今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

歌手・ 灰田勝彦 (『鈴懸の径』)の忌日

2006-10-26 | 人物
1982(昭和57)年の今日(10月26日)は、歌手・ 灰田勝彦 (『鈴懸の径』)の忌日 。
灰田 勝彦《はいだ かつひこ、本名稔勝(としかつ)》は、1911年(明治44年)8月20日、米国ハワイ州ホノルル生まれの日系ニ世。ハワイアンと流行歌で太平洋戦争前後に一世を風靡した人気歌手。映画俳優。父、勝五郎はハワイで病院を開き、貧しい現地人などの治療に当たっていたが、11歳の時、父が亡くなり帰国。
兄に、作曲家でウクレレ奏者の灰田晴彦(有紀彦)がいる。医師への道を志していたようだが、立教大学在学中に、兄晴彦が主宰したハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」のボーカルとして活躍。1934・35年(昭和9、10年)には、緑川五郎や藤田稔の名前でアルバイトで数曲をレコーディングしているそうだ。立教大学卒業後の1936(昭和11)年、日本ビクターと正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビューした。早くも1937(昭和12)年には、「雨の酒場」「真赤な封筒」などがヒットとなるが、その矢先の1938(昭和13)年に応召され、中国戦線に赴くこととなる。戦地で黄疸を患い、現地の野戦病院で静養をしていたが、1939(昭和14)年に応召を解除され、同年暮れから歌手に復帰。灰田は、歌手デビューとほぼ同時期の1937(昭和12)年に、後に東宝系となるJOスタジオと俳優としても専属契約をしており、「たそがれの湖」でスクリーンにデビューしていたが、1940(昭和15)年に「強い額に星の色、うつして歌おうよ」と軍人の帽子の星のマークを織り込んだ「燦めく星座」がヒット。また「森の小径」は特攻隊や学徒兵に愛唱されたそうだ。その後も大ヒットを飛ばし、終戦まで精力的に活躍を続けていた。
正直私など戦中生まれと言っても当時まだ子供であったし、戦前の事は、よく分からない。しかし、戦後の事はよく覚えている。戦前からのリバイバル曲「新雪」「燦めく星座」などは、よく歌ったし、1948(昭和239年大ヒットした、佐伯孝夫:作詩、服部良一:作曲「東京の屋根の下」。1951(昭和26)年の佐伯孝夫:作詩、佐々木俊一:作曲「アルプスの牧場」、同年の井田誠一:作詞、利根一郎:作曲「水色のスーツケース」と続いてヒットした灰田らしい明るい歌が大好きだ。また、映画では、喜多川千鶴、水の江滝子などの「花くらべ狸御殿」(昭和24年)、高峰秀子、笠置シヅ子等との「銀座カンカン娘」(昭和24年)、」水ノ江瀧子、暁テル子等との「狸銀座を歩く」(昭和25年)などミュージカル的な歌謡映画に数多く出演している。私などこのような明るいミュージカルが大好きだったのでわくわくしながら見ていた。又、なんと言っても灰田は、大の野球好きで、王貞治にアドバイスをするほどだったというが、「歌う野球小僧」(昭和26年)は、上原謙、笠置シズ子らの共演により大ヒットし、佐伯孝夫:作詩、佐々木俊一:作曲の主題歌「野球小僧」は灰田勝彦のテーマソングにもなった。ステージの最後には「野球小僧」を歌い、自分のサインボールを客席に投げる事が楽しみだったという。
民間放送が設立されると、放送におけるコマーシャルソングが盛んに作られたが、その第一号である小西六フィルム(現コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」を歌ったのも灰田勝彦であった。戦前の歌はともかく戦後の灰田の歌は本当に明るく大好きだった。
友と語らん 
  鈴懸の径
  通いなれてる 
  学校(まなびや)の街
佐伯孝夫:作詩、灰田有紀彦:作曲 「鈴 懸(すずかけ) の 径(みち)」・・・この歌は、戦前の1942(昭和17)年、2歳年上の兄灰田晴彦(有紀彦)の作曲である。鈴懸はプラタナスのことで、日本には明治の初めに渡来し、街路樹として各地で植えられた。立教大学前の通りにも植えられており、この歌は、それをイメージしてつくられたという。これはキャンパスフォークの走りということになるが、しっくりとしたいい曲ですよね。本当に綺麗な曲で私の大好きな「水色のワルツ」(作詩:藤浦洸、作曲:高木東六。歌:双葉あき子昭和25年)とともにハーモニカなどとともによく吹く曲になっている。
1982(昭和57)年、多くの人に惜しまれつつ、71歳で死去。 懐かしい歌手の1人だよね。
(画像は灰田勝彦・全曲集。)
参考:
灰田勝彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%BD%A6
灰田勝彦 (ハイダカツヒコ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/106387/index.html
