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『新藤兼人-いのちのレッスン』-4年前のを読み返し、映画『一枚のハガキ』と合わせ感じるところ多し

2011-08-26 21:19:17 | お薦めの本

 読み直したきっかけは、もちろん映画『一枚のハガキ』である。

 新藤兼人が3人の妻を持ったことを改めて知った。新藤兼人というと、『乙羽信子』と『愛妻家』というイメージが結びついて離れないが、そんな単純なものではなかったのだ。この本には《ここまで言ってしまっていいのか》と思うほど、一人の男としての苦悩と悔恨の情が入り混じった心情を、偽りのない言葉で実直に表している。

 本の中で、新藤兼人は妻を《~さん》づけで書いている。『乙羽信子』も最後まで、《乙羽さん》である。

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 『愛妻物語』は最初の妻、久慈孝子へのレクイエムと自身で書いている。『乙羽信子』を描いたのではない。

 『久慈孝子』との出会いは、小津安二郎監督の『一人息子』の制作でスクリプターを募集した際、応募してきた3人の内の一人が久慈さんだったことから始まる。昭和14年の夏、別の映画の脚本の仕事の絡みでロケ地、伊豆の伊東を訪れたときだった。一泊の出張の帰り際、意を決して「駅前の食堂で待っている。」と告げると、久慈さんはやってきて、翌日結ばれる。新藤兼人27歳、久慈孝子23歳。(P-88
 しかし、昭和18年の夏に久慈孝子さんは急性結核で亡くなってしまう。

 『久慈さんがわたしに「愛妻物語」のシナリオを書かせ、はじめて映画を撮らせてくれた。(中略) 「愛妻物語」に出演した乙羽さんが亡き久慈さんとわたしのなかでぴったりと重なった。これは運命としかいいようがない。女のまことによって、男は生かされている。』(P-91

 久慈孝子とは病気での死別だが、『愛妻物語』が残された。


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 その後、『昭和21年、34歳のわたしは、友人の世話で見合い結婚し・・』(後略)(P-75)、その後長男をもうけるが、新藤兼人39歳の時に乙羽信子と出会う。

 『これが男のエゴなのか。わたしは妻とは別れようとは思わなかった。・・(中略)・・乙羽さんとの関係をつづけながら、逗子の家に帰っていた。妻の前では、乙羽さんとのことは暗黙の了解ということで押し通したのだ。』P-76

 そして、新藤が60歳のとき、妻が出て行くというのを、止めようと思いつつ、黙って見過ごし、離婚する。離婚したら周囲の人は、乙羽さんと結婚すると思っていたそうだが、『死ぬまで結婚すまい。、と私は思い固めていた。それがせめてもの去った妻へのわたしのけじめだった。』と新藤は語っている。

 家を出てから、一度も連絡が無い元の妻が5年目に亡くなったという知らせを受ける。『これには打ちのめされた。』といっている。(P-77


 そうは言っても、ここには《男の身勝手》だけが映ってしまう。男のわたしが言うのもおかしいが、新藤自身で言うように《男のエゴ》である。


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 乙羽さんとも会わずに1年ほどたったある日、乙羽さんから連絡があり、『心細くてしかたが無い。結婚したい。』という言葉に誘われ、66歳で結婚に踏み切る。(P-77)

 39歳の時に出会って、66歳で結婚することになったのだから息の長い話であるし、その根性というか一徹な気持ちは立派である。

 平成5年、乙羽信子は癌の手術を受ける。新藤は、医者からの『あと1年か1年半の命かと思われます。』という宣告を受け止める。(P-34

 『乙羽さんの1年か1年半の余命を、いかに豊かに過ごせばいいか。それはわたしと映画を撮る以外ない。。・・(中略)・・「午後の遺言状」の撮影に入ることが、いちばんいい。』P-36

 こうして、『午後の遺言状』が作られ、乙羽信子の遺作となった。


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 『夫婦は同時に死ぬわけにはいかない。どちらかが残る。乙羽さんが先に死んでよかった。・・(中略)・・わたしは男だから、乙羽さんよりその力(生活力)が少しあるように思われた。』
P-29

 この辺が、世の中の尋常な男と違うところである。通常、夫は妻に先立たれたら多少経済力があったとしても、1年と持たない。
 3人の妻に先立たれた82歳の新藤兼人は、その後も止まる事を知らず、新たな映画作りに挑んでいく。


 そして今回の『一枚のハガキ』である。この本が書かれてから4年がたっている。


 『わたしに赤紙(召集令状)がきたのは。昭和19年3月下旬。この前年、最初の妻、久慈さんに死なれ、・・後略』P-55)たが、

 『召集令状がくると町内から酒1升とスルメ1枚が配られた。』P-56

 『32歳のわたしは、帝国海軍二等水平となって呉海兵団に入隊した。百人が天理市の天理教本部に派遣された。・・(中略)・・残った10名が宝塚歌劇団へ行って掃除をすることになった。その後、さらにわれわれ十名のうち四名が海防艦の機関銃手となって船に乗った。みんな戦死したことだろう。』P-58

 これは、『一枚のハガキ』の話にそのまま取り込まれている。

 『百名のうちの六名の一人として、わたしは敗戦を迎えた。死んだ九十四名の無念を思えば、生き残ったわたしは、戦後社会を心底、夢中で生き抜かなければならないのだ。』P-59

 だから、『一枚のハガキ』は新藤兼人自身の人生の総仕上げであり、戦争で亡くなった人々へのせめてもの鎮魂歌でもあるのだ。


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 本の引用・紹介は、妻との出会いと別れが中心になってしまったが、その間には、《久慈さん》や《乙羽さん》に励まされ、生かされた話がぎっしり詰まっている。上に紹介した映画のほか、一つひとつの映画がどのような困難と戦いながら作られてきたか、監督自身の思いが伝わってくるし、また、溝口健二や小津安二郎等の監督との出会いエピソードも興味深い。その他、家族のこと、岡本太郎の言葉や、殿山泰司、吉村公三郎らの仕事仲間との話など、話題が尽きない。
 紹介しきれないので、是非本文を読んでみていただけたらと思う。
 

 『人の心には、さまざまな弱点や醜さが渦巻いている。それを認めたうえで、真面目に純粋に生きたい。95歳になった現在でも、わたしはそうつとめている。向上心を失いたくない。』P-115


 そういう人である。向上心とそれを支えるエネルギー、努力は敬服に価する。


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 新藤兼人は3人の妻を持ったが、わたしは、幸か不幸か(後の言葉は妻の前では禁句である)この歳になるまでひとりの妻にしか出会っていない。









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