【2014年1月27日】 京都シネマ
刑務所から出所した息子は、母がひとりで慎ましやかに日々を送る実家に、ひとまず居候する。仕事を探すが、前歴を待ったものに対する風当たりは強く、またもな就職口も見つからない。
トラックの運転手をしていたのだが、出来心から《麻薬》の密売に手を貸してしまったのだ。元の職場に戻ることもできない。ありついた仕事といえば、ゴミの分別作業だ。長く続くはずもない。
飲み屋で気があった女性とつきあい始めるが、自分の過去を切り出せず、行き違いから別れる。
家に帰れば、潔癖で自分の領分を崩さず、息子を受け入れようとしない母がいる。
この映画にとって、上のストーリーは、主題の単なる背景にすぎない。この映画の主題はずっと深刻なものである。
その母は、自分の死期が近いことを知っている。なのに、なおさら息子を遠ざけ、自分の生き方-人生の終え方にこだわる。
【人生の最期をどのように向かえるか-どのように終わらせるか】-という問題である。
『尊厳死』という言葉と『安楽死』という言葉があるが、その2つを混同していたり、実際2者の関係が分かりにくいという現実がある。そしてこの映画での、母親の選択は『自殺幇助』ともいえる【医師の薬物処方による患者の自殺を補助するもの】であり、前2者とは【死に対して】積極的な働きかけを持つ点、区別される性格のものだ。間違えれば『嘱託殺人』とも捉えられかねない。
それは当然、日本でも、この映画の生活の場となっているフランスでも認められていないものだ。だから、それが認められている隣国スイスで最期を迎えることになる。(現在、これが認められているのは、オランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルックス3国とスイスだけだそうだ。)
映画の『カタログ』に分かりやすい説明が載っているので、多少長いが引用しておく。
『1981年に発表された「患者の権利に関するリスボン宣言」(世界医師会)には、
「尊厳をもって死ぬことは患者の権利である」とあります。この条文は95年、「患者は、
人間的な終末期ケアを受ける権利を有し、またできる限り尊厳を保ち、かつ安楽に死を迎
るためのあらゆる可能な助力を与えられる権利を有する」と改められました。このころか
ら欧米では、尊厳を保ち、かつ安楽仁死を迎えるための医師の助力(自殺ほう助=安楽死)
を合法化する運動が盛んになりました。したがって、欧米では尊厳死という概念に安楽死
が含まれます。
日本では1995年、東海大学事件判決(横浜地裁)で、安楽死の3類型(消極的、間
接的及び積極的安楽死)が示されました。消極敵安楽死は、「患者が苦しむのを長引かせ
ないために、延命治療を中止して死期を早めること」、間接的安楽死は、「苦痛の除去・
緩和を主目的とする医学的適正性をもった治療行為であるが、同時に、生命の短縮が結果
として生じること」。それに対し、積極的安楽死は、「苦痛から患者を解放するために意
図的・積極的に死を招く医療的措置を講ずること」としています。日本では死なせるとい
う積極性において大きな違いがあることから、前二者を尊厳死、後者を安楽死と呼んで居
ます。』
(後略)
【(社)日本尊厳死協会理事長 岩尾 總一郎 】さんの文章による
映画の最後は、NPO法人のメンバーの媒介によりスイスに入国し、NPOメンバーが見守る中、《安楽死》の実行のシーンまで映し出される。
それまでの話は飛んでしまい、いずれおのれにも必ずやってくる《死》について、考えざるをえない場面に置かれてしまった。
『母の身終い』-公式サイト