1944(昭和19)年 の今日(10月21日 )、神風特別攻撃隊が初出撃。海軍の22機がレイテ湾のアメリカ艦隊に突入した。
1937年以来、泥沼化していた日中戦争に見通しもないままに、大日本帝国は、突如、アメリカ・イギリスとの戦争に突っ走る。国内ではすでに物資不足が慢性的になっており、経済も停滞しているなかでの無謀ともいえる開戦となった。緒戦こそ海軍が華々しい活躍を見せ、太平洋から、インド洋にまで進出し、向かうところ敵無しの状態を生み出したが、開戦から8ヶ月も経つと、アメリカ軍の反撃が開始される。その第1歩はソロモン諸島のガダルカナルで、この四国ほどの島をめぐって日米両軍の死闘が続いた。この消耗戦によって、日本海軍の航空部隊の戦力は大幅に削減されてしまった。このガダルカナルの戦いは半年後、日本軍の敗北に終わるが、それ以降もあらゆる戦闘において大きな戦勝からは完全に見放される。理由の大部分は生産力を基幹とする圧倒的な国力の差であった。そして、1944年春のマリアナ沖、秋のレイテ海戦に敗れると、日本の海軍は消滅し、敗戦はもはや時間の問題となっていた。それでも当時、陸軍はかなりの兵力を維持していたので、その後、国内でも陸軍の発言力が徐々に強まり、あの悲惨な戦争の結末へと結びついていったのである。
本来国力が充実し、準備も整ってから、戦争に突入するのが国家及び、その軍隊の理想であるが、この戦争ではそれと逆な形で起こったのが、悲劇である。
特別攻撃隊とは、爆弾を抱えた軍用機や小形舟艇(震洋)、魚雷(回天)に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う特殊攻撃を行う部隊のことであるが、いずれも、生還の可能性は低いものであるが、中でも、生還のことを考えずに航空機により連合国艦艇に体当たり攻撃を実行する特攻部隊は、特攻隊また、特攻とも略されるが、相手国から恐れられた。このような兵力と兵器の減少のために、充分な抵抗をなしえなくなっていた日本の、力による最後の抵抗であった。
海軍として最初の組織的な航空機による特攻作戦を発令したのは、大西瀧治郎海軍中将である。これは1944年6月のマリアナ沖海戦で連合艦隊に一方的敗北をして、日本側はこの戦いで「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」など空母3隻、航空機約200機を失い、第一機動艦隊は海上航空戦力としての能力を著しく喪失。又、この後絶対国防圏の要ともいうべきサイパンを失ったことは日本の敗戦を決定的にした。この海戦によって日本の連合艦隊、特に空母部隊が壊滅的な損害を受け、二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。マリアナ諸島の占領に成功した米軍は、B29による日本の本土爆撃が可能となった。そして、次の攻略目標をフィリピン奪還とした。フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であった。そして、これを支援すべく、米海軍機動部隊は沖縄・台湾・フィリピン北部の基地を空爆した。それに対し、日本軍は防衛作戦の為に用意していた航空隊(精鋭のT攻撃部隊含む)をアメリカ艦隊迎撃の為に投入した。1944(昭和19)年 10月12日から16日まで行われた台湾沖航空戦で大敗した日本は、武蔵を含む戦艦3隻、瑞鶴を含む空母4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、航空機180機を喪失した。この戦いにより、従来の組織的戦闘が不可能になっていた日本軍は航空戦力活用のため、捷一号作戦遂行のため「特攻」という手段をとらざるを得なくなっていたのである。この作戦は、レイテ沖海戦において敵空母部隊の飛行甲板を一時的に使用不能とさせ、航空戦闘能力を一時的にでも喪失させることを目的に初めて実戦で行われることになった。
1944(昭和19)年 (昭和19)年10月17日、米軍はレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始。 翌18日に大本営は「捷1号作戦」を発令。この作戦ではボルネオ島ブルネイで補給を済ませた栗田艦隊がレイテ湾に突入し、米軍攻略部隊を撃滅するという計画になっていた。他に米艦隊をひきつける囮として小沢艦隊、遊撃隊として西村艦隊、志摩艦隊も参戦。そして、基地航空部隊である第一航空艦隊も作戦を支援するという目的で戦列に加わっていた。しかし、第一航空艦隊の当時の戦力は、零戦34、偵察機1、天山3、一式陸攻1、銀河2の合計約40機しかなかった。遊撃隊が米攻略部隊を撃破するためには、なんとしても米機動部隊の動きを抑えるしかなかった。その役目を第一航空艦隊が担っていたのであったが、これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。
そして、海軍として、最初の組織的な航空機特攻作戦を発令したのは、第一航空艦隊の司令長官であった大西瀧治郎海軍中将である。
