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日本近代文学の森へ (31) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その7

2018-07-21 17:09:13 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (31) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(2)毒薬を飲む女』その7

2018.7.21


 

 この小説もそろそろ終わりにしないと、きりがないので、最後まで読み切ったところで、全篇の粗筋を、吉田精一先生の「自然主義の研究」から引用しておく。粗筋といっても、叙述が必ずしも時系列にそってなされているわけではないので、これだけまとめるにもかなりの苦労があったこととしのばれる。


お鳥を義雄は女優にしようといふ目論見で、三味線を習はせはじめる。義雄は友人の周旋屋加集に蟹の缶詰の後追い金として二百円の周旋をたのむ。ある日彼は音楽クラブの演奏会にお鳥をつれて行くと、そこの妻君の千代子も来合はせて居り、騒動が起る。彼は千代子にひかれて家へ帰るが、溝わきを通る時、思はず千代子を突き落さうとする。このあとお鳥は自分を本妻にせよといひ出し、法律がゆるさないといふと、彼女は松の枝に紐帯をかけて縊死しようとしたりする。ある晩も「妻にしてくれ」といふのをとり合はないと、彼女は出歯包丁をとり出し、のどの上に擬する。それを手切れの機会とし、彼は印刷屋の二階にゐる加集のもとにかけこみ、彼女の病気(淋病と思われる)の治療費を出すことを条件として(お鳥を)彼に押しつけようとする。だが彼にはまだ未練がある。行く所もない彼は、またしても加集が彼女の為に借りた二階に彼女を尋ね、来合はせた加集と三人で寝る。あくる朝、加集から(かつて)お鳥と関係したことをきき、怒ってとび出したあと、お鳥はアヒ酸をのんで自殺をはかる。行きあった加集と彼はその枕もとでなぐり合ひをはじめ、彼はさんざんになぐられる。しかし、加集の周旋で金が出来、彼は樺太に旅立つ。


(  )内、山本注。

 

 結局主な登場人物は、主人公の義雄とその妻千代子、そして愛人のお鳥、そして、周旋屋の加集ということになるのだが、この二人の男と二人の女の関係が、実に複雑な心理的葛藤を伴って描かれていて、この粗筋だけ読んでも、この小説の面白さは伝わらない。

 義雄は千代子を疎み憎んでいることは確かだが、お鳥に対する思いは、憎悪と執着の間を際限もなく揺れ動くのだ。

 お鳥が夜中に出歯包丁を持ち出すあたりの迫力にはぞっとするのだが、それを潮に今度こそ手を切ろうと思って、加集にお鳥を押しつける。ところが、いざ、お鳥と加集がひとつ家にいるとなると、どうにも嫉妬に耐えられない。それなのに、加集から告白されるまで、二人に肉体関係があったとは思っていないのだ。そんなことって普通はないよね。

 ひとつ家に住まなくたって、男と女はいつだって結ばれるチャンスはあるわけだし、まして、自分から女の友人に「押しつけた」のだから、結ばれないわけはない。
けれども、加集がお鳥と温泉に行ったと聞いて、義雄は逆上するのだ。義雄にさんざんなじられたお鳥は毒を飲んで自殺をはかる。逆上していったん家を飛び出した義雄だが、気になって家に戻ると、お鳥は毒を飲んでいた。幸い命に別状はなかったが、そこへやはり気になって戻ってきたのが加集で、義雄は加集にさんざん殴られる。いったんは、義雄も殴りかえすが、その後は、殴られるままになっている。思えば、悪いのは加集ではなくて自分なのだと義雄は思うからだ。

 そんな悶着があっても、加集は周旋屋としての義務は果たし、金を都合してくる。義雄は、その金をもって、お鳥を残して、樺太に旅立っていく。

 この小説のラストはこうなっている。



「アスタツマテ」と云ふ電報を、入院中だと云ふ弟をもはげますつもりで、樺太へ打つたのは、六月の一日であつた。そしてお鳥へは渠(かれ)の歸京まで豫定三ヶ月の維持費を渡した。
 二日の正午頃、お鳥だけが義雄を上野へ見送りに來た。かの女は、手切れの用意とはその時夢にも知らず買つて貰つたかのセルの衣物に、竹に雁を書いた羽二重の夏帶を締めてゐた。考へ込んでばかりゐて、口數を利かなかつた。
 いよ/\乘り込むとなつて、停車場のプラトフオムを人通りのちよツと絶えたところへ來た時、かの女は低い聲でとぎれ/\に、
「あたい、もう、あんたばかりおもてます依つて、な、早う歸つて來てよ。」
「ああ──」と返事はしたが、義雄の心には、音信不通になるなら、これが一番いい時機だと云ふ考へが往來してゐた。そしてその方がかの女將來の一轉化にも爲めにならう、と。
 然し窓のうちそとで向ひ合つてから、渠は右の手をかの女にさし延ばした、かの女は自分の左の方にゐる人々の樣子をじろりと見てから、目を下に向けて、そツと自分も右の手を出した。「三ヶ月素直に待つてゐられる女だらうか知らん」と疑ひながら、渠は握つた手を一つ振つてから、それを放した。そして、「あの八丁堀の家は、おれの云つた通り、きツとよすだらう、ね、加集に知れないやうに」と、念を押した。
「そんな心配は入(い)らん!」
 この優しいやうな、また強いやうな反抗の言葉が、この二十二の女の誠意に出たのか、それともこちらをいつも通り頼りない所帶持ちあつかひにした意なのか、──孰(いづ)れとも義雄の胸で取れたり、うち消されたりしてゐる間に、汽車出發の汽笛が鳴つた。



 しみじみとした感慨をもたらすいい文章である。


 お鳥の義雄に対する思い、また、義雄のお鳥に対する思いは、それぞれに、複雑極まり、「愛」などという言葉では語ることを許さない。

 思えば、「愛」などという言葉で語れる男女関係など、この世に存在するものではないのだろう。

 けれども、義雄が、どんなに恐怖し、憎悪し、侮蔑し、離れたいと切望しても、お鳥への「執着」だけは断ち切れない。そして、どんな状況におかれても、最終的には、お鳥のことを考えているということだけは確かなことである。それならば、少なくとも義雄はお鳥を「愛している」と言ってもいいのではなかろうか。そしてまた、男女の「愛」は、多かれ少なかれ、こうしたものなのではなかろうか。

 この小説の題名『毒薬を飲む女』は、泡鳴自身がつけたものではなく、もともとは『未練』という題だったが、「中央公論」の編集者滝田樗陰が『毒薬を飲む女』というセンセーショナルな題に変えたという。そう変えたほうが売れると思ったのだろうが、『未練』のほうが、この小説の核心をあらわしている。





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