![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/d8/d4c93f6e87973d52329ce80478dd8582.jpg)
【『バルトロ氷河』からの『K2』(奥)と『ブロード・ピーク(K3)』(手前右)
【2015年5月31日】 京都シネマ
『K2』は、言わずと知れた世界第2の高峰である。高度こそ及ばないが、『エヴェレスト』よりも登頂が困難といわれているし、姿の美しさは『K2』に軍配が上がる。バルトロ氷河の『コンコルディア』から見た、正面に端然と聳える、その姿は圧巻である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/5c/7615b21dfcbc9ea69f6618a5b53a58b6.jpg)
【コンコルディア(カラコルム)からの『K2』南面】
『K2』の初登頂をめぐる各国の名誉をかけての競争の中で、1954年7月31日、 イタリアのアルディト・デジオ隊が、パキスタン側から大規模な登山隊でアプローチして2人が登頂に成功しイタリア隊が初制覇の栄光を得たが、その初登頂をめぐり、実はチームの中で、アンフェアな行動があった。
12人選ばれた隊員の中で一番若かったボナッティは自信家」であり、派手なパフォーマンスから、他の隊員には奇異な存在として映っていた。最終アタック隊から外され、結果として初登頂に成功したコンパニョーニに《嵌めら》てしまったことになる。その奇異に映る行動のせいかどうかわからないが、隊員からいわれのない非難を受け、深く傷つく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4d/11dfc8f91d74ecf4630d960943135d5b.jpg)
【 中国側から見た『K2』北面 】
その辺のいきさつはこうだ。
遠征の最終段階になり、第8キャンプにいる隊員達でさらにもう一つキャンプを作る
必要があった。隊員のリーノ・ラチェデッリの体調は良かったが、アキッレ・コンパ
ニョーニは消耗が激しかった。コンパニョーニは「自分は翌日の最終キャンプの設営に
加わるが、その後なお不調なら、アタック隊員としてボナッティに交代してもらう」と
切り出し、ボナッティは酸素ボンベを荷上げするために下降することとなった。ボナッ
ティは下から登ってきたフンザ人ポーターと合流して最終キャンプ目指して登り返すが、
コンパニョーニとラチェデッリは体調の良いボナッティに自分達の立場が脅かされるこ
とを恐れて、約束より高い場所にキャンプを設営していた。ボナッティとポーターは最
終キャンプを発見できず、8100メートルの高度で露天ビバークを強いられる。声の届く
距離にいた登頂隊の2人は夜になって呼びかけに反応し、「そこにをボンベを置いて下
山しろ」という。ボナッティは彼らが迎えにくることを望んだが、それ以後いっさい応
答はなくなった。ボナッティとポーターは強風に耐え、翌朝にボンベを残して下山。
登頂隊の2人は酸素ボンベを回収し、K2初登頂に成功する。ポーターは重度の凍傷を
負い、手足の指の切断を余儀なくされた。
【「ウッキペディア」より抜粋 】
後に、ボナッティは名誉回復のため裁判をおこしたが、その裁判以前に、コンパニョーニは報告書に「酸素ボンベの気圧が低く、頂上に着く前に酸素ボンベが切れた。抜け駆けして頂上を目指していたボナッティが酸素ボンベを吸ったからだ」と書き、自分の正当性を主張して、それがイタリア山岳会の公式見解となっていた。
しかしボナッティは酸素マスクや混合弁を持っておらず、ボンベを使うことは不可能だった。
そして50年後の2004年、もう一人の《初登頂成功者》であるラチェデッリが、沈黙を破って、著書でボナッティの訴えを認めたため、イタリア山岳会も2007年にボナッティの説明が正しいことを認めた。
【 同 抜粋引用 】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/4d/fe7be40e9107029c30710b726f4c5c22.jpg)
【 『K2』東南稜と高度 】
この映画は、そうした経緯のもと、明らかにされた『真実』に基づいて製作されている。
○ ○ ○
『K2』の姿を見て感動してしまったので、以前見た映画で『K2』が出てきたのは何だったのだろうと、ライブラリーを探し回り、見つけ出した『バーティカル・リミット』を、夜中に最後まで観てしまった。