この隊名には、『神風特別攻撃隊』と命名された。名称は、元寇を追い払ったといわれる「「神風」と同様に連合軍を討つということに由来している。本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」第233号のナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ」が定着した。Kamikazeという語は、その後、諸外国において、身の危険を省みない攻撃に対する形容の言葉として定着している。
『神風特別攻撃隊』の下には、本居宣長の大和魂について詠じた、 「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」 より、4つの部隊にはそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名付けられた。
そして、『神風特別攻撃隊』は、最初第一航空艦隊の24名が選抜 されたが、全員が第十期甲種飛行予科練習生(予科練、甲飛10期)出身で全て志願によるとされている。そしてその上に指揮官(海兵70期)1名を指名。この25名に加えて、後から甲飛以外の志願者12名が名乗りをあげたため、神風特攻隊は指揮官所属の「敷島隊」をはじめ9隊の編成となった。「この作戦限り」であったはずの特攻作戦はその後も継続されたため、これを第一神風特攻隊としてその後の特攻隊と区別している。
当初大西は、特攻隊の編成には反対の立場をとっていたといわれる。生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に作戦行動不能にして栗田艦隊のレイテ突入を支援するためには有効な戦法と判断し、それを命じたといわれている。海軍の大西が、「海軍のありかたについては、艦船を海の底に沈めて空軍省を作るべし」と主張し続けていたが、海軍の首脳が「航空機充実の必要性」に気付き計画を立てたのは「レイテ海鮮」以後のことであり、「航空は我が生命にて候」と書いた大西が、いわゆる神風特攻隊の編成を行なったことにより「特攻の父」「特攻生みの親」などという立場に立たされたのは皮肉な事である。「わが声価は棺を蓋うて定まらず」と、大西は戦野を歩きながら副官門司親徳大尉に語ったという。(週刊20世紀・アサヒクロニクル)。また、戦後の生き残ったものは、特攻隊の発案実行者はあくまでも大西瀧治郎中将であるとして全ての責任を彼に押し付けているが、もともと、特攻戦術を推進したのは伏見宮博恭王で、皇室に累が及ぶことを防ぐために大西の名前が使われたという説もあるという。
元特攻隊員の有名人には2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助等々のほか、自称特攻隊員の鶴田浩二がいる。本人は特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元整備兵であり、出撃する特攻機を見送る立場だったようで、顔が売れるにつれ同じ隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかったという。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をしたといい、この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなったそうだ。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通し、これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れたそうだ。特攻隊の経歴については、周囲の人間が宣伝の一貫で立ち上げ、それについて本人が積極的に否定せず、それに乗っかっただけというのが実情のようだという。但し、本当の「特攻隊の生き残り」よりも、本物らしく「特攻の生き残り」を演じ続け、男たちの旅路においては、このイメージが最大限に活用された。
戦後、東映京都で製作された「東映戦記シリーズ」3部作の「あゝ同期の桜 」(1967.06.03)、「あゝ決戦航空隊」(1974.09.14) 、「あゝ予科練 」(1968.06.01)、同じく東映東京製作の「最後の特攻隊」(1970.10.29)に出演し、いい味を出している。
「東映戦記シリーズ」第1作の「あゝ同期の桜 」は、毎日新聞社刊の海軍飛行予備学生十四期会編『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』を原作として四十七編の遺稿から、須崎勝弥と中島貞夫が共同でシナリオを執筆し、中島貞夫が監督したものである。「あゝ決戦航空隊」は、特攻戦術"の生みの親、大西滝治郎中将の生涯と、命令に服し散っていった特攻隊の全貌を描いた作品である。八月十五日、終戦の玉音放送。八月十六日、午前二時。大西滝治郎中将は官舎にて自刃する。「あゝ予科練 」は、南太平洋の戦雲の彼方に特攻出撃していく少年たちの夢と友情と恋などを描いたものである。又、軍用機を用いた特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成された。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による攻撃を見届けた後帰還し、戦果の報告を行った。東映オールスターキャストで描く戦争ドラマ「最後の特攻隊」では、そんな、特攻機を途中で撃墜させることなく、戦場まで送り届ける護衛部隊、直掩隊をテーマに描いた作品である。
