1958(昭和33)年の今日( 10月22日)は、日本初のカラー長篇アニメーション『白蛇伝』が封切られた日ある。
コマ撮りによる、アニメは、19世紀末にイギリスのアーサー・M・クーパーが作ったCMが元祖と言われているらしいが、一般にいうアニメは、トーキー以後のアメリカのフライシャー兄弟(架空の少女キャラクターベティ・ブープで知られている)と、ウオルト・ディズニーの登場からで、特に娯楽志向のディズニーの作品は圧倒的な支持を得た。ミッキーマウスの短編や「白雪姫」(初の長編アニメ)、「ピノキオ」から、最新作「カーズ」(ピクサー共作)まで、今もアニメ映画の原点に君臨している。
日本の劇場用アニメ映画の歴史も古く、1916(大正5)年から始まる下川凹天(おうてん、または、へこてん)、北山清太郎、幸内純一郎の3人の漫画家、画家が手がけたペーパーアニメーションと切紙アニメーションが日本の最初期に制作されたアニメーションとされているそうだ。
1914(大正3年)年4月15日、イギリスのアニメIsn't It Wonderful?を、「凸坊の新画帳」と邦訳して公開されたのが、日本で最初に封切られたアニメ映画だそうである。
これに刺激を受けた日本の映画会社はその研究に乗り出し、1915(大正4)年、日活向島撮影所が洋画家の北島清太郎を迎え入れ、アニメ映画の研究を開始する。翌1916(大正5)年、天活(天然色活動写真株式会社)は漫画家の下川凹夫を迎え入れ研究を開始する。さらに小林喜三郎が設立した小林商会は、漫画家の幸内純一を迎え入れ(下川凹夫と幸内純一は日本近代漫画の父である北沢楽天の弟子)、製作を開始する。この3社による競争となったが、1917(大正6)年1月、天活の「芋川椋三玄関番之巻」が国産アニメ映画の第1号となった。遅れること数ヶ月後の5月、日活の猿蟹合戦が公開。6月に小林商会の塙凹内名刀之巻が公開された。
セルアニメーションの導入が遅れた日本では切り紙アニメーションが発達し、この分野では大藤信郎賞にその名を残す大藤信郎が国際的な評価を得た。セルアニメーションでは1943(昭和18)年には政岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』などがある。
第2次世界大戦を迎えると、それまで個人工房により乏しい予算で小規模に行なわれて来た日本のアニメーション制作に対して、軍部より予算が投下され、戦時色の強い国威発揚的な内容ながら、瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』(1942年)、『桃太郎 海の神兵』(1945=昭和20年、松竹動画研究所 白黒)といった作品が制作される。後者は日本初の長編アニメーション(上映時間は74分)と位置付けられている。日本において、娯楽色の強いアニメーション映画が普及したのは、東映動画が登場する1960年代になってからである。東映動画の誕生をもって、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
その第1作が日本最初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(はくじゃでん)である。
この『白蛇伝』が作られるきっかけとなった映画には、『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)がある。池部良、山口淑子、八千草薫らが出演したこの実写映画は、中国の説話・『白蛇伝』を題材にしていた。そして、この映画は香港で興行的に大成功を収め、これを受け、『白夫人の妖恋』をアニメ化する企画が、香港の映画界から東映に持ち込まれた。
当時の東映社長、大川博が、日本においても大きな興行収益を上げていたディズニー映画のような、劇場用長編アニメーション作品の制作を日本で独自に行うことを構想していたときに、香港からこの映画の製作を持ちかけられたのである。これがきっかけとなり、大川は、香港の下請けとしてでなく、独自の本格的なアニメ映画をつくることを考え始めた。当時大きな興行収益を上げるアニメはディズニー映画のみだったが、日本においてアニメ映画製作の体勢を整えていけば、将来大きな産業になるのではないかという、鉄道省の役人から東急の専務、そして東映の社長へと叩き上げてきた大川の、経営者としての予測もあったようだ。
2時間規模のカラーアニメ映画を目指し、東映の教育映画部が中心となって『白蛇伝』の企画がスタートした。しかし、この当時の日本には、アニメを制作する会社は影絵動画を含めてもごく少なく、そのいずれもが僅かの社員を抱えるのみの小会社であり、長編アニメ映画制作のシステムがなかった。そのような、アニメーションの専門家と言える人材がいない状況で、2時間規模のカラーアニメをつくろうとするこの試みは、当時の常識から考えて極めて無謀とも言えた。
東映は、動画会社の吸収、短編動画の制作、動画スタジオの建設、スタッフ養成など、数年がかりでアニメーション制作の体勢を整えつつ、その集大成として長編アニメ『白蛇伝』を完成させるという大がかりな計画を立てた。そして、 1957(昭和32)年6月末、『白蛇伝』の制作が正式に記者発表され、計画立案から2年がかりで作りあげた。
映画の内容は、白蛇の化身と、その恋人許仙の愛を綴る中国の民話「白蛇伝」を骨子としたもので、構成・美術は岡部一彦・橋本潔、脚本・演出は、それまで東宝教育映画部で短編アニメを製作していた藪下泰司、撮影は塚原孝吉である。製作は東映動画。配給は東映。公開日は1958(昭和33)年10月22日の今日であった。