懐かしい歌カラオケ索引
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/50.html

世界パスタデー

2006-10-25 | 記念日
今日(10月25日)は、「世界パスタデー」
1995(平成7)年10月25日、イタリア・ローマで「第1回世界パスタ会議」が開催されたことに端を発し、イタリアパスタ製造業者連合会を中心に、世界各国のパスタ業者の連合会や協会によって構成された「運営委員会」が、パスタの魅力を広くメディアや消費者にアピールすべく、1998年以来、毎年10月25日に「世界パスタデー」を祝うことになったという。日本ではまだ浸透しておらず、日清製粉グループの日清フーズが昨2005年、片岡シェフ・日シェフ・マリオシェフを招いて開催したイベント『日清フーズ エンジョイパスタ!パーティ2005』が事実上国内初のイベントとなるそうだ。今年も10月11日(水)から12月11日(月)まで、全国7都市で合計11回開催致しているそうだ。 (日清製粉グループ:企業情報:ニュースリリースより)
パスタ (Pasta) とはイタリア料理で使われる小麦を加工した食品全般を指す。イタリア語の "pasta" は厳密には "pasta alimentare" と言い、直訳すれば「食用ペースト」の意味があるそうだ。広義では粉物全般を表し、パン、ケーキ及びそれらの生地なども含まれる。そのため麺類に限ってあらわす場合は pastasciutta とすることもある。日本では、スパゲッティなどの麺類やマカロニ、板状のラザニアなどを呼ぶことが一般的。
このパスタの主な原料は小麦粉で、イタリアでは、パスタに使う小麦はデュラムセモリナ100%でなければならないと法律により決められているそうだ。デュラムセモリナのデュラムは小麦の種類で、デュラムは「硬い」、セモリナは「あら挽き」という意味だそうであり、その名の通り非常に粒が硬く、細かく粉砕することが困難なため、粗挽き(セモリナ)加工して使用する。普通小麦(パン小麦)と比較して黄色みが強く、たんぱく質の含有量が多いのが特徴。。
日本パスタ協会HPなどによると、冒険家マルコ・ポーロが1295年頃に中国から麺類を持ち帰ったのが、スパゲッティのはじまり」とか、「イタリアにはそれ以前からマカロニがあった」とか、イタリアでのパスタの起源に関する説はいろいろあるそうだが、とにかく、現代のようにソースとからめて食べるパスタ料理がイタリアに普及しはじめたのは、17世紀のトマトとの出会いがきっかけだったそうだ。(トマトは16世紀、クリストファー・コロンブスが南米から持ち帰ったのがヨーロッパへ伝わった最初とされ、当時スペインやイギリスなどでは毒があるとされ、観賞用とされていたそうだ。イタリアでは食料が少なかったため食用とされたという。そして、17世紀半ばを過ぎるころから、パスタ料理はイタリアから世界に広がっていった。
18世紀初めまでは、スパゲッティは民衆の食べもので、チーズだけをかけて手で頭上にかざして下から食べるものだったそうだ。1770年代、庶民の風俗を深く愛したナポリ国王フェルディナンド4世が宮廷で毎日スパゲッティを供することを命じた。しかし上記のような民の作法がハプスブルク家出身の王妃マリア・カロリーネ (Maria Caroline。有名なマリー・アントワネットのすぐ上のお姉さん) に承認されるはずもなく、賓客がより上品にスパゲッティを食べられるように、料理長ジョヴァンニ・スパダッシーノ(Giovanni Spadaccino)に命じて、もともと口に運ぶものでなく料理を取り分けるためにあったフォークを食器として使わせた。このとき先が長く三本だったフォークをもとにして、口に入れても安全でスパゲッティがうまくからむ様に先を短く四本にしたフォークが発明されたといわれている。そして、19世紀半ばまでにはパスタをトマトソースで食べる食べ方が普及したのだという。
以下参考の「外食マーケットにおけるパスタ商品の歴史と展望」(執筆者:入江直之)によると、一人あたりのパスタ消費量から言えば、当然イタリアが1位、次いで米国。国別の消費量では米国が1位。しかし、パスタの味へのこだわりから言えば、日本は「イタリアの21番目の州」と言われるほどだという。
しこしこした歯ごたえが残る状態を指す「アルデンテ」(Al dente= ゆで上げたパスタの真ん中に少し芯が残る状態のことを言う)を理解できるのが日本人だということで、イタリアの次に美味しいのは日本のパスタという意見もあるそうだ。
日本ではパスタは、イタリア料理を代表する料理と考えられ、特にスパゲッティは代表的なものとして知られている。