戦中生まれの私は、これらの映画をみるとつい目が潤んでしまう。特攻隊の若い搭乗員たちは、これからの祖国の未来や、残していく自分の大切な人の運命など、さまざまな想いを抱いて特攻機に乗り込み、出撃して行った。 彼らの精神は、出撃前に遺した遺書に綴られており、現代に生きる我々に、特攻隊員たちが如何なる想いで戦って、そして命を散らせていったのかを伝えている。それらの一部は、「きけわだつみのこえ-日本戦歿学生の手記-」青年学生平和の会刊行(1949年)に収載されているし、知覧特攻平和会館(鹿児島県)等の施設にも展示されている。しかし、遺書と言う特性上(人に読んで貰うもの)、男としての意地や見栄があり、必ずしも本心とは言いきれない部分もある。また予科練出身などの下士官・兵は表現能力の問題もさることながら検閲の為、日記・遺書・手紙などで本心を書く事は出来なかった。
冒頭に述べたように、このような生還の可能性のない無謀な攻撃は、航空隊によるものだけではない。
ほとんどの特攻隊員は下士官・兵と学徒動員の士官である。海軍を例にすると下士官・兵は予科練出身であり、部隊編成上、特攻の主軸となった。そして学徒動員の士官とは飛行予備学生出身で、海軍兵学校出身の士官の温存=海軍の組織の保身を目的としていた。全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が653名と全体の85%を占めていることがそれを証明している。また募集・召集令状の紙切れ代で幾らでもスペアは国民から召集出来ると言う上層部の驕りがあったという。
1 若い血潮の予科練の /七つボタンは桜に錨 /今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ/ でかい希望の雲が湧く
2 燃える元気な予科練の/ 腕はくろがね心は火玉/ さっと巣立てば荒海越えて /行くぞ敵陣なぐり込み
3 仰ぐ先輩予科練の /手柄聞くたび血潮が疼く/ ぐんと練れ練れ攻撃精神 /大和魂にゃ敵はない
4 生命惜しまぬ予科練の /意気の翼は勝利の翼/ 見事轟沈した敵艦を/母へ写真で送りたい
『若 鷲 の 歌』(作詞:西条八十、作曲:古関裕而 )昭和18年に作られた歌であるが、私も、子どものころよく歌った歌であるが、その本心はどのようなものだったろうか・・・?
『若 鷲 の 歌』歌と歌詞↓
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/gunka/wakawasi.html
特攻作戦のような、生還の可能性の全くない軍事作戦を命じた国は、いまだかつて日本国以外にはない。そして、直接命令を下した指揮官たちは、口々に”われわれもすぐに君たちのあとを継いで飛び立つ”といっておきながら、後に続いた者はほとんどだれもいなかったという。多くの特攻隊員が手記や遺稿の裏の本当に伝えたかったことは、そのような当時の日本の指導者層の理不尽な行為ではなかっただろうか。
以下参考の「懐メロカラオケ一覧表」には、当時流行った流行歌が沢山掲載されている。興味のある人はどうぞ。
(画像は、東映東京・映画「最後の特攻隊」DVD)
参考:
特別攻撃隊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
神風特攻隊
http://eorganic.web.fc2.com/kamikazetokkoutai.html
神風KAMIKAZE TOP PAGE
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/index2.html
<神風特攻隊(特別攻撃隊)>
http://www.akimasa21.net/itidaiki/kamikaze.htm
神風特別攻撃隊Kamikaze;レイテ戦における特攻 鳥飼行博研究室
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/1944kamikaze.html
きけわだつみのこえ
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/jinnminnshouri111.html
大和魂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82
懐メロカラオケ一覧表
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/hyo.htm
