今日(10月12日)は、「豆腐の日」
日本豆腐協会が1993(平成5)年に制定。(毎月12日) 「とう(10)ふ(2)」の語呂合せ。
豆腐(とうふ)は、大豆を主原料とした、白く柔らかい食品。
現代の日本では非常に一般的な食品であり、日々の食生活とってこれほど親しまれている「豆腐」ではあるが、その起源や歴史は、はっきりしていないようだ。
そのルーツは中国だと言われており、最も有力な説は、今から2千年以上も前の前漢の時代の淮南王(わいなんおう)・劉安(りゅうあん)の創出と考えられているようだ。劉安は漢王朝創立者の「劉邦」の孫にあたる人物で、門下生にも優れた学者が多く有名な哲学書『淮南子』を残している。《因みに、よく使われる中国の故事「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」は、この『淮南子』の中に出てくる言葉。》
この説が有力とされるのは、16世紀に編纂された中国の書物『本草綱目』による。
これは今でいうところの百科事典のようなもので、このなかに「豆腐之法、始於漢淮南王劉安・・・」(意味:豆腐の法は漢の淮南王劉安に始まる)とあり、これが淮南発祥説の大きな論拠となっているようだ。地元には「豆腐発祥の地」の標識も建っている。以下を参照。
豆腐のふるさと~安徽省1993年~ 中国取材記~↓
http://webnews.asahi.co.jp/column/c-24.html
しかし、以下参考の豆腐の歴史など見ると、この時代には豆類の呉や豆乳を凝固剤でかためたものはなんでも豆腐と呼ばれていたようであり、劉安やその弟子の書物には豆腐という文字は出てこないそうだ。そして、漢・魏・六朝はもとより隋・唐にいたるまで、豆腐という字は書物に出てこず、唐末五代の百科字書なる『四時纂要』にも出ていないという。そして、文献の上で最も古く「豆腐」の語が出てくるのが、北宋の初めに陶穀の著した『清異録』だという。他にも諸説が存在しているようだが、いずれにしても、古くから中国に伝わる食物であることには間違いない。
日本へは、奈良時代(710~784年)に、中国に渡った遣唐使の僧侶等によって伝えられたとされている。、これも明確な記録はないようだ。豆腐が記録として登場したのは、1183(寿永2)年、奈良春日大社の神主の日記に、お供物として「春近唐符一種」の記載があり、この「唐符」が最初の記録といわれているが、本当に「豆腐」という漢字が記述されたのは、鎌倉時代の日蓮上人 の書状(1280年)からだそうである。 いずれにしてもわが国で豆腐が造られたのは、奈良・平安時代からといえそうだ。
当初は、寺院の僧侶等の間で、次いで精進料理の普及等にともない貴族社会や武家社会に伝わり、室町時代(1393~1572年)になって、ようやく全国的にもかなり浸透したようである。製造も奈良から京都へと伝わり、次第に全国へと広がっていった。そして、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は江戸時代になると、一般にも広まり始めた。といっても、江戸初期のころには、まだ特別の日の食べ物で、特に農民にとっては非常にぜいたく品で、いつでも食べられるわけにはいかなかったようだ。それも、江戸時代中ごろには豆腐が庶民の食生活の中に取り入れられ、身近なものとして根づいていた。それは、江戸時代の狂歌に「ほととぎす 自由自在に聞く里は 海屋に三里 豆腐屋に二里」(頭光)と歌われているように、豆腐屋がいろいろな場所に作られていたことでもわかるし、落語の題材になったり、また、1782年(天明2年)には、100種類の豆腐料理を紹介した「豆腐百珍」が、出版されて話題を呼び、翌年には続編が、その後付録までが出版され、3冊に紹介されている料理の種類を合計すると約240種類にもなるといい、それだけ、江戸時代豆腐は幅広く使われる食材となっていたようである。
昔、よく、今の「豆腐」が納豆で「納豆」が「豆腐」だなどといい、ごく最近までそう思っていた。それは、豆腐の「腐」が「くさる」なのでそう信じてたのだが、「豆腐」は、中国が発祥の地で、中国では豆腐の「腐」と言う字には、くさるという意味はなく、 「ブヨブヨしたもの」「柔らかく弾力性があるもの」という意味であったが、日本では食品に「腐る」という字を用いることを嫌って、豆富や豆冨などと記すこともある。豆腐を好んだ作家泉鏡花は、極端な潔癖症でもあったことから豆府と表記したという。