一般化したのは、イタリアから全自動式パスタ製造機が輸入されるようになった昭和30年(1955年)代以降のこと。そのころの国産パスタは、日本人の味覚や食感の好みに合わせて、複数の小麦粉をブレンドして作られていたが、やがて、海外旅行に出かける人が増えたり、イタリアンレストランのブームなどで日本人のパスタの好みも変わり、昭和61年(1986年)頃からデュラム・セモリナ100%の国産パスタが家庭でも使われるようになった。そしていまやパスタは、私たち日本人の家庭料理としても楽しまれている食材となった。
日本の1970年代のパスタ商品は、いわゆるケチャップ和えである「ナポリタン」と、「ミートソース」が2大定番商品であった。しかし、その後、「スパゲティ専門店」と呼ばれる業態が次々と生まれ、人気を集め始めた。スパゲティ専門店には、大きくふたつの流れがあったようで、ひとつは「カルボナーラ」や「ボンゴレ」「ペスカトーレ」「バジリコ」といった、イタリアのパスタを日本風にアレンジした新商品を揃える洋食系スパゲティ専門店であり、もうひとつは、日本の素材や味付けを加えた「和風スパゲティ」という新しいカテゴリーを生み出したスパゲティ専門店である(「壁の穴」や「五右衛門」などの進出)。そして、タラコやしょうゆ味、スープスパゲティなど、日本独自の食べ方も生まれた。一方、最近は、ナポリタンやミートスパゲティはあまり見かけなくなり、今、代表的なソースといえばニンニク、タマネギなどとトマトを煮たトマトソースと、もう一つはバター、牛乳、小麦粉などで作るホワイトソースをベースにしたクリームソースだという。
思い出せば、私が大阪から東京の会社へ転職した昭和30年代後半、転職先の仕事仲間に、最近スパゲティー屋さんが出来たので、食べに行こうと誘われて食べに行ったのが私にとってのスパゲティーの食べ初めだったな~。それ以来、特に嫌いでもないから、時々は食べるが、私には、麺物なら、うどんやそーめん、そばといった和物の麺の方があっているので、スパゲティーを単独で食事として食べるのは、月に一度くらいな~。それに種類も、ナポリタンかミート、また、めんたいスパゲティーと、今年の夏に初めて作った、冷やして喰べる夏用のスパゲティーくらいのもの。この新しく覚えた夏用のスパゲティーは、茹でたなすびとツナ缶などを材料に使ったスパゲティーだが、あっさりと食べれるので、これが今のところ一番のお気に入りかな・・。夏ではないが、1週間ほど前にも冷やさずに食べたが美味しかったな~。でも、年をとってくると、年々さっぱりとしたものの方が良くなり、ますます日本のソバやうどんを喰べることの方が多くなるよ。
(画像はスパゲティー「ナポリタン」)
参考:
パスタ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%BF
日本パスタ協会
http://www.pasta.or.jp/
外食マーケットにおけるパスタ商品の歴史と展望
http://www.food-pac.com/bunken/bunken008.html
マリア・テレジアの子供たち
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-58.htm
10月25日は「世界パスタデー」
http://www.sun-inet.or.jp/~tritone/tri204.htm


国連デー

2006-10-24 | 記念日
10月24日「国連デー」(United Nations Day)
国際デーの一つ。1948(昭和23)年から実施。
国際連合」(United Nations)とは、国際連合憲章の下に設立された国際機構である。世界の平和と経済・社会の発展のために協力することを目的とする。略称は「国連」。
国際連合は、第2次世界大戦中から、国際平和を維持し得なかった国際連盟
、にかわる新たな国際機構を設立する構想があり、1945年4月から6月にかけて行われたサンフランシスコ会議で国際連合(国連)憲章が起草され、6月26日に調印された。第二次世界大戦時の戦勝国である連合国(United Nations)が中心となって、同・1945(昭和20)年10月24日に、国連憲章が発効し、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコで国連が正式に発足した。最初の加盟国は51ヶ国だった。
日本はサンフランシスコ講和条約が発効して、占領状態が終結した1952年に加盟申請をした。だが、時は冷戦の最中であり、ソ連をはじめとする社会主義陣営の反対によってなかなか加盟の実現には至らなかった。1956(昭和31)年、日ソ共同宣言によって日ソの国交が回復するとこうした障害もなくなったため、12月18日に80番目の加盟国として国連に加盟した。以降、経済社会理事会の理事国を1960(昭和35)年以来14期(1982年以降は連続して再選)務め、また安全保障理事会非常任理事国としてブラジルと並んで最多の9回選出されている(9回目の任期は2005年1月から2年間、2005年8月、2006年10月には議長国となる)等、積極的に国連に貢献している。又、中島宏、明石康、緒方貞子ほか、国連の幹部職員として活躍した日本人も少なくない。