1937年以来、泥沼化していた日中戦争に見通しもないままに、大日本帝国は、突如、アメリカ・イギリスとの戦争に突っ走る。国内ではすでに物資不足が慢性的になっており、経済も停滞しているなかでの無謀ともいえる開戦となった。緒戦こそ海軍が華々しい活躍を見せ、太平洋から、インド洋にまで進出し、向かうところ敵無しの状態を生み出したが、開戦から8ヶ月も経つと、アメリカ軍の反撃が開始される。その第1歩はソロモン諸島のガダルカナルで、この四国ほどの島をめぐって日米両軍の死闘が続いた。この消耗戦によって、日本海軍の航空部隊の戦力は大幅に削減されてしまった。このガダルカナルの戦いは半年後、日本軍の敗北に終わるが、それ以降もあらゆる戦闘において大きな戦勝からは完全に見放される。理由の大部分は生産力を基幹とする圧倒的な国力の差であった。そして、1944年春のマリアナ沖、秋のレイテ海戦に敗れると、日本の海軍は消滅し、敗戦はもはや時間の問題となっていた。それでも当時、陸軍はかなりの兵力を維持していたので、その後、国内でも陸軍の発言力が徐々に強まり、あの悲惨な戦争の結末へと結びついていったのである。
本来国力が充実し、準備も整ってから、戦争に突入するのが国家及び、その軍隊の理想であるが、この戦争ではそれと逆な形で起こったのが、悲劇である。
特別攻撃隊とは、爆弾を抱えた軍用機や小形舟艇(震洋)、魚雷(回天)に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う特殊攻撃を行う部隊のことであるが、いずれも、生還の可能性は低いものであるが、中でも、生還のことを考えずに航空機により連合国艦艇に体当たり攻撃を実行する特攻部隊は、特攻隊また、特攻とも略されるが、相手国から恐れられた。このような兵力と兵器の減少のために、充分な抵抗をなしえなくなっていた日本の、力による最後の抵抗であった。
海軍として最初の組織的な航空機による特攻作戦を発令したのは、大西瀧治郎海軍中将である。これは1944年6月のマリアナ沖海戦で連合艦隊に一方的敗北をして、日本側はこの戦いで「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」など空母3隻、航空機約200機を失い、第一機動艦隊は海上航空戦力としての能力を著しく喪失。又、この後絶対国防圏の要ともいうべきサイパンを失ったことは日本の敗戦を決定的にした。この海戦によって日本の連合艦隊、特に空母部隊が壊滅的な損害を受け、二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。マリアナ諸島の占領に成功した米軍は、B29による日本の本土爆撃が可能となった。そして、次の攻略目標をフィリピン奪還とした。フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であった。そして、これを支援すべく、米海軍機動部隊は沖縄・台湾・フィリピン北部の基地を空爆した。それに対し、日本軍は防衛作戦の為に用意していた航空隊(精鋭のT攻撃部隊含む)をアメリカ艦隊迎撃の為に投入した。1944(昭和19)年 10月12日から16日まで行われた台湾沖航空戦で大敗した日本は、武蔵を含む戦艦3隻、瑞鶴を含む空母4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、航空機180機を喪失した。この戦いにより、従来の組織的戦闘が不可能になっていた日本軍は航空戦力活用のため、捷一号作戦遂行のため「特攻」という手段をとらざるを得なくなっていたのである。この作戦は、レイテ沖海戦において敵空母部隊の飛行甲板を一時的に使用不能とさせ、航空戦闘能力を一時的にでも喪失させることを目的に初めて実戦で行われることになった。
1944(昭和19)年 (昭和19)年10月17日、米軍はレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始。 翌18日に大本営は「捷1号作戦」を発令。この作戦ではボルネオ島ブルネイで補給を済ませた栗田艦隊がレイテ湾に突入し、米軍攻略部隊を撃滅するという計画になっていた。他に米艦隊をひきつける囮として小沢艦隊、遊撃隊として西村艦隊、志摩艦隊も参戦。そして、基地航空部隊である第一航空艦隊も作戦を支援するという目的で戦列に加わっていた。しかし、第一航空艦隊の当時の戦力は、零戦34、偵察機1、天山3、一式陸攻1、銀河2の合計約40機しかなかった。遊撃隊が米攻略部隊を撃破するためには、なんとしても米機動部隊の動きを抑えるしかなかった。その役目を第一航空艦隊が担っていたのであったが、これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた。
そして、海軍として、最初の組織的な航空機特攻作戦を発令したのは、第一航空艦隊の司令長官であった大西瀧治郎海軍中将である。
