日本近代文学の森へ (5) 岩野泡鳴『野田新兵』
「日本短篇文学全集 9」筑摩書房
2018.4.27
いやな味の小説だ。作者によれば、「〈作者が観察し研究する人生の自然に詩として親しく滲み出した〉おかしみ」(これを泡鳴は、「有情滑稽」と呼んでいるらしい)を追求した小説ということらしいのだが、ぜんぜん笑えない。「おかしみ」がないわけではないが、なんだか無残なおかしみで、不快感ばかりが舌の奥に残る。
「佐倉師団」に編入された、東京芝区の米屋の息子「得ちゃん」は、仲間の兵隊から「野田新兵」と馬鹿にされて呼ばれるのを、実家あたりで「得ちゃん」と呼ばれるより「出世した」と感じるお人好しで、仲間からさんざんいじめられても、いつもニヤニヤ笑っている。それで、仲間は年中野田にたかって散財させるが、野田はいつもいいよいいよでされるがまま。
女房もいて、ときどき面会に来るけれど、仲間がその女房にそれこそセクハラのし放題なのに、それも野田はとめようともしない。
この仲間の兵隊たちの、下卑た言葉の数々には、ほとほと閉口するが、これが日本の兵隊のありのままではなかったかと思うと、気持ちが滅入る。かつての日本兵だけじゃない、昨今の高級官僚の耳を疑うばかりの品のない言葉の数々さえ、これと地続きに耳に響くような気がして、不快感は更につのるばかり。
いじめられ、コケにされっぱなしの「得ちゃん」が、日露戦争に出征し、旅順攻撃で、アキレス腱を切る大けがを負いながらも奇跡的に助かり、帰国して、少しは自分によくしてくれた先輩末島の家を訪ねると、どうも末島の生死は不明らしい。それを知った「得ちゃん」は、あろうことかこんなことをいうのだ。
「末島君も、お気の毒でありますが、多分名誉の戦死でありましょう。」と、士官に対して報告でもしているように語った。自分としては、こう云う言葉づかいが士官以外の人に向っても出るのを──出征前とは違って、──まじめになったのだと思えた。で、それから得意そうにまた言葉を継ぎ、「僕はさいわにも足のすじだけの負傷でありまして、わが師団としては戦争のとッ端(ぱな)に帰して貰いましたので、さいわいにも無事だったのであります。」
この野田の、愚かさ、無神経さには、ただただ呆れるしかない。これじゃ、彼を応援する気にもなれやしない。けれども、こういう無神経さは、決してぼくらの人生の途上では無縁ではないだろう。不幸な人の前で、自分の幸福を自慢することが、これほど露骨な形ではないにせよ、ぼくらは無意識のうちに、どこかでやってきたのではなかったろうか、と反省させられる。
野田の腹立たしいほどの愚かさは、日本人の一面の真実かもしれないし、それを感じるから、余計読むのが辛いということもあるのだろう。
人間の嫌な面ばかりが描かれているようなこの小説を読むと、不快感しか感じないのだが、それでも歯の浮くような人情話を読むよりはマシかなあという気もしてくるから妙なものだ。泡鳴の「観察眼」は、人間の愚かさ・醜さをえぐり、ちっとも「詩」が「滲み出て」こないが、それでも、そこに「ウソ」がなければ、読む価値はあるような気がする。
現に、泡鳴と親交の深かった正宗白鳥は、泡鳴を「つまらんぼう(つまらない人。とるに足りない人。くだらない人。)」だと言いながらも、『耽溺』を初めとする小説を、面白いと賞賛する。
泡鳴といえば、自然主義作家の一人だから、文学史上ではなかなか重要な作家のわけだが、日本の自然主義そのものがあまり評判がよくない。篠田一士がいうとおり、自然主義は文体を破壊したから(といっても、明治期の美文調の否定だったのだが)、文章はきれいじゃないし、話はみじめで暗くて絶望的で夢も希望もないし……、というわけで、人気の出る要素がみあたらない。それなのに、一時期、この自然主義文学が大人気だったのだ。それは、やはり、当時の社会に生きる人間の「ほんとう」を隠さず書いたからだろう。それが必ずしも文学の本道(といっても、「本道」って何だろう)ではないのだろうが、「ほんとうのところ」は、やはり興味深いのである。
これも何かの縁だ。つまらないかもしれないが、しばらく泡鳴と付き合ってみるとするか。