【2014年2月1日】 京都シネマ
この映画は、《映画》というより《ルポルタージュ》だ。登場人物も実際の人々だし、何もかも実在のものである。だから迫力もあり、説得力もあり、何にも増して感動的である。
公式サイトの冒頭に載っているルポライターの鎌田慧さんの『コメント』と『トップの文章』を、まず引用しておこう。
『牛の飼育から屠畜解体まで、 いのちが輝いている、 前代未聞の優しいドキュメンタリー。』
大阪貝塚市での屠畜見学会。
牛のいのちと全身全霊で向き合う
ある精肉店との出会いから、この映画は始まった。
家族4人の息の合った手わざで牛が捌かれていく。
牛と人の体温が混ざり合う屠場は、熱気に満ちていた。
店に持ち帰られた枝肉は、
丁寧に切り分けられ、店頭に並ぶ。
皮は丹念になめされ、
立派なだんじり太鼓へと姿を変えていく。
家では、家族4世代が食卓に集い、いつもにぎやかだ。
家業を継ぎ7代目となる兄弟の心にあるのは
被差別ゆえのいわれなき差別を受けてきた父の姿。
差別のない社会にしたいと、地域の仲間とともに解放運動に参加するなかで
いつしか自分たちの意識も変化し、地域や家族も変わっていった。
2012年3月。
代々使用してきた屠畜場が、102年の歴史に幕を下ろした。
最後の屠畜を終え、北出精肉店も新たな日々を重ねていく。
いのちを食べて人は生きる。
「生」の本質を見続けてきた家族の記録。
本当に、今まで見たこともない映画だった。びっくりしたとともに、よくぞ撮ってくれたと感動した。
そもそも一般の人は、『屠畜の現場』など見たこともないであろう。わたしも当然そうである。食肉といえば、店頭にスライスされてきれいに並べられたものしか思い浮かばない。
そこに至るまでの《行程》など考えてみることもしない。
以前、『いのちの食べ方』という映画を見た。自動車生産工場のベルトコンベアーに乗った作業のように、部品ならぬ牛や鶏が次々に機械に運ばれ、断頭台に導かれ、処理される。《地上で一番凶暴な生き物は人間である》と感じたものである。
しかし考えてみれば、ちょっと残酷ではあるが、多くの動物がそうであるように、人間は他の生物の《いのちを食べて生きる》しかないという現実がある。それを忘れてはならない。
それでも、この映画は違っていた。
貝塚公設の『屠畜場』が近々閉鎖されるという、その現場から映画は始まる。
たまたま『屠畜の現場』に遭遇した監督が、閉鎖される前に、記録しておかねばならないと【決断】し、カメラをとったという。
最初のシーンからショッキングだ。そのあと《解体》から《精肉》に至までの作業が克明に記録される。
『北出精肉店』は小さな個人商店である。
今時、あのような『屠畜』から『精肉』に至るまで、1つの家族が一貫して作業にあたる『精肉店』があるなんて思いもよらなかった。
《いのちを食べて生きている》という現実はあっても、『貧困大陸アメリカ』や『フード・インク』に描かれているような、《薬品漬》と《劣悪な環境》、《生物を生き物と思わない》機械的な作業で《生産される》食糧とは全く違っていた。
《いのち》を慈しみ、《食べさせてもらっている》という謙虚な気持ちと優しさがある。場面が違うが、映画『おくりびと』で感じた《優しさ》と《尊厳》を感じた。
話はそれにとどまらない。岸和田の『だんじり祭り』で使われる『祭り太鼓』の制作の話や、『東盆おどり』に及ぶ。そして、この辺りから14~15世紀の集落の痕跡が発見され、牛、馬、鹿、猪などの動物の骨が出土したという。この地の人々が動物を解体し、皮革加工を行っていたと思われるが、そのことが『問題』と結びつき、現在に至っている状況にもふれられて、『宣言』も登場する。
北出家の人々も、そうした状況の中にあり、言われない偏見や差別にも合ってきたに違いない。でも、映画の中の北出家の皆さんはとても明るい。何と言っても、自分の仕事に自信と誇りを持っているように映る。実際そうなのだろうと思う。
終わりに、全文は引用できないが、この映画の本質の【的を得た言葉】と思われるので、寄せられているコメントのタイトルだけでも記しておく。
『誇り高き人びとの記録』・・・・鎌田 慧(ルポライター)
『「生の終わり」と「再生」の二面性』・・・・成田 重行(地域開発プロデューサー)
『職人の魂を描いた映画』・・・・田中優子(法政大学教授)
『生きるとは、たえまない命の交換』・・・・福岡伸一(生物学者)
上映の後に、監督の『舞台挨拶』があるとは知らなかった。撮影にあたっての《苦労話》や、そもそも《この映画を撮ろう》といったいきさつを直接聞けて実にラッキーだった。
あまり感動したので、「ブログに載せますから」と言って、プロダクション・ノートの表紙に監督のサインをしてもらった。
『ある精肉店のはなし』-公式サイト