【2008年2月10日】 京都シネマ
映像が綺麗で、自然が美しく、不思議なくらいに卑猥さが無く、すがすがしい気分さえした。
「ミロのビーナス」や「裸体のマハ」を見るときと時と同じ感覚、それとは別のみずみずしさを感じた。
それとやはり原作としてのD.H.ロレンスの小説の芸術性のもつ力だろうか。
この点に関し、あるシンポジウムでのパスカル・フェラン監督の発言が興味深い示唆を与えてくれる。
その発言の中で、性の表現に3つのタイプがあるとした上で、1.古典的表現 2.ポルノ的表現 3.近代映画における表現 に分類されるが、自分の考えとしてはどれも当たらないと。
近代の映画の多くは、「愛のコリーダ」にしても「ピアニスト」にしても(渡辺淳一もその典型として含んでいいと思うが)『死』に向かう性行為を描いていると、指摘する。
自分が描くのは、喜びや胸の高鳴りが「死」ではない方向に、「レディ・チャタレー」をそう描いた、といっている。
なるほど、と思う。
中身については、あれこれ書いても仕方ないので(実際、書けませんが)それぞれで鑑賞して、それぞれに感じてください。
「シンポジウムでの監督の発言」
「レディ・チャタレイ」-公式サイト
映像が綺麗で、自然が美しく、不思議なくらいに卑猥さが無く、すがすがしい気分さえした。
「ミロのビーナス」や「裸体のマハ」を見るときと時と同じ感覚、それとは別のみずみずしさを感じた。
それとやはり原作としてのD.H.ロレンスの小説の芸術性のもつ力だろうか。
この点に関し、あるシンポジウムでのパスカル・フェラン監督の発言が興味深い示唆を与えてくれる。
その発言の中で、性の表現に3つのタイプがあるとした上で、1.古典的表現 2.ポルノ的表現 3.近代映画における表現 に分類されるが、自分の考えとしてはどれも当たらないと。
近代の映画の多くは、「愛のコリーダ」にしても「ピアニスト」にしても(渡辺淳一もその典型として含んでいいと思うが)『死』に向かう性行為を描いていると、指摘する。
自分が描くのは、喜びや胸の高鳴りが「死」ではない方向に、「レディ・チャタレー」をそう描いた、といっている。
なるほど、と思う。
中身については、あれこれ書いても仕方ないので(実際、書けませんが)それぞれで鑑賞して、それぞれに感じてください。
「シンポジウムでの監督の発言」
「レディ・チャタレイ」-公式サイト