2006年6月末現在、国際連合の加盟国数は、192ヶ国。最も最近加盟したのは、モンテネグロ(2006年6月28日加盟)である。国際連合の本部は、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市にある。
日本の外交の中軸は日米同盟と国連中心主義の二本立てあり、国連を中心として多国間外交を行ってきており、国際的な安全保障は国際連合の集団安全保障体制に依存している。(日本国憲法の枠内で)。武力に頼らず経済的な成功によって大国となったことと、自国の都合で国際連合を軽視する他の超大国と異なり国際的な機構に参加し、分担金も加盟国中2番目の額を負担しているが、未払いの国(第1位の米国など・・国連の財政参照)がある中、遅滞なく払い込んでいることから、国際連合内では一定の信頼を得ている。しかし、国連の目的は諸国の行動の調整をすることであって、分担金に応じた国益の優先付けを行なう機関ではない。そして、国連の行動の中立性を保つために、国連予算の分担金は特定の国が突出しないように、各国の国民所得に様々な要素を加えて評価され、支払いを行う各国の相対的な負担能力に基づいて計算され、上限が設けられているとは言うものの、分担金を多く負担させられている、米国や、日本の意見が通らない事に、矛盾もある。そのようなこともあり、日本はかねてから安全保障理事会の常任理事国となることを目指していたが、2004年から2006年にかけて、常任理事国入りへ大きく動いた。その理由として、日本は常任理事国となって国際的な発言力を強めたいという面もあるが、もう一つの大きな理由としては、非常任理事国は選挙によって選出されるため、財政面においても毎回の選挙に莫大な資金を要するらしく、これが、かなり大きな負担となるがそのため、選挙といった手順の無い恒久的な存在である常任理事国となりたいという裏の本音もあるようだ。
しかし、日本は核兵器の不保持や平和憲法による武力行使否定が国是であるため、他の常任理事国のような国際紛争への武力介入をすることはできない。さらに、戦後の日本の外交がアメリカ追随的であり、独自の態度を見せない日本が常任理事国になったところで、アメリカが常に二票持つ事になるだけ」と批判する声もある。その一方、PKO(平和維持活動)には限定的に日本は参加しており、むしろ、経済大国でありながら、他国と異なって武力を用いない独自の態度を高く評価している国もあるが、最終的には、加盟各国の利害がかみ合わず、国連改革の遅れなどから加入は棚上げとなってしまった。
国連の事務総長には、1997年1月よりガーナコフィー・アナン氏が選ばれていたが、2006年12月に任期満了となることから、2006年10月13日に行われた安全保障理事会では、満場一致で韓国の潘基文が支持され、第8代事務総長への就任が内定した。アジア出身の事務総長はビルマ(現ミャンマー)出身の第三代ウ・タント氏以来、約35年ぶり二人目だ。 選出に関しては、国連での圧倒的な影響力を持つ米国の後押しもあったようだが、外交の能力や実績もあるようだし、、温厚な人柄とともに、順当な選出といわれている。国連では、戦争や紛争、環境や貧困など世界のありとあらゆる問題に取り組まなければならず、しかも、192の加盟国を相手に公平公正な手綱さばきが求められ、世界で最も難しい仕事」とされているが、やはり、いま、国連が取り組むべき大きな課題は安全保障理事会の拡充強化ほかの国連改革(以下参考の外務省: 国連改革参照)であろう。
しかし、当面の緊急課題は何といっても北朝鮮の核問題への対応であろう。安全保障理事会の警告にもかかわらず核実験を強行した北朝鮮に対し、国連憲章・七章(平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動 )に基づいた制裁決議案が採択されることとなった。しかし、北朝鮮の態度は、頑なであり、又、中国、ソ連など国連加盟国の履行義務遂行にはかなりの温度差があり、なにか、北朝鮮の時間稼ぎが功を奏している嫌いがある。
今後どういう経過をたどるか予断を許さないが、朝鮮半島をめぐる緊張が極度に高まった時期に、お隣り、韓国の潘氏が事務総長に内定したのは運命のいたずらかもしれない。潘氏は国連大使や駐米公使などを歴任し、外交官として35年以上の実績があり、アメリカと太いパイプを持つ人物として知られているようである。日本も小泉政権から安部政権になり、日中関係、日韓関係も改善の兆しをみせている。日、米,中,韓、それにロシア等、それに、国連の各国が国のエゴを超えて、手を組み一丸となって、北朝鮮に対処しないと、北朝鮮は、国民も何もかも犠牲にして暴走しかねないが、これが単に北朝鮮問題だけでなく、第2の中東戦争、いや、今や、それ以上の世界戦争へと発展しかけねない危険性を孕んでいる。それ程、危険な状況にあるといえるだろう。正に、寄り合いの国連加盟国が、自国の利害を超えて、世界平和のために、一致して、どれだけの使命が果たせるのか・・・、試される時がきたといって良いだろう。