東京の台東区根岸にある豆腐料理の店、「笹の雪」は、江戸時代から続く老舗で、初代が京から江戸に来て、絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが始まりだそうだ。店を始めたのは元禄の頃で、江戸で初めて絹ごし豆腐を売ったのがこの店だそうだ。屋号の、「笹の雪」は、「笹の上に積もリし雪のごとし」とほめられたのが起こりだそうで、ここの店では、「豆腐」に「豆富」の字をあてている。江戸から明治初期かけては、明け方に入谷の朝顔を見たあと、笹乃雪でひと休みし、豆腐を肴に酒を酌むというのが、庶民の楽しみ方だったようで、正岡子規も屋号を諦み込んだ句を残しており、「世乃雪」の店先の植え込みに、「みなづきやねぎしすずしきささのゆき」「あさがおにあさあきなひすささのゆき」の二句を刻んだ句碑があり、文字は子規の自筆だという。
根岸「世乃雪」正岡子規先生直筆の碑↓
http://ikoi.web.infoseek.co.jp/photos/scenery/japan/toukyou/ueno/67sasanoyuki.htmこの当時、上方の豆腐が柔らかくて味もよいのに対して、江戸のものは一般にかたくて味も劣っていたようだ。特に、上方の"絹漉し豆腐"は柔らかだったので評判がよかったとう。それで、豆腐料理は江戸よりも京のほうが有名だった。
江戸時代、京で最も有名だったのが祇園豆腐。当時、八坂神社の鳥居の左右に茶屋があり、ふたつ合わせて「二軒茶屋」と呼ばれていた。西側の1軒は「藤屋」といって明治の末まで続き、東の「中村屋」は「中村楼」として現在も営業している。そこで豆腐の田楽を出していた。田楽とは、豆腐を四角く切って串にさし、味噌をぬって焼いた料理。その形が、田植えの際、豊作を願って舞う田楽舞の田楽法師の姿に似ているところから、この名がついたと言われている。京を訪れた旅人が八坂神社に参拝した際には、必ずこの店の田楽を食べたという。
京の味として有名な南禅寺の湯豆腐は、大盗賊石川五右衛門が手をかざし、「絶景かな、絶景かな」といった寺の山門の左手にある。こちらも江戸時代、京を訪れる旅人に好まれた。江戸から長崎まで旅をした蜀山人の号をもつ文人、大田南畝も、京名物としてここの湯豆腐をあげているという。
この豆腐を題材にした面白い落語がある。「ちりとてちん」は、水屋に食べるのを忘れた豆腐があり腐っている。そこへ物知り顔で、何でも知らんとは言わない嫌われ者の竹さんに腐った豆腐を出してきて、「元祖、長崎名物ちりとてちん」だが、「食べた事ないだろうね、知らないだろうね」とナゾをかけると、竹さんも強情な性格だから、「知ってるよ。よく食ったんだよ」とのってくる。「どんな味がするんだい」と聞くと、「ちょうど豆腐の腐ったような味がします」というサゲ。落語の好きな人は以下でどうぞ。
上方落語メモ第4集】その198 /「 ちりとてちん」↓
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug198.htm
豆を原料とする豆腐料理は健康のためにもよいし、これから、冷え込んだ日には、湯豆腐で一杯・・なんて、飲兵衛にはこたえられないね~。
(画像は湯豆腐)
参考:
日本豆腐協会
http://www.tofu-as.jp/
豆腐 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90
名古屋文理大学 食文化研究サークル No4 <豆腐の発祥>
http://www.nagoya-bunri.ac.jp/~shoku/touhu.htm
豆腐の歴史
http://www.kamo-tofu.com/touhu-age-arekore/tohuhistory.htm
豆腐のふるさと~安徽省1993年~ 中国取材記~
http://webnews.asahi.co.jp/column/c-24.html
淮南子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90
劉備 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99
江戸狂歌選・巻之壱
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~sota/humor/kyoka01.html
江戸落語-4豆腐
http://www.asahi-net.or.jp/~UK5T-SHR/rakugo-4.html
今日(7月10日)は「納豆の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/0cffe6e9ceb5678f4b85ae3e32f7e296
豆富料理 笹乃雪
http://www.sasanoyuki.com/
DigiStyle京都:百味會 二軒茶屋中村楼
http://www.digistyle-kyoto.com/hyakumikai/hyakumi_19.htm
大田南畝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
豆腐屋ドットコム
http://www.tofu-ya.com/
全豆連ホームページ
http://www.zentoren.jp/
