今回、7月のツアーでは木曽エリアを周遊する予定がスケジュール後半の天候に恵まれず、予定を変更して信州エリアに越境して諏訪のオルゴール館、奏鳴館に足を伸ばしたのが7月29日。
休暇が終わる翌30日に帰宅するために、この夜までには可児市に移動しなければならない。
最後に奏鳴館1階のショップコーナーを軽くチェックして、出口に向かう途中、とある石仏にちなんだ商品に目が向いた。
オルゴールというよりも、キーホルダーか何かの類のアクセサリーだったと思う。
「ああ、そうかそうか、あの石仏は長野県のどっかにあったんだっけ。」
「あの石仏」とは、いつかどこかの駅に置かれていた信州のパンフの表紙を飾っていた、どうにもユニークな仏様だった。
機会があればいつかその石仏にお会いしたいもんだと考えてはいたが、その時点では、その石仏が長野県のどこに居るのかと言う情報は全く入力されていなかった(というか入力していたのにワタクシの脳内メモリーから抜け落ちていたと言う方が正確だが)。
奏鳴館を出たのが14:10頃というどうにも中途半端な時刻だったが、早めに可児市のビジホにチェックインして休もうと、奏鳴館の駐車場から発進した。
すると、駐車場を出てほどなくして道路の右側に建っている電柱に
『万治の石仏 春宮交差点右折』
との控えめな案内表示があるではないか。
『万治の石仏』、、、、、、、、
そうそう、そんな名前の仏様だったぞ。
この時点では『万治の石仏』をどう読むのかがわかっていなかったのだが、まだまだ時間もあるので、春宮交差点とやらを目指していくと『諏訪大社 万治の石仏』と大書した駐車場に着いた。
さっきまでいた奏鳴館も諏訪大社の目の前だったが、ここもまた諏訪大社の目の前で、随分と大きな敷地の神社らしい、と感心しながら郵便局の隣にある無料の駐車場にクルマを置いた。
いったん諏訪大社の鳥居をくぐって案内に従って左折。
万治の石仏を訪れる人は多いようで、ワタクシの前を何組かのグループが歩いていたのでその人達について行く。
こんな橋を渡ったりして行くと、
そろそろ石仏に近づいたようで、お守りやら何なら販売しているし、(あまり趣味の良さそうでない)プラモやフィギュアの幟がはためいている。
万治の石仏を訪れる人は多いようで、石仏を撮るために参拝者の姿が途切れるまで随分待ってしまった。
仏様を撮るのに、どうにも上から目線になってしまったのが申し訳ない。
言い訳をさせてもらうと、この時、まだ雨は降り続いていて、傘をたたむ事ができなかった。
せめて片膝をついて、仏様に対して平行かできれば下から見上げるように撮りたかったのだが、このあたりの地面は舗装されていない剥き出しの砂利道泥道なので、水溜りがあちこちにあって片膝をつくことができなかったので、傘を片手に立ったまんまの姿勢で撮るしかなかったのだ。
お参りの仕方は、ここに書かれている。
雨降りで足元が良くないので、時計回りに3周するのも眩暈がしそうだったが、頑張ってお参りを果たした。
石仏についての説明はここに。
万治3年(1660年)からこの場所にいた石仏だが、昭和の時代、かの岡本太郎氏がこの地を訪れた際にこの石仏を絶賛した事から一気に有名になったそうだ。
ワタクシが以前に観光パンフの写真で見た時、首から上と下の意匠の違いからか、失礼ながらその姿はどことなくのほほんとほんわかした姿に思えたのだが、現地でじっくりと正対してみると厳しい表情を感じた。
今こうして画像を見ていても、また違った表情に見えてくる。
最初から万治の石仏がどこにあるのかしっかりと知っていたらば、もっとまっすぐに目指せたのに、とも思ってみるが、運良く奏鳴館からの帰り道の電柱の案内表示に気がついたのでお目にかかることができた。
ちなみに、
『万治の石仏』は、
『まんじのせきぶつ』
と読むそうだ。
木曾エリアだけを周回する予定が、雨が降ったおかげで諏訪までやって来て、これまた予定に無かった万治の石仏と遭遇できた事になる。
その上、おそらく今までに読んだ事が無かった島崎藤村の文庫本(しかも古本)から『夜明け前』を今現在少しずつ読んでいる。
小説に登場する妻籠、馬籠、木曾福島関所など、現地を実際に目にした後なので実感が沸いてくる、
ただし、これまで軽薄なエッセーの類ばかりを読んできたワタクシには、脚注がたくさんついた島崎藤村の小説は手強い。
この後、可児市のビジホに向かい1泊。
翌7月30日に岐路に着いた。