(画像は、國際連合旗。フリー百科事典Wikipediaより)
国際連合広報センター
http://www.unic.or.jp/
国際連合 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88
集団安全保障 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C
日本と国連 (外務省HP)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jp_un/index.html
外務省: 国連改革
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_kaikaku/index.html
Sankei Web ニュース特集 北朝鮮核実験
http://www.sankei.co.jp/special/newsspe/0022/index.htm
asahi,com
http://www.asahi.com/


「ブルータスよ、お前もか!」で知られる古代ローマの政治家「ブルータス」の忌日 」

2006-10-23 | 人物
BC42年の今日(10月23日 )は「ブルータスよ、お前もか!」で知られる古代ローマの政治家「ブルータス」の忌日 」<43歳>
私は、この頃の歴史には弱いので「ブルータス」で、知っている事と言えば、シェークスピア劇「ジュリアス・シーザー」に出てくるあの有名な言葉「「ブルータスよ、お前もか!」くらいのものである。私らが「ブルータス」と言っているのは、シェークスピア劇にしたときの英語読みであり、ラテン語読みでは「ブルートゥス」。「ジュリアス・シーザー」も英語読みで、ラテン語読みでは、「ガイウス・ユリウス・カエサル」となるらしい。このなかのカエサルというのは固有名詞であるとともに皇帝の意味の一般名詞でもあると言う。
私は、ブルータスの事などほとんど知らないので、以下、「フリー百科事典Wikipedia」に記載のものをそのまま引用してみよう。
マルクス・ユニウス・ブルートゥス(Marcus Junius Brutus, 紀元前85年 - 紀元前42年)は、共和政ローマ末期の政治家。ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺の首謀者の1人である。
母はガイウス・ユリウス・カエサルの愛人セルウィリア。早くに父を失い、叔父小カトーの影響を受けて育つ。紀元前49年に始まる内乱では大ポンペイウス側につくが、パルサロスの戦いの後、赦免されてローマ政界に復帰、彼が暗殺の陰謀に加わったのは、ガイウス・ユリウス・カエサルが終身の独裁官(ディクタトル)となったからだといわれる。暗殺後は東方属州に退いてカエサル派に対抗したが、ピリッピの戦いに敗れ、自決した。”・・・とある。詳しくは、同引用文の中のリンク先を見られると良い。
「シェークスピア劇の中には数々の名セリフが出てくるが代表的なものに、この「「ブルータスよお前もか!」がある。ただ、シェークスピアの英語劇の中でもこの名セリフだけは、ラテン語で言われているそうだ。
シェークスピア劇では、シーザーは、紀元前44年3月15日、腹心のブルータスと陰謀家カシアス(カシウス)一味に襲われ殺されてしまう。シーザーはブルータスの人柄を愛して最大の信頼を与え、ブルータスもシーザーを敬愛し、最高の能力を発揮して信頼に応えていたという。ところが理想主義者であったブルータスはシーザーの独裁専制的やり口に次第に批判的になり、何時しかシーザーの権勢を面白く思わないカシアス一味のシーザー暗殺陰謀に加担し首謀者にまつり上げられてしまう。運命の日、陰謀の噂や予兆からシーザーの身を気遣う家族や家臣の制止を振り切ってシーザーは出かける。シーザーが議事堂に入ろうとするところを一味のものが取り囲んで次々と刺し、最後にブルータスが止めの剣を振るう。その時にシーザーが発した最後の言葉がラテン語での“Et tu,Brute“である。
以下参考に記載の「松澤喜好の語源の扉・番外編:日本語とラテン語は同じ仲間」によると、意味は、「Et(and) tu(you), Brute(ブルータス よ)」だという。どうして、ブルータスを「Brutus」とつづらないで、「Brute」にしたかについての詳しくは、同ブログを見るとよいが、ラテン語の名詞には格変化が6種類あり、その中で、「Brutus 」主格、(ブルータスは=主語 )に対する「Brute」は呼格 (ブルータスよ=呼びかけ )になるのだという。最大の信頼を寄せていたブルータスを一味の中に見出した時のシーザーの驚きや悲しみ、無念さや絶望感は計り知れないものがあったに違いない。英訳の「 And, you, Brutus! 」とするよりも強く印象に残る。シェークスピアは、これらの全てをこの短い言葉に凝縮し耳に響く、効果をラテン語を使って、演出したのであろう。
