【 『選択の科学』-コロンビア大学ビジネス・スクール特別講義
シーナ・アイエンガー著/櫻井祐子訳 2011年3月第5版 】
著者は、インド人の両親を持ち、厳格なシーク教の教えとインドの習慣を守る家族の元で育ったアメリカ移民の2世である。
本の最初に触れているのだが、著者が、《選択》というテーマを研究課題に選んだ動機が面白い。いろいろ書いてるが、一番大きな動機はやはり、自分の両親の結婚に際しての、インド社会の伝統=『厳しいしきたり』があったに違いない。
両親の結婚が、もちろん恋愛結婚でもなければ、相手を《選択》する余地もなかった。それどころか、父親は結婚式の当日まで相手の顔さえ見ていないというのだ。(当然、母親も相手の顔を見ていない、ということになるのか?!)
そういう彼女がアメリカで生まれ、アメリカの公立学校に通う中で感じたことは、『アメリカにおいては、《選択》は共通語であり、自分の人生を《選択》という次元でとらえた方が、明るい展望が開けるように思われた』と語っている。
今回、この本を読んで一番印象に残ったのは、『選択』という行為が『自由』という概念の中で、非常に大きな位置を占めているということだ。
今まで『自由』を語るとき、自分としてはあまり意識していなかったが、《選択する》、《選択できる》ということが『自由』の具体的内実をあらわす重要なキーワードだと改めて感じたが、その《選択》に注目し、それに焦点をあて、研究課題として取り上げた点が面白い。
『自由』という概念は、『平等』や『平和』とならんで、人類にとってもっとも大切で崇高な目標あることに異論はないだろう。
この場合の『自由』は、《~からの自由》とかいわれる『市民的自由』、『社会的自由』であるが、その『自由』は以下のような内容が挙げられる。
その際、多くの自由が《選択の自由》=《選択できる》ということが、自由を表す具体的内容になっている
思想信条の自由
結社・集会の自由
学問の自由
表現の自由
職業選択の自由
居住移転の自由
苦役・拘束からの自由
一方、大空を自由に飛び交う』とか『機械を自由に操る』というときの、『能力』や『知識』が充分備わった状態を指す場合もある。いわゆる《~への自由》である。
『自由』は上の場合のように『誰にも束縛されないで、自分の思うがままに自由に行動する』とかの『束縛』がないフリーな状態をいったりもするが、いずれにしても『自由』は人間の究極の理想であり、人類の歴史は、ある意味では『自由の拡大』の歴史だったといえる。
以下、本書の構成を見てみると以下のようになる。
オリエンテーション 私が「選択」を研究テーマにした理由 シーク教の教えに従って着るもの
まで決められていた私は、高校にあがる頃に失明する。 が、アメリカの学校で私は「選択」こそ
力であることを学ぶことになる
第1講 選択は本能である 選択は生物の本能である。なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、
動物園の動物の平均寿命は短いのか。なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか
第2講 集団のためか、個人のためか 父は結婚式のその日まで、
母の顔を知らなかった。親族と宗教によって決められた結婚は不幸か。宗教、国家、体制、
の違いで人々の選択の仕方はどう変わるのか
第3講 「強制」された選択 あなたは自分らしさを発揮して選ん
だたつもりでも、実は他者の選択に大きく影響されている。その他大勢から離れ、かといっ
て突飛ではない選択を、人は追う
第4講 選択を左右するもの 人間は、衝動のために長期的な利益
を犠牲にしてしまう。そうしないために、選択を左右する内的要因を知る必要がある。確認
バイアス、フレーミング、関連性
第5講 選択は作られる ファッション業界は、色予測の専門
家と契約している。が、専門家は予測ではなく、単に流行を作っているのでは? 人間の選
択を左右する外的要因を考える
第6講 豊富な選択は必ずしも利益にならない 私が行った実験のなかでもっとも、応用
されている実験にジャムの実験がある。ジャムの種類が多いほど種類が多いほど売り上げは
増えると人々は考えたのだが
第7講 選択の代償 わが子の延命措置を施すか
否か。重い障害が一生残ることになる可能性が高い。その選択を自分でした場合と医者に
した場合の比較調査から考える
最終講 選択と偶然と運命の三元連立方程式 岩を山頂に運び上げたとたん転げ落ちる
