働くことはいいことだし、頑張ることはいいことだけど、「過ぎたら」いけないね。
そんなことを、ここのところの一連の出来事で感じた。
(今日は、長い文章になると思うので、お忙しい方は、暇な時に読んでくださるか、または、飛ばしてください。)
私も、5年くらい前は、仕事がすごく忙しくて、文字どおり「死にそうな」毎日を送っていた。
店と教室で、4店もあったから。
スタッフは、24名。
月々の支払いだけで、400万円以上あったし、経理も労務管理も、製作も教室も、全部やっていたから、本当に忙しかった。
ストレスも、並み大抵のものではなく、(毎月、400万を超える支払いや、お給料を払うこと、家賃を払うことだけでも、かなりストレスに感じていた)いつ倒れてもおかしくないって感じてた。
そんなある日、大通りの交差点で、ころんだ。
その時の私は、荷物をいっぱい抱え、支店から支店へと移動していた時。
たぶん、疲れ果てていたのだと思う。
たくさんの人の前で、盛大にころび(荷物は散乱した)穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
その怪我自体は、たいしたことはなかったけど、私は「これは、なんの暗示だ???」って、ずうっと考えていた。
そして、出した答え。
「これは神様が、仕事を減らしなさい。このままいくと、こんな怪我では済まないよ。」というメッセージではないか?と。
荷物が散乱したのも「持っている荷物が多すぎるから減らしなさい」っていうメッセージではないだろうか?と。
この状態を続けたら、私は死んでしまう、と心底、感じた。
それから、ほどなくして、私は、店を2店に減らした。
減らしてから、5年経った今年、やはり同じように、もっと身軽になろうと決めた。
小さな店だったけど、2店で、家賃が年間300万。
もう、支払いや、お給料や、多くの問題を抱えたくないと思いはじめていた。
そして、今年、2店を閉め、新たに、小さな小さな店を持った。
家賃もいらず、借金もなく、ストレスも、ほとんどない今の店。
やっと、ここまで来た。そんな気分。
そして、やれやれと思ったところで、怪我をした。
階段から落ちて、腰の骨を骨折した。
多くの人に言われた。
「やっこさん、疲れ切っていたものね!」「神様が、休みなさいって言ったのだと思う」って。
こうやって、私は、その都度、その都度、「何か」のメッセージを受け取りながら、軌道修正してきたのだと思う。
それは、「頑張り過ぎている人」には、「頑張らなくていいよ」というメッセージがくること。
「頑張らない人」には、もっと「頑ばりなさい」というメッセージがくること。
そうやって、バランスを保つように、世界は、なっているのではないだろうか?
先日、ランチした友達は、宗教を持っている。
精神っぽい話は好きなので、彼女の話は楽しい。
運命の話、「おまかせ」の話、自分のしたことが自分に還ってくるという話。
どれも、楽しい。
ただ、私は、形のある「何か」や、「誰か」や、「何々教」を信仰するつもりは、まったくない。
私にとっての神は(宇宙と呼んでもいいし、この世のバランスと呼んでもいい)そんな小さな狭い枠には入り切らない。
そして、どこにでも存在している。
誰の中にもあり、どこでもあり、何にでも存在している。
そして、昨日、WOWOWで、オリビアハッセー主演の「マザーテレサ」を観た。
神の存在、おまかせの気持ち、「あっ、この間、友だちと話したことと同じだ」って驚いた。
きっと、宇宙は、バランスを保つようにできている。
そのバランスが崩れた時、それを正すべき「出来事」が起る。
怪我だったり、事故だったり、病気だったり、災害だったり、事件だったり、公害だったり、そんなことが起る。
エイズも、地球温暖化も、戦争さえ、バランスの一環だと思えてならない。
だから、「そのこと」が起った時、ちゃんと、そのメッセージを受け取らなくてはいけない。
なぜ、起ったか?
頑ばりやのYちゃんにも、きっと、神さまのメッセージがきていたと思う。
でも、頑ばりやだったから、頑張り過ぎてしまった。
それが、くやしくて、くやしくてならない。
この悲しみから、神様は、私に何を学べと言っているのだろうか?