ブルートゥス (Brutus) は、古代ローマの家族名で、以下のルキウス・ユニウス・ブルートゥス 、マルクス・ユニウス・ブルートゥス 、デキムス・ユニウス・ブルートゥス の3名の人物が著名なブルートゥス家の人物として知られているそうだが、ただ、英語読みで単に「ブルータス」といった場合ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺の首謀者のマルクス・ユニウス・ブルートゥスを指す場合が多いが、塩野七生はカエサルの叫んだ「ブルータス」はマルクス・ブルートゥスではなく、彼の従兄弟でカエサルの腹心であったデキムス・ユニウス・ブルートゥスを指しているとしているそうで、この説をとる研究者は他にも結構いるらしい。
シーザーはこのデキウス・ブルータスをかっていたが、従兄弟のマルクス・ユニウス・ブルートゥスとカシウスらが首謀したカエサル暗殺に加担し、ポンペイウス劇場でのカエサル刺殺にも参加したが、カエサルの遺言状が公開されると、カエサルの妹の孫にあたるオクタビアヌスが後継者指名を辞退した場合の相続人に指名されていたことを知り、深く後悔したと言われているそうだ。
又、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の名セルフ「ブルータス!お前もか!」は、出典であるスエトニウス『ローマ皇帝伝』(「カエサル」(Divus Iulius)、82)では「我が子よ、お前もか!」となっているという。
ずば抜けた能力を持つカエサルの周囲には若くて前途のある優秀な青年が集まっていて、その中にブルータスもいた。そして、カエサルには多くの愛人がいたが、実の息子としてカエサリアン(美人で有名なクレオバトラとの間に出来た子供)とか甥のオクタビアヌスとかもいるが、ことさらブルータスを可愛がっていた。一説によると、カイアスはブルータスが生まれた頃、彼の母親(セルウィリア=カイアスの愛人)と熱烈な恋仲にあった。そのため、ブルートゥスが実際にカエサルの息子であったか否かは判らないが、カエサル自身はブルータスを自分の子供だと信じていたふしがうかがえるそうだ。
そのように実の子供のように可愛がり、信頼していたブルータスでさえ、暗殺者の仲間に入っていたのだから、彼の驚きと裏切られたという思いは本当に大きかっただろうね~。
もし、そうであれば、「我が子よ、お前もか!」・・・・この思いのほうが強かっただろうね。
近年、日本の家庭の崩壊が言われだして久しいが、この頃は、自分の子どもを殺す親や、悩んだ末に、自分の親を殺す子どもも珍しくなくなってきた感がある。本当に死んだ子どもや親にとっては、「親父(おふくろ)よ、お前もか!」「息子よ、お前もか!」といいたいところだろう。いや、今日この頃では、余りにも頻繁にあり、こんな驚きの言葉は、陳腐化してしまったかもしれないね~。「なんだ、!親父(おふくろ、息子)よ、人真似ばっかり、すんなよ~!」・・・といいたところだろうかね~。

日本初のカラー長篇アニメ『白蛇伝』が封切られた日

2006-10-22 | 歴史
1958(昭和33)年の今日( 10月22日)は、日本初のカラー長篇アニメーション『白蛇伝』が封切られた日ある。
コマ撮りによる、アニメは、19世紀末にイギリスのアーサー・M・クーパーが作ったCMが元祖と言われているらしいが、一般にいうアニメは、トーキー以後のアメリカのフライシャー兄弟(架空の少女キャラクターベティ・ブープで知られている)と、ウオルト・ディズニーの登場からで、特に娯楽志向のディズニーの作品は圧倒的な支持を得た。ミッキーマウスの短編や「白雪姫」(初の長編アニメ)、「ピノキオ」から、最新作「カーズ」(ピクサー共作)まで、今もアニメ映画の原点に君臨している。
日本の劇場用アニメ映画の歴史も古く、1916(大正5)年から始まる下川凹天(おうてん、または、へこてん)、北山清太郎、幸内純一郎の3人の漫画家、画家が手がけたペーパーアニメーションと切紙アニメーションが日本の最初期に制作されたアニメーションとされているそうだ。
1914(大正3年)年4月15日、イギリスのアニメIsn't It Wonderful?を、「凸坊の新画帳」と邦訳して公開されたのが、日本で最初に封切られたアニメ映画だそうである。