日本豆腐協会が1993(平成5)年に制定。(毎月12日) 「とう(10)ふ(2)」の語呂合せ。
豆腐(とうふ)は、大豆を主原料とした、白く柔らかい食品。
現代の日本では非常に一般的な食品であり、日々の食生活とってこれほど親しまれている「豆腐」ではあるが、その起源や歴史は、はっきりしていないようだ。
そのルーツは中国だと言われており、最も有力な説は、今から2千年以上も前の前漢の時代の淮南王(わいなんおう)・劉安(りゅうあん)の創出と考えられているようだ。劉安は漢王朝創立者の「劉邦」の孫にあたる人物で、門下生にも優れた学者が多く有名な哲学書『淮南子』を残している。《因みに、よく使われる中国の故事「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」は、この『淮南子』の中に出てくる言葉。》
この説が有力とされるのは、16世紀に編纂された中国の書物『本草綱目』による。
これは今でいうところの百科事典のようなもので、このなかに「豆腐之法、始於漢淮南王劉安・・・」(意味:豆腐の法は漢の淮南王劉安に始まる)とあり、これが淮南発祥説の大きな論拠となっているようだ。地元には「豆腐発祥の地」の標識も建っている。以下を参照。
豆腐のふるさと~安徽省1993年~ 中国取材記~↓
http://webnews.asahi.co.jp/column/c-24.html
しかし、以下参考の豆腐の歴史など見ると、この時代には豆類の呉や豆乳を凝固剤でかためたものはなんでも豆腐と呼ばれていたようであり、劉安やその弟子の書物には豆腐という文字は出てこないそうだ。そして、漢・魏・六朝はもとより隋・唐にいたるまで、豆腐という字は書物に出てこず、唐末五代の百科字書なる『四時纂要』にも出ていないという。そして、文献の上で最も古く「豆腐」の語が出てくるのが、北宋の初めに陶穀の著した『清異録』だという。他にも諸説が存在しているようだが、いずれにしても、古くから中国に伝わる食物であることには間違いない。
日本へは、奈良時代(710~784年)に、中国に渡った遣唐使の僧侶等によって伝えられたとされている。、これも明確な記録はないようだ。豆腐が記録として登場したのは、1183(寿永2)年、奈良春日大社の神主の日記に、お供物として「春近唐符一種」の記載があり、この「唐符」が最初の記録といわれているが、本当に「豆腐」という漢字が記述されたのは、鎌倉時代の日蓮上人 の書状(1280年)からだそうである。 いずれにしてもわが国で豆腐が造られたのは、奈良・平安時代からといえそうだ。
当初は、寺院の僧侶等の間で、次いで精進料理の普及等にともない貴族社会や武家社会に伝わり、室町時代(1393~1572年)になって、ようやく全国的にもかなり浸透したようである。製造も奈良から京都へと伝わり、次第に全国へと広がっていった。そして、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は江戸時代になると、一般にも広まり始めた。といっても、江戸初期のころには、まだ特別の日の食べ物で、特に農民にとっては非常にぜいたく品で、いつでも食べられるわけにはいかなかったようだ。それも、江戸時代中ごろには豆腐が庶民の食生活の中に取り入れられ、身近なものとして根づいていた。それは、江戸時代の狂歌に「ほととぎす 自由自在に聞く里は 海屋に三里 豆腐屋に二里」(頭光)と歌われているように、豆腐屋がいろいろな場所に作られていたことでもわかるし、落語の題材になったり、また、1782年(天明2年)には、100種類の豆腐料理を紹介した「豆腐百珍」が、出版されて話題を呼び、翌年には続編が、その後付録までが出版され、3冊に紹介されている料理の種類を合計すると約240種類にもなるといい、それだけ、江戸時代豆腐は幅広く使われる食材となっていたようである。
昔、よく、今の「豆腐」が納豆で「納豆」が「豆腐」だなどといい、ごく最近までそう思っていた。それは、豆腐の「腐」が「くさる」なのでそう信じてたのだが、「豆腐」は、中国が発祥の地で、中国では豆腐の「腐」と言う字には、くさるという意味はなく、 「ブヨブヨしたもの」「柔らかく弾力性があるもの」という意味であったが、日本では食品に「腐る」という字を用いることを嫌って、豆富や豆冨などと記すこともある。豆腐を好んだ作家泉鏡花は、極端な潔癖症でもあったことから豆府と表記したという。
東京の台東区根岸にある豆腐料理の店、「笹の雪」は、江戸時代から続く老舗で、初代が京から江戸に来て、絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが始まりだそうだ。店を始めたのは元禄の頃で、江戸で初めて絹ごし豆腐を売ったのがこの店だそうだ。屋号の、「笹の雪」は、「笹の上に積もリし雪のごとし」とほめられたのが起こりだそうで、ここの店では、「豆腐」に「豆富」の字をあてている。江戸から明治初期かけては、明け方に入谷の朝顔を見たあと、笹乃雪でひと休みし、豆腐を肴に酒を酌むというのが、庶民の楽しみ方だったようで、正岡子規も屋号を諦み込んだ句を残しており、「世乃雪」の店先の植え込みに、「みなづきやねぎしすずしきささのゆき」「あさがおにあさあきなひすささのゆき」の二句を刻んだ句碑があり、文字は子規の自筆だという。
