1982(昭和57)年の今日(10月26日)は、歌手・ 灰田勝彦 (『鈴懸の径』)の忌日 。
灰田 勝彦《はいだ かつひこ、本名稔勝(としかつ)》は、1911年(明治44年)8月20日、米国ハワイ州ホノルル生まれの日系ニ世。ハワイアンと流行歌で太平洋戦争前後に一世を風靡した人気歌手。映画俳優。父、勝五郎はハワイで病院を開き、貧しい現地人などの治療に当たっていたが、11歳の時、父が亡くなり帰国。
兄に、作曲家でウクレレ奏者の灰田晴彦(有紀彦)がいる。医師への道を志していたようだが、立教大学在学中に、兄晴彦が主宰したハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」のボーカルとして活躍。1934・35年(昭和9、10年)には、緑川五郎や藤田稔の名前でアルバイトで数曲をレコーディングしているそうだ。立教大学卒業後の1936(昭和11)年、日本ビクターと正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビューした。早くも1937(昭和12)年には、「雨の酒場」「真赤な封筒」などがヒットとなるが、その矢先の1938(昭和13)年に応召され、中国戦線に赴くこととなる。戦地で黄疸を患い、現地の野戦病院で静養をしていたが、1939(昭和14)年に応召を解除され、同年暮れから歌手に復帰。灰田は、歌手デビューとほぼ同時期の1937(昭和12)年に、後に東宝系となるJOスタジオと俳優としても専属契約をしており、「たそがれの湖」でスクリーンにデビューしていたが、1940(昭和15)年に「強い額に星の色、うつして歌おうよ」と軍人の帽子の星のマークを織り込んだ「燦めく星座」がヒット。また「森の小径」は特攻隊や学徒兵に愛唱されたそうだ。その後も大ヒットを飛ばし、終戦まで精力的に活躍を続けていた。
正直私など戦中生まれと言っても当時まだ子供であったし、戦前の事は、よく分からない。しかし、戦後の事はよく覚えている。戦前からのリバイバル曲「新雪」「燦めく星座」などは、よく歌ったし、1948(昭和239年大ヒットした、佐伯孝夫:作詩、服部良一:作曲「東京の屋根の下」。1951(昭和26)年の佐伯孝夫:作詩、佐々木俊一:作曲「アルプスの牧場」、同年の井田誠一:作詞、利根一郎:作曲「水色のスーツケース」と続いてヒットした灰田らしい明るい歌が大好きだ。また、映画では、喜多川千鶴、水の江滝子などの「花くらべ狸御殿」(昭和24年)、高峰秀子、笠置シヅ子等との「銀座カンカン娘」(昭和24年)、」水ノ江瀧子、暁テル子等との「狸銀座を歩く」(昭和25年)などミュージカル的な歌謡映画に数多く出演している。私などこのような明るいミュージカルが大好きだったのでわくわくしながら見ていた。又、なんと言っても灰田は、大の野球好きで、王貞治にアドバイスをするほどだったというが、「歌う野球小僧」(昭和26年)は、上原謙、笠置シズ子らの共演により大ヒットし、佐伯孝夫:作詩、佐々木俊一:作曲の主題歌「野球小僧」は灰田勝彦のテーマソングにもなった。ステージの最後には「野球小僧」を歌い、自分のサインボールを客席に投げる事が楽しみだったという。
民間放送が設立されると、放送におけるコマーシャルソングが盛んに作られたが、その第一号である小西六フィルム(現コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」を歌ったのも灰田勝彦であった。戦前の歌はともかく戦後の灰田の歌は本当に明るく大好きだった。
友と語らん
鈴懸の径
通いなれてる
学校(まなびや)の街
佐伯孝夫:作詩、灰田有紀彦:作曲 「鈴 懸(すずかけ) の 径(みち)」・・・この歌は、戦前の1942(昭和17)年、2歳年上の兄灰田晴彦(有紀彦)の作曲である。鈴懸はプラタナスのことで、日本には明治の初めに渡来し、街路樹として各地で植えられた。立教大学前の通りにも植えられており、この歌は、それをイメージしてつくられたという。これはキャンパスフォークの走りということになるが、しっくりとしたいい曲ですよね。本当に綺麗な曲で私の大好きな「水色のワルツ」(作詩:藤浦洸、作曲:高木東六。歌:双葉あき子昭和25年)とともにハーモニカなどとともによく吹く曲になっている。
1982(昭和57)年、多くの人に惜しまれつつ、71歳で死去。 懐かしい歌手の1人だよね。
(画像は灰田勝彦・全曲集。)
参考:
灰田勝彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%BD%A6
灰田勝彦 (ハイダカツヒコ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/106387/index.html
懐かしい歌カラオケ索引
