【2008年7月29日】 京都シネマ
1991年という年は、ソ連が崩壊して東西冷戦が終結し、一方アメリカが湾岸戦争をけしかけ中東の主導権を握ろうとし、そんな状況の下でようやく前近代的なアパルトヘイトが廃止された年で、そういう意味では近代世界史の記念すべき年であった。
映画はそんな歴史の大転換期のの大きなうねり、そのものをを題材にした物ではなく、アパルトヘイトというバカげた前近代的な政策が何十年も続いたもとでの、刑務所を舞台にした物語である。
看守であるグレゴリーは、黒人が下等な人種であり、やたらに暴力をふるい自分らの存在を危うくするものであると思っていた。当時は、南アの多くの白人もそう思っていたし思わされていた。グレゴリーの妻も、亭主が「悪名高き」マンデラの担当になったとき、「これは出世のまたとないチャンス」と捉えていた。
それが、実際はそうではないと、妻も少しずつ分かりかけてくる。
圧倒的多数の働く黒人とそれを支配しようとするごく少数の白人。誰が自国の経済、生活を支えているか、冷静に考えれば分かりそうなものだが、状況がそうさせない。
アパルトヘイトが、こんな長い間「容認」されていたのは、冷戦構造-ソ連とアメリカを中心とする大国の利害関係があった.
南アは、金、ダイヤモンド他、稀少金属が豊富に産出する国である。先進国はそれが欲しいから言いたいことも言わない。
そうした産業を下で支えているのは、黒人である。
何が真実か知ってしまったとき、目をつぶることでしか-黒人を支配することでしか、自分らの生活基盤がないと知ったとき、人は葛藤する。
欲を言えば、その辺の心理描写をもっと細かく描いてもらいたかった。
「マンデラの名もなき看守」ー公式サイト