これに刺激を受けた日本の映画会社はその研究に乗り出し、1915(大正4)年、日活向島撮影所が洋画家の北島清太郎を迎え入れ、アニメ映画の研究を開始する。翌1916(大正5)年、天活(天然色活動写真株式会社)は漫画家の下川凹夫を迎え入れ研究を開始する。さらに小林喜三郎が設立した小林商会は、漫画家の幸内純一を迎え入れ(下川凹夫と幸内純一は日本近代漫画の父である北沢楽天の弟子)、製作を開始する。この3社による競争となったが、1917(大正6)年1月、天活の「芋川椋三玄関番之巻」が国産アニメ映画の第1号となった。遅れること数ヶ月後の5月、日活の猿蟹合戦が公開。6月に小林商会の塙凹内名刀之巻が公開された。
セルアニメーションの導入が遅れた日本では切り紙アニメーションが発達し、この分野では大藤信郎賞にその名を残す大藤信郎が国際的な評価を得た。セルアニメーションでは1943(昭和18)年には政岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』などがある。
第2次世界大戦を迎えると、それまで個人工房により乏しい予算で小規模に行なわれて来た日本のアニメーション制作に対して、軍部より予算が投下され、戦時色の強い国威発揚的な内容ながら、瀬尾光世の『桃太郎の海鷲』(1942年)、『桃太郎 海の神兵』(1945=昭和20年、松竹動画研究所 白黒)といった作品が制作される。後者は日本初の長編アニメーション(上映時間は74分)と位置付けられている。日本において、娯楽色の強いアニメーション映画が普及したのは、東映動画が登場する1960年代になってからである。東映動画の誕生をもって、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
その第1作が日本最初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(はくじゃでん)である。
この『白蛇伝』が作られるきっかけとなった映画には、『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)がある。池部良山口淑子八千草薫らが出演したこの実写映画は、中国の説話・『白蛇伝』を題材にしていた。そして、この映画は香港で興行的に大成功を収め、これを受け、『白夫人の妖恋』をアニメ化する企画が、香港の映画界から東映に持ち込まれた。
当時の東映社長、大川博が、日本においても大きな興行収益を上げていたディズニー映画のような、劇場用長編アニメーション作品の制作を日本で独自に行うことを構想していたときに、香港からこの映画の製作を持ちかけられたのである。これがきっかけとなり、大川は、香港の下請けとしてでなく、独自の本格的なアニメ映画をつくることを考え始めた。当時大きな興行収益を上げるアニメはディズニー映画のみだったが、日本においてアニメ映画製作の体勢を整えていけば、将来大きな産業になるのではないかという、鉄道省の役人から東急の専務、そして東映の社長へと叩き上げてきた大川の、経営者としての予測もあったようだ。
2時間規模のカラーアニメ映画を目指し、東映の教育映画部が中心となって『白蛇伝』の企画がスタートした。しかし、この当時の日本には、アニメを制作する会社は影絵動画を含めてもごく少なく、そのいずれもが僅かの社員を抱えるのみの小会社であり、長編アニメ映画制作のシステムがなかった。そのような、アニメーションの専門家と言える人材がいない状況で、2時間規模のカラーアニメをつくろうとするこの試みは、当時の常識から考えて極めて無謀とも言えた。
東映は、動画会社の吸収、短編動画の制作、動画スタジオの建設、スタッフ養成など、数年がかりでアニメーション制作の体勢を整えつつ、その集大成として長編アニメ『白蛇伝』を完成させるという大がかりな計画を立てた。そして、 1957(昭和32)年6月末、『白蛇伝』の制作が正式に記者発表され、計画立案から2年がかりで作りあげた。
映画の内容は、白蛇の化身と、その恋人許仙の愛を綴る中国の民話「白蛇伝」を骨子としたもので、構成・美術は岡部一彦・橋本潔、脚本・演出は、それまで東宝教育映画部で短編アニメを製作していた藪下泰司、撮影は塚原孝吉である。製作は東映動画。配給は東映。公開日は1958(昭和33)年10月22日の今日であった。
声の出演者は森繁久弥宮城まり子。彼らの台詞を劇作家の矢代静一が執筆。他に、人物の動きをトレースしてアニメ化する手法「ライブアクション(Live Action )」のために、水木襄、松島トモ子や、当時東映に入社したばかりの佐久間良子らが起用されているそうだ。1960年代、『白蛇伝』(1958年)を筆頭に、『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんわん忠臣蔵』(1963年)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)、『空飛ぶゆうれい船』(1969年)、『長靴をはいた猫』(1969年)、『海底3万マイル』(1970年)、『どうぶつ宝島』(1971年)など、日本は年に1本から2本のペースで長編アニメが制作されるというアニメではアメリカに次ぐ存在となった。