根岸「世乃雪」正岡子規先生直筆の碑↓
http://ikoi.web.infoseek.co.jp/photos/scenery/japan/toukyou/ueno/67sasanoyuki.htmこの当時、上方の豆腐が柔らかくて味もよいのに対して、江戸のものは一般にかたくて味も劣っていたようだ。特に、上方の"絹漉し豆腐"は柔らかだったので評判がよかったとう。それで、豆腐料理は江戸よりも京のほうが有名だった。
江戸時代、京で最も有名だったのが祇園豆腐。当時、八坂神社の鳥居の左右に茶屋があり、ふたつ合わせて「二軒茶屋」と呼ばれていた。西側の1軒は「藤屋」といって明治の末まで続き、東の「中村屋」は「中村楼」として現在も営業している。そこで豆腐の田楽を出していた。田楽とは、豆腐を四角く切って串にさし、味噌をぬって焼いた料理。その形が、田植えの際、豊作を願って舞う田楽舞の田楽法師の姿に似ているところから、この名がついたと言われている。京を訪れた旅人が八坂神社に参拝した際には、必ずこの店の田楽を食べたという。
京の味として有名な南禅寺の湯豆腐は、大盗賊石川五右衛門が手をかざし、「絶景かな、絶景かな」といった寺の山門の左手にある。こちらも江戸時代、京を訪れる旅人に好まれた。江戸から長崎まで旅をした蜀山人の号をもつ文人、大田南畝も、京名物としてここの湯豆腐をあげているという。
この豆腐を題材にした面白い落語がある。「ちりとてちん」は、水屋に食べるのを忘れた豆腐があり腐っている。そこへ物知り顔で、何でも知らんとは言わない嫌われ者の竹さんに腐った豆腐を出してきて、「元祖、長崎名物ちりとてちん」だが、「食べた事ないだろうね、知らないだろうね」とナゾをかけると、竹さんも強情な性格だから、「知ってるよ。よく食ったんだよ」とのってくる。「どんな味がするんだい」と聞くと、「ちょうど豆腐の腐ったような味がします」というサゲ。落語の好きな人は以下でどうぞ。
上方落語メモ第4集】その198 /「 ちりとてちん」↓
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug198.htm
豆を原料とする豆腐料理は健康のためにもよいし、これから、冷え込んだ日には、湯豆腐で一杯・・なんて、飲兵衛にはこたえられないね~。
(画像は湯豆腐)
参考:
日本豆腐協会
http://www.tofu-as.jp/
豆腐 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90
名古屋文理大学 食文化研究サークル No4 <豆腐の発祥>
http://www.nagoya-bunri.ac.jp/~shoku/touhu.htm
豆腐の歴史
http://www.kamo-tofu.com/touhu-age-arekore/tohuhistory.htm
豆腐のふるさと~安徽省1993年~ 中国取材記~
http://webnews.asahi.co.jp/column/c-24.html
淮南子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90
劉備 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99
江戸狂歌選・巻之壱
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~sota/humor/kyoka01.html
江戸落語-4豆腐
http://www.asahi-net.or.jp/~UK5T-SHR/rakugo-4.html
今日(7月10日)は「納豆の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/0cffe6e9ceb5678f4b85ae3e32f7e296
豆富料理 笹乃雪
http://www.sasanoyuki.com/
DigiStyle京都:百味會 二軒茶屋中村楼
http://www.digistyle-kyoto.com/hyakumikai/hyakumi_19.htm
大田南畝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
豆腐屋ドットコム
http://www.tofu-ya.com/
全豆連ホームページ
http://www.zentoren.jp/