ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

復活前主日

2006年04月09日 | ショートメッセージ
本日、お読みいただきましたイザヤ書52:13以下は、
いわゆる「苦難の僕」と言われる救い主の姿を描いた箇所で、
この「苦難の僕」は、イエスであるというのが一般的な解釈です。
しかし、木田献一という聖書学者は、この「苦難の僕」を
あの「ゼルバベル」であると主張しております。

ゼルバベルは、バビロン捕囚から帰還した民、大祭司ヨシュアと共に指導して、
神殿再建事業を行いました。
また、預言者ハガイとゼカリヤが彼らを支持して人々を激励し、
その神殿再建事業を助けました。
その結果、サマリアのサイドの妨害はありましたが、516年ついに第二神殿が完成しました。
これは、ソロモンの神殿に比べると貧弱なものでしたが、
その落成の時には、ゼルバベルは民族的英雄となり、
ユダヤのメシア(王)に即位されかけましたが、
ペルシア当局によって失敗したとされます。
その時、ただ一人その責めを負わされ処刑されたのが「ゼルバベル」であり、
この受難と処刑を記したのが「苦難の僕」なのだという説です。

私たちにとって、ある意味では身近だけれども、
どのような人だったのかよくわからない「ゼルバベル」という人物について、
今日の旧約箇所を通して思いを至らせたいと思います。

執事 マタイ金山 昭夫 《2006.4.9週報より》

大斎節 第5主日

2006年04月02日 | ショートメッセージ
【ヨハネによる福音書 12:20-33】

イエス様は、十字架への道を歩まれました。
それは、すべての人が豊に実を結ぶために自らは死んだのです。
それは、人々に希望を与えるためでした。
この世的な見方をすれば、イエス様が十字架に向かって歩まれ、
そしてついに十字架にかかられて死なれたということは、
罪人の惨死、あるいは、たんなる敗北者の死としてしか見えないかもしれません。
しかし、信じる者にイエス様は自らの十字架を通して、
私たちを罪から救い上げて、永遠の命の希望へと導いてくださったのです。

私たちも自分の今までの生き方を振り返れば、
ある人は、多くの「モノ」や「名誉」などを得て豊に過ごしているつもりでも、
何でも持っていなかったことに気が付くかもしれません。
また、ある人は、他からみれば、持っているものをすべて与え尽くしてしまい、
無一文のように見えても、その生涯は喜びと満足に満たされていた
ということもあるのではないでしょうか。

私たちは、生きるためにさまざまな重荷を自ら背負い込んで、
この世に絡め取られるような生活を送ってはいないでしょうか。
私たちが、この世の罪に生きる自分自身に死んで、
イエス様の掛かられた十字架を自らのものとして受け入れ、
キリストと共に十字架に死ぬことができれば、
新しい命に生かされることが出来るでしょう。

そして、「一粒の麦」のように、私たちの生活は、
豊に実を結ぶ生涯へときっと変えられて行くものであることを信じて、
残り少ない大斎節を過ごしたいと思います。

執事 マタイ金山昭夫 《2006.4.2週報より》