ。まこと、太洋はいつも吼え立

ててばかしいるのではない、おりおりは絹かのように金かのように

好意の幻夢のように臥していることもある。けれども、それが無限

であるのを、そして無限にまさる怖るべきものの何一つないのを、

お前が認める時が来るであろう。ああ、身の自由を感じたのに無限

というこの鳥籠の壁につきあたっている、哀れな鳥よ!そこにはさ

らに多くの自由があったとでもいうように、陸地への郷愁がお前を

襲うとしたら、いたましいことだ!――もう「陸地」はどこにも無

いのだ!』

 


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(3)の改稿

2022-02-08 00:35:01 | 「死ぬことは文化である」

       仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

          (3)の改稿

 文字のなかった古代日本社会の様子はもっぱら中国が日本につい

て書き残した文献に頼るしかないが、その中国は3世紀後半に所謂

『魏志倭人伝』が載った『三国志』が書かれた三国時代の後に「五

胡十六国時代」と呼ばれる群雄割拠する戦乱の時代を迎えて、海の

向こうの島国日本に関心を向ける余裕などなくなり、中国の書籍か

ら日本に関する記述が消え、文字を持たなかった日本の歴史は3世

紀末から4世紀末まで「空白の4世紀」と呼ばれる時代を迎える。

とは言っても人々の往来は頻繁に続いていて、やがて帰化人たちに

よって「漢字」がもたらされた。そして、我国最古の歴史書と言わ

れる「古事記」が漢字によって編纂されたのは712年、続いて「

日本書紀」は720年と「空白の4世紀」は後から「神話」によって

埋められた。そもそも文字が伝わるということは当然書籍が伝わると

いうことで、書籍は必然的に現前性を超えた思想を伝えようとする。

こうして文字、つまり漢字は仏教思想とともに急速に広まった。とこ

ろで、『古事記』『日本書紀』には中国の正史として扱われる『三国

志』の中の所謂『魏志倭人伝』が伝える「邪馬台国」や「卑弥呼」に

関する記述はいっさい見当たらないが、それに代わってその実存が疑

わしい仲哀天皇の皇后である「神功皇后」を「卑弥呼」に見たてた「

新羅征伐」の物語が語られる。しかし、そもそも「卑弥呼」は皇族の

祖先であり、そして「邪馬台国」は大和朝廷へと繋がる古代国家であ

るとすれば、記紀の編纂者たちは当然『魏志倭人伝』を目にしたにも

かかわらず、何故「邪馬台国」「卑弥呼」の記述を知りながら敢えて

それには触れずに、実存しない「神功皇后」に置き換えなければなら

なかったのだろうか?つまり、『魏志倭人伝』が書かれた3世紀末か

ら『記紀』が編纂された8世紀始めまでの間に「卑弥呼」の「邪馬台

国」はそのまま「天皇」の「大和朝廷」へとは繋がらなかったからで

はないだろうか。つまり「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったく別の

国だったのではないのだろうか?ところで、かつて早稲田大学の水野

祐氏(1918年~2000年)は「応神天皇は応神王朝という新しい

王朝の始祖である」という考えをはじめて学界に提出した。(『日本の

歴史』①神話から歴史へP375~「水野学説」) 応神天皇とはその実

在が疑わしい仲哀天皇と神功皇后の子だが、「確実にその実在をたし

かめられる最初の天皇であるといってよいであろう。」(同書) 水野説に

よると、詳細は割愛するが、「3世紀の昔、耶馬台国は狗奴(くな)国と

争い、一度はその勢力をくじかれたのだが、邪馬台国が晋朝の南退(31

4年) によって後援を失うに及んで狗奴国が北九州を席捲した。」(同書)

「この狗奴国王家はさかのぼればツングース族で、早くから九州地方に

侵入し、倭人を征服して原始国家を形成したものであろう。」そして、

「応神天皇はその狗奴国王の後身である。」と言うのだ。つまり、伝説

の存在でしかない初代神武天皇から代を繋いで、その実在が確実な最初

の15代応神天皇とは、「卑弥呼」の「邪馬台国」ではなくツングース

族を祖先にする狗奴族の後裔で、言語の詳細な分析から「狗奴国つまり

応神王朝が、かつて朝鮮半島から渡来した征服王朝であったことの証拠

である。」と言うのだ。つまり、我々大和民族のルーツとは「卑弥呼」

の「邪馬台国」ではなく、朝鮮半島を南下してきたツングース族が北九

州を席捲し、そして「邪馬台国」を征服した狗奴国であると言うのだ。

                         (つづく)