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一日一書 1462 蓮始開(七十二候)

2018-07-14 17:44:44 | 一日一書

 

蓮始開(はすはじめてひらく)

 

七十二候

 

7/12〜7/16頃

 

ハガキ

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (30) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その6

2018-07-14 16:46:09 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (30) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その6

2018.7.14


 

 女房の千代子がすぐに怒鳴り込んでくるので、その都度義雄はお鳥を引っ越しさせてきたのだが、今は、二軒長屋の二階にお鳥を移し、そこへ義雄は入り浸っている。階下の夫婦も年中喧嘩ばかりしている。亭主は、縁日商人だ。その喧嘩の様子が活写されていて、当時の庶民の生活が偲ばれる。


 とンと強く叩きつける煙管の音がして、
「わたしを何だと思つてるんだよ!」
「‥‥」
「假りのおめかけや、たまに旦那に來て貰ふ圍ひ者ぢやアないよ!」
「‥‥」
「お前の女房だ位は分らない野郎でもあるまい!」
「分つてらア、な。」
「それに何だツて、うちを明けるのだよ?」
 義雄は朝飯をしまつてから、机に向つてゐたのだが、下のこの怒鳴り聲に耳が引ツ張られてゐた。また一騷ぎあるだらうとは、婆アさんのゆうべの心配しかたで豫期してゐた。お鳥はけさも何だか慰めを云つて聽かせてゐたやうであつたのに──
「仲間のつき合(え)ひだから、仕かたがねい、さ。」
「つき合ひ、つき合ひツて、幾度あるのか、ね? そんなつき合ひは斷つてしまひなさいと云つたぢやアないか? 碌にかせぎもしないで!」
「うへの先生でもやつてることだア、な。」
「先生がお手本なら、直ぐ、けふ限り、わたしが斷つてしまふよ。」
「斷るなら、斷るがいいが、ね。」
「生意氣をお云ひでない!」
 義雄は自分の女房より一段どころか、二段も三段もうへを行く女もあるのだと思つてゐるのだ。
「何が生意氣でい──これでも貴さまを年中喰はせてやつてらア!」
「喰はせるだけなら、ね、犬でも喰はせるよ! 米の御飯が南京米になり、南京米が麥になり──」
「何だ、この婆々ア! 見ツともねいことを云やアがつて!」
「なぐるなら、なぐつて見ろ! 働きもない癖に!」
 取ツ組み合つて、あツちの障子に當り、こツちのから紙にぶつかりしてゐるやうであつたが、大きな女のからだが疊の上に投げ飛ばされるやうな音がした。
「婆々ア女郎め!」
「殺してやるから、さう思へ!」
 臺どころの方でがた/\云はせてゐたが、またとツ組み合ひが始まつたらしい。
「おい、行つて見ろよ」と、義雄はお鳥に云つたが、
「あたい、おそろしい」と、ちひさくなつた。
 渠が下りて見ると、婆アさんをねぢ倒して、そのさか手に持つてゐる出齒庖丁を亭主がもぎ取つたところであつた。
「どうしたと云ふんです、ね?」
「あの野郎がまだ目をさまさないから」と、婆アさんはからだを起し、「今、根性をつけてやらうとして。」
「どツちが」と、立つたまま荒い息をして、「腐つた根性でい?」
「手前(てめえ)に──きまつて──らア、ね」と、これも息を三度につきながら、立ちあがり、長火鉢の座に行つた。そして義雄に、「どうか──火の方へ──お近く。」
 亭主は、庖丁を臺所の方へ投げてから、婆アさんとさし向ひの座についた。そして、
「あり勝ちの夫婦喧嘩ですから、どうか惡(あし)からず」と云つて、若いが、こんな場合だけに血の氣の失せたやうな顏で笑つた。
 義雄には、この男がこんな老母のやうな女を女房と思つてゐられるのが不思議なほどであつた。ずツと若い時からのくツつき物なら知らず、まだこの二三年來の慣れ合ひだと聽いてるので、ただいろんな好き/″\もあるものだと思つた。
「まア、喧嘩をするにも及ばないでせう。」
「濟んで見りやア」と、眞面目な顏つきで亭主を見ながら、「馬鹿々々しいことですが、ねえ。」
「あは、は」と、亭主は笑つて見せた。
「女と云ふものは思ひ詰めりやア、われながらおそろしいものですから、ね──まア、先生も御用心なさいましよ。」
「十分用心が必要です、ね」と、ただほほゑんでゐた。
「わたしが先生の奧さんなら、をどり込んで殺してしまひますが、ね──まだあなたのは、教育もおあんなさるでせうから、おとなしく控へていらツしやるんです、わ。」
「さうでもないのだが──」かう云ふ人々が望む教育なるものが、今日のやうぢやア、これを與へるものの方針に非常に間違つたところのあるのを、義雄はどこかで訴へたくツてならないのである。「斯うすべからず」の消極概念が殆ど教育界全部を占領し、「斯うすべし」がまた、ほんの形式にばかりとどまつてゐて、有識者と云はれるものが凡て、如何に嚴格でも、また如何に熱心らしくあつても、空(くう)に他を教へようとして、少しも自己の實行如何を反省しない! 何のことはない、法律と教育とで以つてわが國人は自由なるべき人間本能の誠實を、わざ/\、無意義に制限せられてゐるばかりだ!
 たとへば、結婚と云ふ形その物が道徳でも實質でもない。實質が既に違つた以上は、その形の破れて新(あら)たまるのを認める法律が必要だ。同時に、また婦人から云つて見れば、くツ付き物が離れた場合にそこに獨立する精神や生活法がいつも具備してゐるところの教育を、不斷から、與へられてゐなければならない。お鳥のやうなものやこの婆アさんのやうな、身を棄てて低い生活に安んじられるものは、寧(むし)ろどんな教育でも入(い)りはしないとしても、中流生活の婦人が無教育ではない癖に獨立生活的教育の素養がないのは、わが國の發展を害する最も大な缺陥の一つで、自分が千代子に苦しめられてゐるのもそれが爲めだと思つた。
「どうせこんなことを云つたツて分らない」のだから、義雄は再び「もう喧嘩はしツこなし、さ」と云つて、二階へあがつた。

