【2011年6月17日】 京都シネマ
1996年にアルジェリアで起きた実際の事件を元に製作された映画という。事件の概要は公式サイトに載っているが、簡単に反復すると、アルジェリアの街外れの修道院で厳しい戒律のもと自生生活をしつつ布教活動をしながら地域の住民のための医療活動をしている7人の修道士たちがいる。アルジェリア政府軍と過激武装組織の対立が激化する中、過激派は外国人も標的にした。そのまま現地住人のために現地にとどまり活動を続けるか、周囲の勧告に従い安全な場所に移るか、7人の修道士は「生死をかけた選択」をいずれにすべきか論議するが、危険は迫ってくる。そして悲劇的な結末が。
アルジェリアはフランスの元植民地である。アメリカが、かつてアルカイダを援助した経緯があるが、その後、「飼い犬にかまれる」ような目( 実際は『かまれる』どころの騒ぎではなかった!)にあって、痛いしっぺ返し食らったが、かつて同じように、フランスはアルジェリアで収奪の限りを尽くし、無知と貧困をもたらすことで、過激な武装組織を生み出す土壌を作くり、その大きな代償が回ってきたといえる。
映画の中で、そのことに何気なく触れるせりふが印象深い。
今の日本が福島原発の事故により、『日本全土が放射能で汚染されているかのような誤解』に基づく外国観光客の減少という、憂うべき状況になっているが、それと同様に、『イスラム教信徒がすべて武装過激派』と見る偏見は、大多数のまじめで敬虔なイスラム教徒にとってははなはだ迷惑な話にとどまらず、重大な人権蹂躙を招きかねない。
日本の公安機関もアメリカ同様、無差別にイスラム教徒の個人情報を集めるほか、渡航や交友関係を監視しているというから、よその話でもなく、現実の話である。
映画の最後で、修道士たちは無惨な姿で発見されたが、「誰が手を下したか」、事件の真相は現在もわからないと言っている。噂通り、過激なイスラム原理主義の反抗なのか、反政府勢力のイスラム派を陥れるための策略なのか、事実は不明という。事件は教訓にしないといけないが、思い込みは禁物である。
映画の話に戻ろう。
事件の悲劇的な結末は最初からわかっているから、物語の焦点は、過程の描写である。だんだん追い詰められ、選択の範囲が限定されていく中で、人間はどんな判断ができるのか、極限の状態でどれだけ冷静な決断を下せるのか、また人間は何のために生きていくのか、何のために死んでいくのか、いろいろ考えさせられる。
はじめ、危険が迫っているのだから安全な場所に移動するか、フランスに帰国するというのが多数意見だったが、徐々に変わっていく。
ある日、とうとうイスラム過激派の1グループが修道院に乱入してくる。仲間の一人が大けがをしているので医者を連れて行くという。修道士のリーダーは断固それを拒絶する。それなら、薬を分けろという。それも住民のために使う薬剤も不足しているのに、分け与える薬はないと、その要求も拒否する。
そのことを巡り、「そこまですることはなかったのでは」とか、「またすぐ、やってくるかもしれない。」とかの意見を交わす。
軍も保護をもし出るが、断る。大使館も帰国を勧告するが、聞き入れない。
折りしも今、『選択の科学』という本を読んでいるところだった。(別記「ブログ」予定)
人は、生活の様々な場面で『選択』を迫られる。それは、人生の伴侶の選択から、デザインの選択まで、重大なものから、どちらを選んでも重大な結果をもたらさない軽いものまで、様々である。
問題は、結果について自分ではどうにもできない選択である。また、科学の進歩によって、かつては『神の領域』たったものが、『人間の判断の範囲にはいる』ことにより選択肢が増え、『混乱』や『迷い」を引き起こすことが多くなった。
そんなことを思いながら、悩みの多い現代に生きる人間の姿を思い浮かべながら、映画を見た。
「神々と男たち」-公式サイト