声の出演者は森繁久弥と宮城まり子。彼らの台詞を劇作家の矢代静一が執筆。他に、人物の動きをトレースしてアニメ化する手法「ライブアクション(Live Action )」のために、水木襄、松島トモ子や、当時東映に入社したばかりの佐久間良子らが起用されているそうだ。1960年代、『白蛇伝』(1958年)を筆頭に、『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんわん忠臣蔵』(1963年)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)、『空飛ぶゆうれい船』(1969年)、『長靴をはいた猫』(1969年)、『海底3万マイル』(1970年)、『どうぶつ宝島』(1971年)など、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
しかし、1970年代に入るとこのころ人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作におされ、長編作品の制作は縮小されていくようになる。制作の中心はテレビシリーズへと移り劇場作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となって東映長編時代は終焉を迎える。制作本数の増加で1973(昭和48)年からは韓国への制作委託を開始。海外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。結果として自社で抱えていたクリエーターの多くがこれらの合理化で他のプロダクションなどへと移るなどして東映を去った。
だが、東映動画の制作に携わったスタッフ達は、その後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていった。また、宮崎駿のように、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなった人物もいたのである。
東映の大川博と言う人は、ディズニーのように、「海外進出」を目論んでいたといわれ、『白蛇伝』の映画の予告編のなかに、みずから登場し、「私は……東洋のディズニーになります!」と演説をしたと言われている。今や日本のみならず世界を代表するアニメの製作者となった宮崎駿の『千と千尋の神隠し』は2002(平成14)年にはベルリン国際映画祭で金熊賞を、翌年にはアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞するなど海外でも高く評価されている。今年(2006年)には、ハリウッド最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前にも選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退したが、それ程の売れっ子となっているのである。
日本長編映画が、アカデミー賞を取るなんていうのは、大川氏の大きな野望の延長線上に起きた出来事といえるだろうし、そのことを一番喜んでいるのは、彼かもしれない。
2006年の今年、東映と東映アニメは、東映アニメーションの創立50周年を記念して、「Movie Circus」(ムービーサーカス)および「東映アニメBBプレミアム」の2サービス共同企画として、「東映アニメーション創立50周年特別企画 劇場長編漫画映画の魅力」と題して、東映動画(当時)初期のオリジナル劇場長編漫画映画の名作「白蛇伝」(78分)、「西遊記」(88分)、「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」(81分)、「長靴をはいた猫」(80分)、「ながぐつ三銃士」(53分)、「長靴をはいた猫 80日間世界一周」(68分)の6作品を特集配信している。興味のある人はこの機会に見たら・・・。
MovieCircis東映アニメ50周年特別企画 ↓
http://www.showtime.jp/cinema/movie_circus/50anime/
(画像は、『白蛇伝』TOEI ANIMATION)
参考:
アニメーション映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E6%98%A0%E7%94%BB
アニゲノム~日本動画興亡史~
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hot/anime/01_05/content.html
白蛇伝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%9B%87%E4%BC%9D
ジブリの挑戦】宮崎駿の原点「白蛇伝」
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_challenge_20040810.htm
MovieCircis東映アニメ50周年特別企画
http://www.showtime.jp/cinema/movie_circus/50anime/
東映アニメーション
http://www.toei-anim.co.jp/
白夫人の妖恋 (1956)- goo 映画 昭和31年
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24792/index.html
京劇・白蛇伝(1)~(3)
http://tuziblack.hp.infoseek.co.jp/page170.html
『白蛇伝』TOEI ANIMATION
