ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

復活節 第3主日

2006年04月30日 | ショートメッセージ
主の復活を喜びつつ、今日も礼拝を共にあずかれる幸いを感謝いたします。

本日の福音書(ルカによる福音書 24:36b-48)を通して感じたことは、
私達の罪をご自身の十字架によって贖って復活されたイエス様が、
いつも私達の歩みの上に、そのみ言葉を通じてお導きを与えて下さることへの感謝の気持ちです。

それにもかかわらず、いつでも私達の目は
覆われていると言えるのではないでしょうか。
イエス様と共に宣教を続けながら、いつでもみ言葉を聞かされていながらも、
弟子である使徒たちすら「心の目を開いて」いただくことがなければ、
それを悟ることは出来なかったという事実の重さです。

哲学的な問題を持ち出すまでも無く、私達の一生とは、どこから来てどこへ行くのか、
あるいは、自分が何者なのか、また、生きることの究極の目的とは何なのか、
真剣に生きようとすればするほど、これらのことは、心に重くのしかかり、
それを見据えようとしても全く見えてはきません。
まさに、私達の目は覆われているというしかないでしょう。
そこでは、本来は人生の目的とはなりえないもの(地位、名誉、金銭など)を目指し、
あたかもそれが人生の目的であるかのように生きて行きます。
しかし、主であるイエス様は、私達の心の目を開いてくださいました。
私達の目は何によって開かれるのでしょうか?

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。」(ヨハネによる福音書1:1-4)

イエス様は、聖書のみ言葉をもって私達を導いてくださるのです。
み言葉を聞くことで私達の目は真の意味で開かれてゆきます。
それこそが私達の行く道を照らす一条の光です。
私達は、聖書の言葉によりたのみ、全てのこと、
時に私達と共にあって導いてくださる主に感謝したいと思います。

「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる。
今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
(ヨハネによる福音書 14:6-7)

執事 マタイ金山 昭夫 《2006.4.30週報より》