しかし、1970年代に入るとこのころ人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作におされ、長編作品の制作は縮小されていくようになる。制作の中心はテレビシリーズへと移り劇場作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となって東映長編時代は終焉を迎える。制作本数の増加で1973(昭和48)年からは韓国への制作委託を開始。海外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。結果として自社で抱えていたクリエーターの多くがこれらの合理化で他のプロダクションなどへと移るなどして東映を去った。
だが、東映動画の制作に携わったスタッフ達は、その後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていった。また、宮崎駿のように、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなった人物もいたのである。
東映の大川博と言う人は、ディズニーのように、「海外進出」を目論んでいたといわれ、『白蛇伝』の映画の予告編のなかに、みずから登場し、「私は……東洋のディズニーになります!」と演説をしたと言われている。今や日本のみならず世界を代表するアニメの製作者となった宮崎駿の『千と千尋の神隠し』は2002(平成14)年にはベルリン国際映画祭で金熊賞を、翌年にはアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞するなど海外でも高く評価されている。今年(2006年)には、ハリウッド最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前にも選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退したが、それ程の売れっ子となっているのである。
日本長編映画が、アカデミー賞を取るなんていうのは、大川氏の大きな野望の延長線上に起きた出来事といえるだろうし、そのことを一番喜んでいるのは、彼かもしれない。
2006年の今年、東映と東映アニメは、東映アニメーションの創立50周年を記念して、「Movie Circus」(ムービーサーカス)および「東映アニメBBプレミアム」の2サービス共同企画として、「東映アニメーション創立50周年特別企画 劇場長編漫画映画の魅力」と題して、東映動画(当時)初期のオリジナル劇場長編漫画映画の名作「白蛇伝」(78分)、「西遊記」(88分)、「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」(81分)、「長靴をはいた猫」(80分)、「ながぐつ三銃士」(53分)、「長靴をはいた猫 80日間世界一周」(68分)の6作品を特集配信している。興味のある人はこの機会に見たら・・・。
MovieCircis東映アニメ50周年特別企画 ↓
http://www.showtime.jp/cinema/movie_circus/50anime/
(画像は、『白蛇伝』TOEI ANIMATION)
参考:
アニメーション映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E6%98%A0%E7%94%BB
アニゲノム~日本動画興亡史~
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hot/anime/01_05/content.html
白蛇伝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%9B%87%E4%BC%9D
ジブリの挑戦】宮崎駿の原点「白蛇伝」
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_challenge_20040810.htm
MovieCircis東映アニメ50周年特別企画
http://www.showtime.jp/cinema/movie_circus/50anime/
東映アニメーション
http://www.toei-anim.co.jp/
白夫人の妖恋 (1956)- goo 映画 昭和31年
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24792/index.html
京劇・白蛇伝(1)~(3)
http://tuziblack.hp.infoseek.co.jp/page170.html
『白蛇伝』TOEI ANIMATION
http://www.toei-anim.co.jp/lineup/movie/hakujaden/