【 2018年1月27日 】 立命館大学朱雀キャンパス
ともかく長い。見に行くのにある種の《決断》がいる。それと、各部の間の休息時間が短いから、すぐに食べられる食料や飲料、また長時間に耐えられる姿勢維持の対応もしないといけない。ペットボトルと温かいコーヒーを入れた魔法瓶とおにぎり3つ、それからクッションをデイバッグに納めて朝の9時に家を出る。
今日は、アウシュビッツ強制収容所が解放されて73年目にあたる《その日》で、2005年の国連総会で『ホロコースト犠牲者を想起する国際デー』として採択されたという。知らなかった。
映画の内容は、監督であるクロード・ランズマンが通訳の助手と共に行った、様々な人へのインタビューでほとんどが構成されている。インタビューの対象者は、奇蹟的に生き残った「元収容者」、ナチに強制的に協力させられていた「特別任務班」のユダヤ人、ナチ親衛隊の元隊員、政府の中枢にいたナチ協力者の元閣僚、収容所近くに住んでいたポーランド人などの村民、等々。インタビューの合間に元収容所跡の風景や現代の街の様子が流されて、ナチ関連の映画で見るような、当時の「強制連行されるシーン」や「強制所内部の虐待シーン」や「死骸の山」といった生々しい映像はない。
睡魔に何度も襲われながら、最後まで見終えたが、やっぱり疲れた。
一番驚かされたのは、監督の執念だ。「つらい過去を思い出したくない」「これ以上、話せない」と涙を浮かべる元収容者に根気よく、あるいは執拗に「貴重な証言」を引き出すその使命感はすごい。また「加害の事実」を認めたがらない者に対しては、巧みな質問で「歴史的事実を引き出す」ための準備-事前の背後関係・事実関係の把握とそれを駆使した論理の巧みさは、さすがだと思わされる。よくそこまで証言を引き出したと感心する。
このドキュメンタリー映画を初めて観て、以前見た多くの映画がこの映画からかなりのヒントをもらっている-ここでの証言が映画のシーンに多く生かされていると感じた。いや、これらの証言があったからこそ、その後の映画がよりリアリティーを持って、見るものに影響力を与えれたと思っている。(*下記サイトを参照のこと)そういう意味で、これは画期的な映画だし計り知れない価値を持つものだと強く感じた。
加害者側の発言で一つ気になったのは、『アイヒマン裁判』でもよく言われたような、《責任ある立場の者》が「自分は《最終処理》のことは全然知らなかった。ただ、上からの命令を忠実に実行していただけだ。」と言い逃れをすることである。
『【知らないこ】は恥であるばかりではなく、罪にもなり得る』-いつか本の表表紙に書いてあった言葉だが、そうであるならば、それ以上に『【知らせないこと】【事実を隠すこと】はもっと大きい犯罪である』と思った。
この映画から教訓はたくさん得られるが、今の世の中にあてはめるならば、【秘密保護法】の問題は論外として、メールを含めた「公文書の破毀」なども犯罪として扱うよう法を整備し、厳しく取り締まるべきものである。【政府の秘密主義】や【首相のオオム返しのウソ】も、《出鱈目である》ともっと衆目に分かるような報道をマスコミはすべきである。
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* 記憶に残る「ナチ関連映画」の【マイブログ】のサイトリンク
『ナチス、偽りの楽園』
『誰がため』
『黄色い星の子どもたち』
『善き人』
『ソハの地下水道』
『サラの鍵』