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/50.html
灰田 勝彦《はいだ かつひこ、本名稔勝(としかつ)》は、1911年(明治44年)8月20日、米国ハワイ州ホノルル生まれの日系ニ世。ハワイアンと流行歌で太平洋戦争前後に一世を風靡した人気歌手。映画俳優。父、勝五郎はハワイで病院を開き、貧しい現地人などの治療に当たっていたが、11歳の時、父が亡くなり帰国。
兄に、作曲家でウクレレ奏者の灰田晴彦(有紀彦)がいる。医師への道を志していたようだが、立教大学在学中に、兄晴彦が主宰したハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」のボーカルとして活躍。1934・35年(昭和9、10年)には、緑川五郎や藤田稔の名前でアルバイトで数曲をレコーディングしているそうだ。立教大学卒業後の1936(昭和11)年、日本ビクターと正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビューした。早くも1937(昭和12)年には、「雨の酒場」「真赤な封筒」などがヒットとなるが、その矢先の1938(昭和13)年に応召され、中国戦線に赴くこととなる。戦地で黄疸を患い、現地の野戦病院で静養をしていたが、1939(昭和14)年に応召を解除され、同年暮れから歌手に復帰。灰田は、歌手デビューとほぼ同時期の1937(昭和12)年に、後に東宝系となるJOスタジオと俳優としても専属契約をしており、「たそがれの湖」でスクリーンにデビューしていたが、1940(昭和15)年に「強い額に星の色、うつして歌おうよ」と軍人の帽子の星のマークを織り込んだ「燦めく星座」がヒット。また「森の小径」は特攻隊や学徒兵に愛唱されたそうだ。その後も大ヒットを飛ばし、終戦まで精力的に活躍を続けていた。
正直私など戦中生まれと言っても当時まだ子供であったし、戦前の事は、よく分からない。しかし、戦後の事はよく覚えている。戦前からのリバイバル曲「新雪」「燦めく星座」などは、よく歌ったし、1948(昭和239年大ヒットした、佐伯孝夫:作詩、服部良一:作曲「東京の屋根の下」。1951(昭和26)年の佐伯孝夫:作詩、佐々木俊一:作曲「アルプスの牧場」、同年の井田誠一:作詞、利根一郎:作曲「水色のスーツケース」と続いてヒットした灰田らしい明るい歌が大好きだ。また、映画では、喜多川千鶴、水の江滝子などの「花くらべ狸御殿」(昭和24年)、高峰秀子、笠置シヅ子等との「銀座カンカン娘」(昭和24年)、」水ノ江瀧子、暁テル子等との「狸銀座を歩く」(昭和25年)などミュージカル的な歌謡映画に数多く出演している。私などこのような明るいミュージカルが大好きだったのでわくわくしながら見ていた。又、なんと言っても灰田は、大の野球好きで、王貞治にアドバイスをするほどだったというが、「歌う野球小僧」(昭和26年)は、上原謙、笠置シズ子らの共演により大ヒットし、佐伯孝夫:作詩、佐々木俊一:作曲の主題歌「野球小僧」は灰田勝彦のテーマソングにもなった。ステージの最後には「野球小僧」を歌い、自分のサインボールを客席に投げる事が楽しみだったという。
民間放送が設立されると、放送におけるコマーシャルソングが盛んに作られたが、その第一号である小西六フィルム(現コニカミノルタ)の「僕はアマチュアカメラマン」を歌ったのも灰田勝彦であった。戦前の歌はともかく戦後の灰田の歌は本当に明るく大好きだった。
友と語らん
鈴懸の径
通いなれてる
学校(まなびや)の街
佐伯孝夫:作詩、灰田有紀彦:作曲 「鈴 懸(すずかけ) の 径(みち)」・・・この歌は、戦前の1942(昭和17)年、2歳年上の兄灰田晴彦(有紀彦)の作曲である。鈴懸はプラタナスのことで、日本には明治の初めに渡来し、街路樹として各地で植えられた。立教大学前の通りにも植えられており、この歌は、それをイメージしてつくられたという。これはキャンパスフォークの走りということになるが、しっくりとしたいい曲ですよね。本当に綺麗な曲で私の大好きな「水色のワルツ」(作詩:藤浦洸、作曲:高木東六。歌:双葉あき子昭和25年)とともにハーモニカなどとともによく吹く曲になっている。
1982(昭和57)年、多くの人に惜しまれつつ、71歳で死去。 懐かしい歌手の1人だよね。
(画像は灰田勝彦・全曲集。)
参考:
灰田勝彦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%BD%A6
灰田勝彦 (ハイダカツヒコ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/106387/index.html
懐かしい歌カラオケ索引
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/50.html