詩歌の森へ (13) 高浜虚子・遠山に日の当りたる枯野かな
2018.8.24
遠山に日の当りたる枯野かな
高浜虚子
前回、こがね虫の句についての、村松友治先生の解釈にいちゃもんをつけたけれど、村松先生とは面識がなかったものの、その本の編者の尾形仂先生とは、大学時代にちょっとだけ面識があった。
当時尾形先生は、東京教育大の教授だったが、紛争で荒れる大学時代に、運良くその講義を聴くことができたのだ。講義は、鷗外の歴史小説がテーマで、内容はよく覚えていないが、濃い眉毛の美男だなあとそんなことばかりに感心していたことはよく覚えている。
思えばあの頃は、教育大にはそうそうたる国語学者、国文学者がそろっていた。尾形仂、小西甚一、峯村文人、鈴木一雄、中田祝男、馬淵和男、そして分銅淳作。このどの先生の講義も、出たことは出たのだが、なにしろ一年半にもわたって大学がロックアウトしていたので、じっくりと講義に連なったり、ゆっくりお話しを伺うというような機会は、鈴木先生をのぞいてはなかったのだ。
肝心の卒業論文の指導教官だった分銅先生とも、結局、30分ぐらいしか直接お話しをすることもなく、卒論を書き終わっても、その批評すら伺うことはなかった。
なんてことを書き連ねていくと、涙がにじんできそうなくらい、無念の思いに沈みかかる。誰を恨むわけでもないし、結局は自分が選んだ道だから、これはこれでよかったのだと思っているが、それにしても、もうちょっとマジメに学問に取り組めばよかったという後悔がいつまでたっても残っているのだ。
紛争の嵐の中で、学生運動にはどうしてもなじめなかったのに、変に生意気な意識だけは根付いてしまって、国文学のような学問が、重箱の隅をつつくようなくだらない学問に思えてならなくなってしまい、それよりは、高校の教壇で生きた生徒とぶつかり合うのが、オレの道だと思い込んで、学問を捨てた。
教師をしながら、コツコツと学問的な研究をつづける人も多かったが、ぼくは、それもしなかった。一度捨てた学問に未練たらたらというのが嫌だったのかもしれない。それでいて、教師の仕事にも、いつまでたっても馴染めないままに、ダラダラと42年も続けたその挙げ句、退職して暇になって初めて、「重箱の隅をつつくような」学問に、大きな魅力を感じているのだから、まったくぼくの人生、わけがわからない。
そんなわけで、前回は、村松先生の解釈に、「重箱の隅をつつくような」いちゃもんをつけてみたのだが、それもちっとも「学問的」ではなく、素人の「感想」でしかないことはもちろんだ。といって、反省しきりというわけでもなく、やっぱり「こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。」という表現は「変」だなあという感想に変わりはない。偉い学者でも、変なことを言わないとは限らないし、本格的な論文じゃない場合、手を抜くというわけではなくとも、急いで書いたために意を尽くさないということもおおいにあるわけだ。学者もひとりの人間である。完全を望んではいけない。
で、今回の、虚子の代表作のことになるが、もう一度村松先生の説明を引いておきたい。
《鑑賞》この句を、今は辛くとも行く手に光明がある、というような人生観的なものに解しては月並みになるが、日の当たった遠山を見て虚子の胸中に生じた暖かい感情を無視して単にことがらの報告のみと解してはつまらない句となる。
虚子は自己の代表句としてこれを揮毫している。26歳にしてこの鉱脈を掘り当てたのは虚子の幸福であった。枯淡静寂のうちにほのかに暖かみのある、虚子その人らしい句である。
《補説》虚子の長男の年尾(としお)が、この句を、春もそこまで来ていて、季節の移り変わる様子が読み取れ、一種の人生観めいたものが想像される、と説明してきたと言うと、虚子は〈そこ迄言ふのは月並的だね。人生観といふ必要はない。目の前にある姿で作ったものが本当だ。松山の御宝町のうちを出て道後の方を眺めると、道後のうしろの温泉山にぽっかり冬の日が当たっているのが見えた。その日の当っているところに何か頼りになるものがあった。それがあの句だ〉と言ったという(『定本虚子全集第一巻』解説)。
上から目線で申し訳ないけど、この「鑑賞」は素晴らしい。「人生観的なものにしては月並みになる」、つまり前回のぼくの言い方では「観念の抽象じゃつまらない」ということになる。しかしまた「単にことがらの報告のみと解してはつまらない句になる」。つまりは、具体的な事物そのものが持つ魅力(姿、匂い、音などの感覚的なものから、背景の歴史など)を十分味わいつつ、その表現の背後にある「感情」も深く味わうこと、これが、俳句の、ひいては、詩歌の、さらには小説の味わい方ということになるだろう。
今回、この《補説》で、句の中の「遠山」が、道後の温泉山だということを知ったのだが、それを知っているのと知らないのでは、この句の味わいもまた全然異なってくる。
ぼくは今まで「枯野」のイメージに引きずられて、箱根の仙石原みたいな広大な「枯野」を思いえがいていたのだが、道後の町なかの景色だということになると、その広大な自然が消えてしまう。それはちょっと残念な気がする。
町中といったって、東京なんかと違ってぎっしりと家が密集していたわけではないだろうから、「枯野」はあったわけだし、「枯野」からどんな広さの野原をイメージするかは、人ぞれぞれということになるわけだが、それがちっちゃな原っぱだとは、あんまり思わないだろう。
それは、もしかしたら、「枯野」の語が、すぐに芭蕉のあの有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を思い起こさせるからかもしれない。芭蕉の「枯野」が、家の近くの原っぱであるはずはないからだ。そして、ひょっとしたら、虚子の心の中にも無意識のうちに、この芭蕉の句の「枯野」が浮かんでいたのかもしれない。
こんなことを暇にまかせて書き連ねていると、なんだかとても幸せな気分になる。何よりも、一銭もかからないことが、その「幸せな気分」を何倍にもしてくれる。