この隊名には、『神風特別攻撃隊』と命名された。名称は、元寇を追い払ったといわれる「「神風」と同様に連合軍を討つということに由来している。本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」第233号のナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ」が定着した。Kamikazeという語は、その後、諸外国において、身の危険を省みない攻撃に対する形容の言葉として定着している。
『神風特別攻撃隊』の下には、本居宣長の大和魂について詠じた、 「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」 より、4つの部隊にはそれぞれ隊名を選択し、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名付けられた。
そして、『神風特別攻撃隊』は、最初第一航空艦隊の24名が選抜 されたが、全員が第十期甲種飛行予科練習生(予科練、甲飛10期)出身で全て志願によるとされている。そしてその上に指揮官(海兵70期)1名を指名。この25名に加えて、後から甲飛以外の志願者12名が名乗りをあげたため、神風特攻隊は指揮官所属の「敷島隊」をはじめ9隊の編成となった。「この作戦限り」であったはずの特攻作戦はその後も継続されたため、これを第一神風特攻隊としてその後の特攻隊と区別している。
当初大西は、特攻隊の編成には反対の立場をとっていたといわれる。生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に作戦行動不能にして栗田艦隊のレイテ突入を支援するためには有効な戦法と判断し、それを命じたといわれている。海軍の大西が、「海軍のありかたについては、艦船を海の底に沈めて空軍省を作るべし」と主張し続けていたが、海軍の首脳が「航空機充実の必要性」に気付き計画を立てたのは「レイテ海鮮」以後のことであり、「航空は我が生命にて候」と書いた大西が、いわゆる神風特攻隊の編成を行なったことにより「特攻の父」「特攻生みの親」などという立場に立たされたのは皮肉な事である。「わが声価は棺を蓋うて定まらず」と、大西は戦野を歩きながら副官門司親徳大尉に語ったという。(週刊20世紀・アサヒクロニクル)。また、戦後の生き残ったものは、特攻隊の発案実行者はあくまでも大西瀧治郎中将であるとして全ての責任を彼に押し付けているが、もともと、特攻戦術を推進したのは伏見宮博恭王で、皇室に累が及ぶことを防ぐために大西の名前が使われたという説もあるという。
元特攻隊員の有名人には2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助等々のほか、自称特攻隊員の鶴田浩二がいる。本人は特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元整備兵であり、出撃する特攻機を見送る立場だったようで、顔が売れるにつれ同じ隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかったという。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をしたといい、この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなったそうだ。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通し、これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れたそうだ。特攻隊の経歴については、周囲の人間が宣伝の一貫で立ち上げ、それについて本人が積極的に否定せず、それに乗っかっただけというのが実情のようだという。但し、本当の「特攻隊の生き残り」よりも、本物らしく「特攻の生き残り」を演じ続け、男たちの旅路においては、このイメージが最大限に活用された。
戦後、東映京都で製作された「東映戦記シリーズ」3部作の「あゝ同期の桜 」(1967.06.03)、「あゝ決戦航空隊」(1974.09.14) 、「あゝ予科練 」(1968.06.01)、同じく東映東京製作の「最後の特攻隊」(1970.10.29)に出演し、いい味を出している。
「東映戦記シリーズ」第1作の「あゝ同期の桜 」は、毎日新聞社刊の海軍飛行予備学生十四期会編『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』を原作として四十七編の遺稿から、須崎勝弥と中島貞夫が共同でシナリオを執筆し、中島貞夫が監督したものである。「あゝ決戦航空隊」は、特攻戦術"の生みの親、大西滝治郎中将の生涯と、命令に服し散っていった特攻隊の全貌を描いた作品である。八月十五日、終戦の玉音放送。八月十六日、午前二時。大西滝治郎中将は官舎にて自刃する。「あゝ予科練 」は、南太平洋の戦雲の彼方に特攻出撃していく少年たちの夢と友情と恋などを描いたものである。又、軍用機を用いた特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成された。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による攻撃を見届けた後帰還し、戦果の報告を行った。東映オールスターキャストで描く戦争ドラマ「最後の特攻隊」では、そんな、特攻機を途中で撃墜させることなく、戦場まで送り届ける護衛部隊、直掩隊をテーマに描いた作品である。
