【『仏果を得ず』 三浦しをん著 双葉文庫 2011年刊 】
「仏果を得ず」のタイトルは、この本の最終章【仮名手本忠臣蔵】の極めつけ【六段目・勘平の腹切り】から来ているが、最終章まで読んで、このタイトルの意味がようやくわかった。
原郷右衛門の
『思へば思へばこの金は、縞の財布の紫摩黄金。仏果を得よ』に対し、
瀕死の早野勘平が最後の力を振り絞って絶叫する言葉、
『ヤア仏果とは穢らわし。死なぬ死なぬ。魂ぱくこの土に止まって、敵討ちの御供する!』
これを語る健太夫の文楽人生に賭ける気概、
『金色に輝く仏果なんかいるものか。成仏なんか絶対にしない。生きて生きて生き抜く。俺が求めるものはあの世にはない。俺の欲するものを仏が与えてくれるはずがない。』
-【仏果を得ず】の心境である。
この小説の主人公・健太夫は、高校の修学旅行で文楽に遭遇し、その虜になってしまい、義太夫を極める道にはまってしまうが、入門した師匠・銀太夫は技量こそ人間国宝にふさわしい、健太夫の手の届かない存在であるが、舞台の裏では奥さんをはばかりながら小娘にかまい、甘いものに目がないじいさんである。その師匠に新たに組むように申し渡された相方の三味線弾き・兎一郎は訳のわからぬ人間である。
そんな中で、健太夫は訳あってラブホに下宿し、ボランティアで小学校の「文楽教室」かよいながら修行を積んでいく。文楽の世界にますますはまっていく中で、「教室」で知り合った子どものお母さんにひと目惚れする。
銀太夫師匠の元、相方の兎一郎との厳しい修練を積む中、女を取るか文楽を取るか迷った末に行き着いたのが、上の境地であった。
三浦しをんの文章は、惚れ込んでしまった【文楽】に対する執念とも思えるこだわりを感じる。それは自らの【文楽】に対する軌跡、愛着を、小説という形を通して、健太夫に投影させたもののように映る。
本を読み終えたら、しばらく遠ざかっていた文楽劇場にまた通いたくなった。