こちらは、ちょっと現実離れした「娯楽映画」だが、結構『K2』の姿も登場して、久しぶりに興奮し、充実した1日だった。
『K2-初登頂の真実』-公式サイト
『K2』(ウッキペディアのページ)
【2015年5月31日】 京都シネマ
『K2』は、言わずと知れた世界第2の高峰である。高度こそ及ばないが、『エヴェレスト』よりも登頂が困難といわれているし、姿の美しさは『K2』に軍配が上がる。バルトロ氷河の『コンコルディア』から見た、正面に端然と聳える、その姿は圧巻である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/5c/7615b21dfcbc9ea69f6618a5b53a58b6.jpg)
【コンコルディア(カラコルム)からの『K2』南面】
『K2』の初登頂をめぐる各国の名誉をかけての競争の中で、1954年7月31日、 イタリアのアルディト・デジオ隊が、パキスタン側から大規模な登山隊でアプローチして2人が登頂に成功しイタリア隊が初制覇の栄光を得たが、その初登頂をめぐり、実はチームの中で、アンフェアな行動があった。
12人選ばれた隊員の中で一番若かったボナッティは自信家」であり、派手なパフォーマンスから、他の隊員には奇異な存在として映っていた。最終アタック隊から外され、結果として初登頂に成功したコンパニョーニに《嵌めら》てしまったことになる。その奇異に映る行動のせいかどうかわからないが、隊員からいわれのない非難を受け、深く傷つく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4d/11dfc8f91d74ecf4630d960943135d5b.jpg)
【 中国側から見た『K2』北面 】
その辺のいきさつはこうだ。
遠征の最終段階になり、第8キャンプにいる隊員達でさらにもう一つキャンプを作る
必要があった。隊員のリーノ・ラチェデッリの体調は良かったが、アキッレ・コンパ
ニョーニは消耗が激しかった。コンパニョーニは「自分は翌日の最終キャンプの設営に
加わるが、その後なお不調なら、アタック隊員としてボナッティに交代してもらう」と
切り出し、ボナッティは酸素ボンベを荷上げするために下降することとなった。ボナッ
ティは下から登ってきたフンザ人ポーターと合流して最終キャンプ目指して登り返すが、
コンパニョーニとラチェデッリは体調の良いボナッティに自分達の立場が脅かされるこ
とを恐れて、約束より高い場所にキャンプを設営していた。ボナッティとポーターは最
終キャンプを発見できず、8100メートルの高度で露天ビバークを強いられる。声の届く
距離にいた登頂隊の2人は夜になって呼びかけに反応し、「そこにをボンベを置いて下
山しろ」という。ボナッティは彼らが迎えにくることを望んだが、それ以後いっさい応
答はなくなった。ボナッティとポーターは強風に耐え、翌朝にボンベを残して下山。
登頂隊の2人は酸素ボンベを回収し、K2初登頂に成功する。ポーターは重度の凍傷を
負い、手足の指の切断を余儀なくされた。
【「ウッキペディア」より抜粋 】
後に、ボナッティは名誉回復のため裁判をおこしたが、その裁判以前に、コンパニョーニは報告書に「酸素ボンベの気圧が低く、頂上に着く前に酸素ボンベが切れた。抜け駆けして頂上を目指していたボナッティが酸素ボンベを吸ったからだ」と書き、自分の正当性を主張して、それがイタリア山岳会の公式見解となっていた。
しかしボナッティは酸素マスクや混合弁を持っておらず、ボンベを使うことは不可能だった。
そして50年後の2004年、もう一人の《初登頂成功者》であるラチェデッリが、沈黙を破って、著書でボナッティの訴えを認めたため、イタリア山岳会も2007年にボナッティの説明が正しいことを認めた。
【 同 抜粋引用 】
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【 『K2』東南稜と高度 】
この映画は、そうした経緯のもと、明らかにされた『真実』に基づいて製作されている。
○ ○ ○
『K2』の姿を見て感動してしまったので、以前見た映画で『K2』が出てきたのは何だったのだろうと、ライブラリーを探し回り、見つけ出した『バーティカル・リミット』を、夜中に最後まで観てしまった。
こちらは、ちょっと現実離れした「娯楽映画」だが、結構『K2』の姿も登場して、久しぶりに興奮し、充実した1日だった。
『K2-初登頂の真実』-公式サイト
『K2』(ウッキペディアのページ)