そんなことを、ここのところの一連の出来事で感じた。
(今日は、長い文章になると思うので、お忙しい方は、暇な時に読んでくださるか、または、飛ばしてください。)
私も、5年くらい前は、仕事がすごく忙しくて、文字どおり「死にそうな」毎日を送っていた。
店と教室で、4店もあったから。
スタッフは、24名。
月々の支払いだけで、400万円以上あったし、経理も労務管理も、製作も教室も、全部やっていたから、本当に忙しかった。
ストレスも、並み大抵のものではなく、(毎月、400万を超える支払いや、お給料を払うこと、家賃を払うことだけでも、かなりストレスに感じていた)いつ倒れてもおかしくないって感じてた。
そんなある日、大通りの交差点で、ころんだ。
その時の私は、荷物をいっぱい抱え、支店から支店へと移動していた時。
たぶん、疲れ果てていたのだと思う。
たくさんの人の前で、盛大にころび(荷物は散乱した)穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
その怪我自体は、たいしたことはなかったけど、私は「これは、なんの暗示だ???」って、ずうっと考えていた。
そして、出した答え。
「これは神様が、仕事を減らしなさい。このままいくと、こんな怪我では済まないよ。」というメッセージではないか?と。
荷物が散乱したのも「持っている荷物が多すぎるから減らしなさい」っていうメッセージではないだろうか?と。
この状態を続けたら、私は死んでしまう、と心底、感じた。
それから、ほどなくして、私は、店を2店に減らした。
減らしてから、5年経った今年、やはり同じように、もっと身軽になろうと決めた。
小さな店だったけど、2店で、家賃が年間300万。
もう、支払いや、お給料や、多くの問題を抱えたくないと思いはじめていた。
そして、今年、2店を閉め、新たに、小さな小さな店を持った。
家賃もいらず、借金もなく、ストレスも、ほとんどない今の店。
やっと、ここまで来た。そんな気分。
そして、やれやれと思ったところで、怪我をした。
階段から落ちて、腰の骨を骨折した。
多くの人に言われた。
「やっこさん、疲れ切っていたものね!」「神様が、休みなさいって言ったのだと思う」って。
こうやって、私は、その都度、その都度、「何か」のメッセージを受け取りながら、軌道修正してきたのだと思う。
それは、「頑張り過ぎている人」には、「頑張らなくていいよ」というメッセージがくること。
「頑張らない人」には、もっと「頑ばりなさい」というメッセージがくること。
そうやって、バランスを保つように、世界は、なっているのではないだろうか?
先日、ランチした友達は、宗教を持っている。
精神っぽい話は好きなので、彼女の話は楽しい。
運命の話、「おまかせ」の話、自分のしたことが自分に還ってくるという話。
どれも、楽しい。
ただ、私は、形のある「何か」や、「誰か」や、「何々教」を信仰するつもりは、まったくない。
私にとっての神は(宇宙と呼んでもいいし、この世のバランスと呼んでもいい)そんな小さな狭い枠には入り切らない。
そして、どこにでも存在している。
誰の中にもあり、どこでもあり、何にでも存在している。
そして、昨日、WOWOWで、オリビアハッセー主演の「マザーテレサ」を観た。
神の存在、おまかせの気持ち、「あっ、この間、友だちと話したことと同じだ」って驚いた。
きっと、宇宙は、バランスを保つようにできている。
そのバランスが崩れた時、それを正すべき「出来事」が起る。
怪我だったり、事故だったり、病気だったり、災害だったり、事件だったり、公害だったり、そんなことが起る。
エイズも、地球温暖化も、戦争さえ、バランスの一環だと思えてならない。
だから、「そのこと」が起った時、ちゃんと、そのメッセージを受け取らなくてはいけない。
なぜ、起ったか?
頑ばりやのYちゃんにも、きっと、神さまのメッセージがきていたと思う。
でも、頑ばりやだったから、頑張り過ぎてしまった。
それが、くやしくて、くやしくてならない。
この悲しみから、神様は、私に何を学べと言っているのだろうか?