シジフォス。神の罰とされるその寓話で、しかし、シジフォスの行為に本当に意味はない
のだろうか。人生もまた・・・
オリエンテーションから第2講は著者の体験に直接結びついた、『自由』とのかかわりを持った『選択』についての興味深い考察である。
第1講の『選択』と『ストレス』の関連は、自分の意志による『選択』で、その結果『自由』に振舞える事がいかに貴重なことかよく分かる。それとこの本の特徴として、例が具体的であり、他の著作や身近の起きた事例をふんだんに取り入れているから、アカデミックな内容にもかかわらず、読者(聴講生)を退屈にさせない。
『ナポレオン・ソロ号』の遭難の話もあれば、ジョー・シンプソンの実話であるペルー・アンデス氷壁での『死のクレバス』事故の話も出てくる。
著者は言う。
『わたしが「選択」と呼んでいるのは、自分自身や、自分の置かれた環境を、自分の力で変える能力のことだ。』(P-23)、と。
【動物園の動物はなぜ寿命が短いか】の項や【社長は長生きする】、【老人ホームでの実験】の項も面白い。
『仕事上の裁量の度合いが小さければ小さいほど、勤務時間中の血圧は高かった』(P-34)というデータに象徴されるように、上の3つの項のトピックスは、自分の行動に対する『自由度』が制約されればされるほど『ストレス』が大きくなることを印象づけている。
第2講は、両親の結婚にまつわる話で、著者が《選択》を研究のメインテーマに選んだ直接の動機となったエピソードだ。まあ、読んでいて現代でもこんな結婚があるんだと驚かされる。
第3講から第6講までは、少し趣が変わって、実社会での経営戦略やコマーシャリズムに関連する実験心理的な話題だ。
『プラダを着た悪魔』、『セックス・アンド・ザ・シティー』やら『マトリックス』の話も出るし、商業界の内幕の話もふんだんに出てきて、これはこれで読み応えがある。
この中で、第5講の『投票行動は容姿に影響される』は、さすが《選挙はお祭り騒ぎ》の国だけあって、興味深い分析だ。日本も何かというとアメリカのまねをする国だから、参考になる。
第7講以降は、再び根源的な話題に戻る。
『ソフィーの選択』という忌まわしいナチスの残虐行為の話題にも触れられているが、7講では主に《わが子に延命措置を施すか》どうかと問題で、話を進めている。ここでは、自然に対する人間の自由の拡大、自然法則を《支配》する能力の拡大が、新たな《選択》の余地を広げ、そのことによって生じるジレンマが話題となっている。
従来は『神の選択』の領域だった問題が、《科学の進歩》によって『人間の選択』の領域に入れられ、それに対する責任を負わされる時代になってきている。
それは『自由』を拡大するというよりも、新たな危険を生むことにもつながる。
『平和利用』を含めた原子力の利用や、遺伝子操作までできるようになった科学の進歩が逆に人間を脅かす脅威となっているのは、昨今の世の中を見れば明らかである。
自由と放縦の区別をつけずに振舞うことは問題外として、個人の無制限な自由や、社会の秩序を乱す自由は、他の人間の権利や自由を奪いかねないという危険もはらんでいる。
また、『表現の自由』が無秩序に使われれば、『個人のプライバシー』を侵害するばかりか、その個人を追い詰めることにもなりかねない。
ともかく、話題の豊富な、読んでいて飽きない本である。
モノが多すぎて、選択肢が多ければかえって売り上げが落ちるという話の一方、雑多な情報が氾濫してかえって、正確で的確な情報にたどり着けない先進国での状況もあれば(参照『社会の真実のつかみ方』、『出版崩壊』)、全く別の世界もある。
戦前の日本で、そうであったように、世界の紛争地では今も、生きるために否応なく銃を握り《敵》を撃たなければならない状況がある。また、何をすることもできず、迫り来る死をじっと待つだけの状況もある。
「別の見方をすれば、彼らはそういう社会とそういう時代の中で、そうした生き方をするしか選択肢がなかったともいえる。」(『ロシア 語られない戦争』(p-192)
現代日本では、『生命維持装置』をはずすかどうかの選択や、原子力発電を廃棄するか存続させるかの選択を突きつけられている。『ソフィーの選択』のような無慈悲な選択を突きつけられる現実は今のところないが、別の選択を誤れば、そういう事態にもなりかけないのが今の世界だ。
現代人はある意味、『選択』という枠をはめられた中での『自由』に押し込められたと見れないこともないが、良い選択をしなければならない。