戦中生まれの私は、これらの映画をみるとつい目が潤んでしまう。特攻隊の若い搭乗員たちは、これからの祖国の未来や、残していく自分の大切な人の運命など、さまざまな想いを抱いて特攻機に乗り込み、出撃して行った。 彼らの精神は、出撃前に遺した遺書に綴られており、現代に生きる我々に、特攻隊員たちが如何なる想いで戦って、そして命を散らせていったのかを伝えている。それらの一部は、「きけわだつみのこえ-日本戦歿学生の手記-」青年学生平和の会刊行(1949年)に収載されているし、知覧特攻平和会館(鹿児島県)等の施設にも展示されている。しかし、遺書と言う特性上(人に読んで貰うもの)、男としての意地や見栄があり、必ずしも本心とは言いきれない部分もある。また予科練出身などの下士官・兵は表現能力の問題もさることながら検閲の為、日記・遺書・手紙などで本心を書く事は出来なかった。
冒頭に述べたように、このような生還の可能性のない無謀な攻撃は、航空隊によるものだけではない。
ほとんどの特攻隊員は下士官・兵と学徒動員の士官である。海軍を例にすると下士官・兵は予科練出身であり、部隊編成上、特攻の主軸となった。そして学徒動員の士官とは飛行予備学生出身で、海軍兵学校出身の士官の温存=海軍の組織の保身を目的としていた。全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が653名と全体の85%を占めていることがそれを証明している。また募集・召集令状の紙切れ代で幾らでもスペアは国民から召集出来ると言う上層部の驕りがあったという。
1 若い血潮の予科練の /七つボタンは桜に錨 /今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ/ でかい希望の雲が湧く
2 燃える元気な予科練の/ 腕はくろがね心は火玉/ さっと巣立てば荒海越えて /行くぞ敵陣なぐり込み
3 仰ぐ先輩予科練の /手柄聞くたび血潮が疼く/ ぐんと練れ練れ攻撃精神 /大和魂にゃ敵はない
4 生命惜しまぬ予科練の /意気の翼は勝利の翼/ 見事轟沈した敵艦を/母へ写真で送りたい
『若 鷲 の 歌』(作詞:西条八十、作曲:古関裕而 )昭和18年に作られた歌であるが、私も、子どものころよく歌った歌であるが、その本心はどのようなものだったろうか・・・?
『若 鷲 の 歌』歌と歌詞↓
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/gunka/wakawasi.html
特攻作戦のような、生還の可能性の全くない軍事作戦を命じた国は、いまだかつて日本国以外にはない。そして、直接命令を下した指揮官たちは、口々に”われわれもすぐに君たちのあとを継いで飛び立つ”といっておきながら、後に続いた者はほとんどだれもいなかったという。多くの特攻隊員が手記や遺稿の裏の本当に伝えたかったことは、そのような当時の日本の指導者層の理不尽な行為ではなかっただろうか。
以下参考の「懐メロカラオケ一覧表」には、当時流行った流行歌が沢山掲載されている。興味のある人はどうぞ。
(画像は、東映東京・映画「最後の特攻隊」DVD)
参考:
特別攻撃隊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
神風特攻隊
http://eorganic.web.fc2.com/kamikazetokkoutai.html
神風KAMIKAZE TOP PAGE
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/index2.html
<神風特攻隊(特別攻撃隊)>
http://www.akimasa21.net/itidaiki/kamikaze.htm
神風特別攻撃隊Kamikaze;レイテ戦における特攻 鳥飼行博研究室
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/1944kamikaze.html
きけわだつみのこえ
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/jinnminnshouri111.html
大和魂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82
懐メロカラオケ一覧表
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/hyo.htm