【『経済学は死んだのか』 奥村宏著 2010年 平凡社新書 】
門外漢ではあるが、最近の『経済学』をめぐる動向がなにか非常にわかりにくいと思っていたところに、書店でたまたま見つけ、読んでみると、今の自分の問題意識に答えてくれる部分があったので、一気に読んでしまった。
本書を読んで初めて知ったことであるが、著者は永年、《株式会社とは何か》《会社を支配しているのは誰か》、強いては《日本という国を支配しているのは何者か》という問題意識から現代の会社組織を徹底分析し、『法人資本主義』という枠組みで一貫してそのテーマを追求している。
『最新版・法人資本主義の構造』(岩波現代文庫版)を読むと、その成果の集大成が確認でき、会社のあり方や、昨今の原発問題でもめる『株主総会』の舞台裏の動きも一定理解でき興味深い。【別項で予定】
余談ではあるが、自分の通っていた大学には、経済系の学部としては「経済学部」と「経営学部」があったが、私自身、経済には興味があっても、経営には興味はわかなかった。もともと理系に興味があり、また当時は理工学部人気が高かったが、「理学部」に行きたいとは思っても「工学部」には魅力をあまり感じず、行きたいとも思わなかったなかった。
原理的なものには興味を持つが、現実問題や応用的なものにはあまり魅力を感じないという、若者特有の跳ね上がった理想主義というか現実逃避的な考えがあったと思っている。
その結果、「文学部哲学科」という、実生活においてまったく《つぶしの利かない》学部・学科に進んだのかもしれない。
最近、『格差』や『貧困化』という活字が目立つようになってきて、以前は『一億総中流』などと形容され、先進国の中では比較的、『平等な国』といわれた日本も、『小泉規制緩和』により、アメリカ並みの格差社会になりつつある状況である。『ジニ係数』でみても、日本は上昇傾向にあることが明らかで、格差が進んでいることがわかる。
そもそも、「経済学」とは、富の生産とその分配にかかわる学問で、その研究成果の運用によって「最大多数の人に、公平で最大限の豊かさをもたらすこと」を使命にしていると私自身は考えているが(再配分に関しては、他の専門分野が担うかもしれないが・・・)、その「経済学」の成果が充分機能していないのは、どうしてかという疑問があった。むしろ、『御用経済者』が闊歩する昨今は、悪弊ばかり目について仕方ない。
昔の話である。
自分の所属していた大学に限らず、当時の大学の「経済学部」には『マル経』と『近経』という二大潮流があって、経済学部生(経済学を目指す大学受験生)は、「どちらを選ぶか」ということが一大問題だった。
「マル経」と「近経」の2つの潮流は互いに対抗意識を持って、というよりも研究対象も方法も価値観も違っていて、相容れることは無いように思われた。自分としては「近経」には何か経済学の目的とは違うんじゃないかという違和感を持っていて近寄りにくかった。
それが最近、どうも状況が変わって、「経済学」をめぐる対立点や問題点がどうなっているのかよくわからなかった。『社会主義国家』の《消滅》や東西冷戦構造の解消とともに「マルクス主義経済学」もどこかに行ってしまったんではなかろうか、と。
この本に出会って、その辺の事情が若干わかったような気がする。
『序文』で筆者は述べている。
「明治時代から今日まで日本の経済学は『輸入経済学』であった。」(中略)「戦後はアメリカ経済学の輸入一辺倒であったが、・・・2008年のサブプライム恐慌で経済学が破綻していることがはっきりしてきた」と。
以下、本書の章だてと主な項目を挙げておくと、(タイトルを見るだけでも興味がわく!)
第1章 経済学の危機
1 経済学不信のの声
2 金融工学の悲劇
3 "バブル経済学者"
4 新自由主義-市場原理主義
5 経済学者の自己批判
6 経済学の危機
7 現実から遊離した学問
第2章 マルクスはジャーナリストだった
1 「マルクス読みのマルクス知らず」
2 青年ヘーゲル派の哲学者として
3~6 (略)
第3章 現実の問題に直面したケインズ
1、2 (略)
3 『平和の経済的帰結』
4 ニューディール政策との関係
5 ケインズ批判
6 インドに対するケインズの態度
7 ケインズの同性愛について
8 ケインズの伝記
第4章 日本の輸入経済学者
1~3 (略)
4 都留重人のアメリカ留学
5 "転向"のためのアメリカ留学
6 留学のあり方
7 "アメリカかぶれ”
第5章 経済学者の忘れ物
1 資本主義の担い手
2 資本家とは誰のことか?
3 会社人間
4 株式会社の歴史
5 マルクスの株式会社論
6 株式会社批判
7 会社の哲学的考察
第6章 調査に基づく研究
1 調査と研究方法
2 満鉄調査部
3 日本の経済研究所
4 ジャーナリズムの役割
(5~7 重要性、実態、改革)
第7章 改革への道
1 大学教授になる方法を変える
2 留学制度を変える
3 大学とジャーナリズムの関係
4 御用学者の生態
5 大学の危機
6 新しい経済学へ
と、なっている。
ともかく内容豊かで話題が広くおもしろいのである。
第1章では様々な経済学者や政治家の名前が飛び出し興味につきないが、中でも『中谷巌の自己批判』の顛末はおもしろく当を得ていると思った。
経済学だけの話にとどまらず、第2、第3章では、マルクス、ケインズの《人間性》の問題まで及び、味がある。
第4章で、「かつて都留は『日本にあるのは経済学学で、経済学ではない」と言ったということばに、著者本人が大きな衝撃を受けた(P-112)とかいているが、わかる気がする。また、『唐牛健太郎』や『西部某』とかの名前が挙がるのも、昔を思い出す。(最近、映画『マイ・バック・べージ』や『全学連と全共闘運動』(平凡社新書)をみて、改めて彼らの反社会性が確認できた。)
第5章は著者の中心テーマであり、力が入る。
会社を支配していたのは、戦前は財閥を中心とする個人資産家だった。しかし、戦後財閥が解体され財閥家族にかわり法人である「会社組織」が株を所有することになった。
誰が会社、あるいは社会を支配しているかという観点からあるいは『資本家とは誰のことか』という問題意識から「経営者支配論」や「機関投資家論」などいろいろ出てくる。
「企業-会社-株式会社は果たして実態なのか。人間は実態であり、誰の目にも見えるが、会社は目に見えないし、身体もない。株式会社は株主が出資して作ったものにすぎないが、それがあたかも人間と同じような実体として、いや人間を圧倒する実体として君臨し、人々を働かせ、hじと人に利益を与えるととともに害も与える。」(p-152)
「日本では法人である会社に選挙権はないが、にもかかわらず政治献金をして会社が政治活動をしている・・・」、「・・会社は犯罪を犯しても刑務所に入れられないし、死刑にされることもない。にもかかわらず会社に社会的責任があるとはどういうことか。」(p-151)
第6章のジャーナリズムも、元記者という経験があって、具体的な指摘は興味深い。
第7章は、筆者のおもいきった提言である。
いくらでも引用したいが、きりがない。ともかく、一度よんでもらいたい本である。