木洩れ日抄 40 砂時計の時間
2018.7.27
大人になると、どうして時間が早くたつの? っていう問題を、「チコちゃんに叱られる」というNHKの番組でやっていて、その答えは、「大人になるとトキメキが減るから」なのだとさる心理学者が言っていたわけだが、どうにも納得がいかない。
ぼくもヨワイ68からまもなく69へならんとしている「大人どころか老人」の部類に属するイキモノだが、日々「トキメキがない」などということはない。そりゃ、がんぜない子どもみたいに、食事のたびに、わあ〜、今日は冷奴だあ、とか、わあ〜、今日も小松菜のオヒタシだあ、とかいってトキメイているわけじゃない。けれども、国立博物館に行って縄文時代の土偶にトキメイたり、半分青いのスズメちゃんにトキメイたり、友人の撮影した新幹線のドクターイエローの動画にトキメイたり、もう、トキメクことにおいては、子どもも真っ青だといってもいい。
ただ、子どもみたいに、おおげさに騒がないだけのことで、大人だって、それぞれの趣味において、十分にトキメイているわけである。もちろん、がんぜなさを失った大人ゆえのおおっぴらには広言できないトキメキだって山ほどあるわけだから、やっぱりトキメキの量においても、たぶん質においても、子どもなんかの比じゃないのである。
でも、時間は、年をとるとともに、おどろくほどはやく過ぎていくのも事実である。毎月カレンダーをめくるのが、まるで日めくりをめくるようだと感じるようになってからはや数十年たつような気さえする。大人になると、どうして時間が早くたつの? という疑問がわくのも無理からぬことなのである。
『砂時計の書』という本がある。エルンスト・ユンガー(1895〜1998)著のこの本(1978年・人文書院)を、数十年前に読んだことがあるのだが、内容はすっかり忘れていた。その本をこの話題とともに急に思い出した。
というのも、大人になってからの時間の経過の早さについて、強烈に印象に残った映画のシーンがあって、そのシーンが砂時計にまつわるものだったからだ。ヴィスコンティの映画だったことは確かだと思うのだが、それが『家族の肖像』だったのか、それとも他の映画だったのか、判然としない。とにかく、画面の中央あたりに砂時計が大きくアップで写っていて、その向こうで、老教授のような人が語る。人生の時間は、その砂時計と同じだ。はじめのうちは、どれだけ時間がたっても、上の砂は無限にあるようにみえる。そのうち、上の砂が半分になる。すると、こんどは、もうすごい勢いで上の砂は減っていく。人生の時間というのはそういうものだ。というのである。
長いこと、ぼくは、この時間認識で生きてきたような気がする。砂時計を見るたびに、老齢となったわが身の「残り少なさ」を恐れと悲しみとともに実感してきたわけなのだ。
で、今回、チコちゃんに叱られて、心理学者の答えに納得できず、ヴィスコンティの映画のことを思い出したついでに、件の本を思い出したというわけである。
この本はとっくの昔に「自炊」してあるので、HDの中から簡単に見つかった。目次の大きな見出しだけでも「砂時計の情感」「時計と時間」「砂時計」「治療薬としての砂時計」「新しい地球的要素としての時計」となっていて、要するに、「砂時計」を中心にしての時間論である。
読み始めようとして、パラパラとページを繰っていると、こんな文章が目に飛び込んできた。
白い砂が音もなく漏れ落ちていた。上部の砂が漏斗状にくぼんでゆき、下部に円錐状に堆積してゆく。失われてゆく一瞬一瞬が積もらせるこの砂の山を見ていると、時間はなるほど過ぎ去るけれどもけっして消え去るのではない、とうことの証のように思われ、わたしは慰めをおぼえた。時間は、どこか深部にゆたかにたくわえられてゆくのだ。(9p)
軽い衝撃を受けた。
ヴィスコンティの映画では、上部の砂のことだけが語られていた。下部に堆積してゆく砂にはまったく目が向けられていなかった。でも、ユンガーは言うのだ。「時間は、どこか深部にゆたかにたくわえられてゆくのだ。」と。
過ぎ去る時間がはやいか遅いかは、もはや問題ではない。砂が、上から下へ流れ落ちる現象は確かにあるが、砂そのものは変化しないし、くびれを通過する砂のスピードに変化があるとも思えない。(計ってないから分からないけど。)砂は、ただ上から下へと移動するだけだ。問題となるのは、上と下の砂の「量」だ。
上に注目すれば、後になるほど恐ろしいほど早くなくなっていく。けれども、下に注目すれば、初めのうちは恐ろしいほど急速に増えていくが、後になればなるほどゆっくりと増えていく。
なんで、このことに気づかなかったのだろう。
「どこか深部にゆたかにたくわえられてゆく」とユンガーはいうが、その「どこか」はどこだか分からない。「どこか」としか表現できない「どこか」だ。砂時計では、はっきりと、目の前にその「堆積」が見えるのだが、ぼくらの人生における「なにか」の堆積は、目に見えない。でも、確かに、「どこかにある」、はずだ。
「時間がたつ」あるいは「時間がすぎる」ということは、結局は、人間にとっては「生きる」ということに等しい。忙しく働いていようが、朝からゴロゴロしていようが、その人間が「生きている」ことにはなんの変わりもない。そして、時間は平等に過ぎていく。ということは、誰もが、生きているかぎり、「なにか」が「どこか」に、ちゃんと堆積してゆくということだ。
ゴロゴロしていたので、砂が落ちなかったとか、世のため人のため懸命に働いたので、砂が余計に落ちたとか、そういうことではない。何をしようと、何をしなかろうと、砂は、落ちる。砂はたまる。堆積してゆく。つまり、ぼくらは、「いやおうなく、ゆたかになっていく」のだ。
そう考えれば、何も、時間がどんどんはやく過ぎていくことを嘆くことはない。それどころか、年をとればとるほど、ゆっくりと何かがどこかに堆積してゆくことに、深い慰め、あるいはよころびを感じられるはずである。
なんの「生産性」のない日々を送ってきたとしても、実際に、「どこか深い所」に堆積している「砂」の量は、めちゃくちゃ「生産性」の高い人と同じであることに気づけば、毎日、楽な気持ちで生きていける。あくせくすることはないのである。
こんなことを言うと、無責任なこと言うな、じゃあ、人間は、なんの努力もしなくていいのか! ボーッと生きてんじゃねえよ! ってチコちゃんみたいに怒る人もいるだろうが、いったいこの世に、この世知辛い世に、この困難なことだらけの世に、棲息し、息をしている人間で、「努力」してない人間なんているだろうか。朝起きて歯を磨くだけだって、大変な「努力」だ。寝たきりで、何もできなくたって、一日を過ごすだけで、大変な「努力」だ。
エラそうなことを言うようだが、人間は、もう、「生産性」なんていうものとはまったく関係なく、ただ、生きているだけで、すでに「一生懸命」なのだ。とすれば、一日が長かろうが、短かろうが、何か「有益な」ことをしようが、「無駄」に過ごそうが、起きていようが、寝ていようが、砂は落ち、砂は「どこかに」確かに堆積しているのだ。そのことを信じることができさえすればいい。それで生きていける。
なんてことをつらつら考えてみたのだが、いずれにしても、『砂時計の書』は、もう一度ゆっくり読むことにしたい。いろいろな示唆を与えられるかもしれないから。