http://www.toei-anim.co.jp/lineup/movie/hakujaden/
コマ撮りによる、アニメは、19世紀末にイギリスのアーサー・M・クーパーが作ったCMが元祖と言われているらしいが、一般にいうアニメは、トーキー以後のアメリカのフライシャー兄弟(架空の少女キャラクターベティ・ブープで知られている)と、ウオルト・ディズニーの登場からで、特に娯楽志向のディズニーの作品は圧倒的な支持を得た。ミッキーマウスの短編や「白雪姫」(初の長編アニメ)、「ピノキオ」から、最新作「カーズ」(ピクサー共作)まで、今もアニメ映画の原点に君臨している。
日本の劇場用アニメ映画の歴史も古く、1916(大正5)年から始まる下川凹天(おうてん、または、へこてん)、北山清太郎、幸内純一郎の3人の漫画家、画家が手がけたペーパーアニメーションと切紙アニメーションが日本の最初期に制作されたアニメーションとされているそうだ。
1914(大正3年)年4月15日、イギリスのアニメIsn't It Wonderful?を、「凸坊の新画帳」と邦訳して公開されたのが、日本で最初に封切られたアニメ映画だそうである。
これに刺激を受けた日本の映画会社はその研究に乗り出し、1915(大正4)年、日活向島撮影所が洋画家の北島清太郎を迎え入れ、アニメ映画の研究を開始する。翌1916(大正5)年、天活(天然色活動写真株式会社)は漫画家の下川凹夫を迎え入れ研究を開始する。さらに小林喜三郎が設立した小林商会は、漫画家の幸内純一を迎え入れ(下川凹夫と幸内純一は日本近代漫画の父である北沢楽天の弟子)、製作を開始する。この3社による競争となったが、1917(大正6)年1月、天活の「芋川椋三玄関番之巻」が国産アニメ映画の第1号となった。遅れること数ヶ月後の5月、日活の猿蟹合戦が公開。6月に小林商会の塙凹内名刀之巻が公開された。
セルアニメーションの導入が遅れた日本では切り紙アニメーションが発達し、この分野では大藤信郎賞にその名を残す大藤信郎が国際的な評価を得た。セルアニメーションでは1943(昭和18)年には政岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』などがある。
第2次世界大戦を迎えると、それまで個人工房により乏しい予算で小規模に行なわれて来た日本のアニメーション制作に対して、軍部より予算が投下され、戦時色の強い国威発揚的な内容ながら、瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』(1942年)、『桃太郎 海の神兵』(1945=昭和20年、松竹動画研究所 白黒)といった作品が制作される。後者は日本初の長編アニメーション(上映時間は74分)と位置付けられている。日本において、娯楽色の強いアニメーション映画が普及したのは、東映動画が登場する1960年代になってからである。東映動画の誕生をもって、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
その第1作が日本最初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(はくじゃでん)である。
この『白蛇伝』が作られるきっかけとなった映画には、『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)がある。池部良、山口淑子、八千草薫らが出演したこの実写映画は、中国の説話・『白蛇伝』を題材にしていた。そして、この映画は香港で興行的に大成功を収め、これを受け、『白夫人の妖恋』をアニメ化する企画が、香港の映画界から東映に持ち込まれた。
当時の東映社長、大川博が、日本においても大きな興行収益を上げていたディズニー映画のような、劇場用長編アニメーション作品の制作を日本で独自に行うことを構想していたときに、香港からこの映画の製作を持ちかけられたのである。これがきっかけとなり、大川は、香港の下請けとしてでなく、独自の本格的なアニメ映画をつくることを考え始めた。当時大きな興行収益を上げるアニメはディズニー映画のみだったが、日本においてアニメ映画製作の体勢を整えていけば、将来大きな産業になるのではないかという、鉄道省の役人から東急の専務、そして東映の社長へと叩き上げてきた大川の、経営者としての予測もあったようだ。
2時間規模のカラーアニメ映画を目指し、東映の教育映画部が中心となって『白蛇伝』の企画がスタートした。しかし、この当時の日本には、アニメを制作する会社は影絵動画を含めてもごく少なく、そのいずれもが僅かの社員を抱えるのみの小会社であり、長編アニメ映画制作のシステムがなかった。そのような、アニメーションの専門家と言える人材がいない状況で、2時間規模のカラーアニメをつくろうとするこの試みは、当時の常識から考えて極めて無謀とも言えた。
東映は、動画会社の吸収、短編動画の制作、動画スタジオの建設、スタッフ養成など、数年がかりでアニメーション制作の体勢を整えつつ、その集大成として長編アニメ『白蛇伝』を完成させるという大がかりな計画を立てた。そして、 1957(昭和32)年6月末、『白蛇伝』の制作が正式に記者発表され、計画立案から2年がかりで作りあげた。
映画の内容は、白蛇の化身と、その恋人許仙の愛を綴る中国の民話「白蛇伝」を骨子としたもので、構成・美術は岡部一彦・橋本潔、脚本・演出は、それまで東宝教育映画部で短編アニメを製作していた藪下泰司、撮影は塚原孝吉である。製作は東映動画。配給は東映。公開日は1958(昭和33)年10月22日の今日であった。