 


 この亭主と女房はいったい幾つ年が離れているのだろうか。確かに、「蓼食う虫も好き好き」だ。

 遅くなって帰ってきたことの言い訳に、「上の先生だってやってる」っていうのも子どもじみた話で笑える。

 ここにちらっと姿を見せる「教育論」。「こうすべし」のわが身をもって示す行動規範がなくて、ただただ「かうすべからず」の「消極概念」ばかりが「教育界全部を占領し」ているとの指摘は、今日でもその事情に大差なく、100年たっても、日本の教育に進歩がないような気がしてくるのが情けない。

 結婚をめぐる法律のことも問題視されているが、この頃の結婚に関する法律はどうなっていたのだろうか。簡単には離婚が認められていないようだが。

 帰りが遅ければ、出刃包丁の出番となる夫婦だが、こんな平和の時もある。



 がら/\と車の音がした。
 下の障子や格子戸があいて、婆アさんが外へ出た樣子だ。
 義雄も知つてる通り、かの女は、亭主が十一時から十二時までに歸りさへすれば、縁日商人の職業上當り前なので、喜んで出迎へるのである。そして、丁度可なりの傾斜を登つて來なければならないので、坂の中途まで行き、一緒になつてその荷車を押すのだ。
「今夜はどうだ、ね?」
「あんまりいいこともねい──もう、締めても──」
「まだ清水さんが歸らないんだよ。」
「へい——珍らしいことだ、なア。」
 燗酒のにほひが實際にして來た。
 錢勘定の音がちやら/\するにつれて、婆アさんが一心に銀貨と銅貨と、二錢銅と一錢銅とをより分けてゐるのが見えるやうだ。
 渠は熱苦しくなつたからだをまたうつ伏しにして、
「あれでも渠等は滿足して生活して行けるのだが──」と考へてゐた。



 最初の引用箇所もそうだが、目に見えない情景を、音だけで描く手腕が冴えている。それに、ここでは、「燗酒のにほひ」までが加わり、なんともいえない雰囲気があるのもいいなあ。

 珍しく、お鳥が夜になっても帰らない。階下の夫婦の生活を思いながら、義雄は眠れない。





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