声の出演者は森繁久弥と宮城まり子。彼らの台詞を劇作家の矢代静一が執筆。他に、人物の動きをトレースしてアニメ化する手法「ライブアクション(Live Action )」のために、水木襄、松島トモ子や、当時東映に入社したばかりの佐久間良子らが起用されているそうだ。1960年代、『白蛇伝』(1958年)を筆頭に、『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんわん忠臣蔵』(1963年)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)、『空飛ぶゆうれい船』(1969年)、『長靴をはいた猫』(1969年)、『海底3万マイル』(1970年)、『どうぶつ宝島』(1971年)など、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
しかし、1970年代に入るとこのころ人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作におされ、長編作品の制作は縮小されていくようになる。制作の中心はテレビシリーズへと移り劇場作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となって東映長編時代は終焉を迎える。制作本数の増加で1973(昭和48)年からは韓国への制作委託を開始。海外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。結果として自社で抱えていたクリエーターの多くがこれらの合理化で他のプロダクションなどへと移るなどして東映を去った。
だが、東映動画の制作に携わったスタッフ達は、その後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていった。また、宮崎駿のように、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなった人物もいたのである。
東映の大川博と言う人は、ディズニーのように、「海外進出」を目論んでいたといわれ、『白蛇伝』の映画の予告編のなかに、みずから登場し、「私は……東洋のディズニーになります!」と演説をしたと言われている。今や日本のみならず世界を代表するアニメの製作者となった宮崎駿の『千と千尋の神隠し』は2002(平成14)年にはベルリン国際映画祭で金熊賞を、翌年にはアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞するなど海外でも高く評価されている。今年(2006年)には、ハリウッド最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前にも選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退したが、それ程の売れっ子となっているのである。
日本長編映画が、アカデミー賞を取るなんていうのは、大川氏の大きな野望の延長線上に起きた出来事といえるだろうし、そのことを一番喜んでいるのは、彼かもしれない。
2006年の今年、東映と東映アニメは、東映アニメーションの創立50周年を記念して、「Movie Circus」(ムービーサーカス)および「東映アニメBBプレミアム」の2サービス共同企画として、「東映アニメーション創立50周年特別企画 劇場長編漫画映画の魅力」と題して、東映動画(当時)初期のオリジナル劇場長編漫画映画の名作「白蛇伝」(78分)、「西遊記」(88分)、「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」(81分)、「長靴をはいた猫」(80分)、「ながぐつ三銃士」(53分)、「長靴をはいた猫 80日間世界一周」(68分)の6作品を特集配信している。興味のある人はこの機会に見たら・・・。
MovieCircis東映アニメ50周年特別企画 ↓
http://www.showtime.jp/cinema/movie_circus/50anime/
(画像は、『白蛇伝』TOEI ANIMATION)
参考:
アニメーション映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E6%98%A0%E7%94%BB
アニゲノム~日本動画興亡史~
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hot/anime/01_05/content.html
白蛇伝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%9B%87%E4%BC%9D
ジブリの挑戦】宮崎駿の原点「白蛇伝」
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_challenge_20040810.htm
MovieCircis東映アニメ50周年特別企画
http://www.showtime.jp/cinema/movie_circus/50anime/
東映アニメーション
http://www.toei-anim.co.jp/
白夫人の妖恋 (1956)- goo 映画 昭和31年
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24792/index.html
京劇・白蛇伝(1)~(3)
http://tuziblack.hp.infoseek.co.jp/page170.html
『白蛇伝』TOEI ANIMATION
http://www.toei-anim.co.jp/lineup/movie/hakujaden/