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詩歌の森へ (13) 高浜虚子・遠山に日の当りたる枯野かな

2018-08-24 10:57:43 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (13) 高浜虚子・遠山に日の当りたる枯野かな

2018.8.24


 

遠山に日の当りたる枯野かな

   高浜虚子

 

 
 前回、こがね虫の句についての、村松友治先生の解釈にいちゃもんをつけたけれど、村松先生とは面識がなかったものの、その本の編者の尾形仂先生とは、大学時代にちょっとだけ面識があった。

 当時尾形先生は、東京教育大の教授だったが、紛争で荒れる大学時代に、運良くその講義を聴くことができたのだ。講義は、鷗外の歴史小説がテーマで、内容はよく覚えていないが、濃い眉毛の美男だなあとそんなことばかりに感心していたことはよく覚えている。

 思えばあの頃は、教育大にはそうそうたる国語学者、国文学者がそろっていた。尾形仂、小西甚一、峯村文人、鈴木一雄、中田祝男、馬淵和男、そして分銅淳作。このどの先生の講義も、出たことは出たのだが、なにしろ一年半にもわたって大学がロックアウトしていたので、じっくりと講義に連なったり、ゆっくりお話しを伺うというような機会は、鈴木先生をのぞいてはなかったのだ。

 肝心の卒業論文の指導教官だった分銅先生とも、結局、30分ぐらいしか直接お話しをすることもなく、卒論を書き終わっても、その批評すら伺うことはなかった。

 なんてことを書き連ねていくと、涙がにじんできそうなくらい、無念の思いに沈みかかる。誰を恨むわけでもないし、結局は自分が選んだ道だから、これはこれでよかったのだと思っているが、それにしても、もうちょっとマジメに学問に取り組めばよかったという後悔がいつまでたっても残っているのだ。

 紛争の嵐の中で、学生運動にはどうしてもなじめなかったのに、変に生意気な意識だけは根付いてしまって、国文学のような学問が、重箱の隅をつつくようなくだらない学問に思えてならなくなってしまい、それよりは、高校の教壇で生きた生徒とぶつかり合うのが、オレの道だと思い込んで、学問を捨てた。

 教師をしながら、コツコツと学問的な研究をつづける人も多かったが、ぼくは、それもしなかった。一度捨てた学問に未練たらたらというのが嫌だったのかもしれない。それでいて、教師の仕事にも、いつまでたっても馴染めないままに、ダラダラと42年も続けたその挙げ句、退職して暇になって初めて、「重箱の隅をつつくような」学問に、大きな魅力を感じているのだから、まったくぼくの人生、わけがわからない。

 そんなわけで、前回は、村松先生の解釈に、「重箱の隅をつつくような」いちゃもんをつけてみたのだが、それもちっとも「学問的」ではなく、素人の「感想」でしかないことはもちろんだ。といって、反省しきりというわけでもなく、やっぱり「こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。」という表現は「変」だなあという感想に変わりはない。偉い学者でも、変なことを言わないとは限らないし、本格的な論文じゃない場合、手を抜くというわけではなくとも、急いで書いたために意を尽くさないということもおおいにあるわけだ。学者もひとりの人間である。完全を望んではいけない。

 で、今回の、虚子の代表作のことになるが、もう一度村松先生の説明を引いておきたい。


《鑑賞》この句を、今は辛くとも行く手に光明がある、というような人生観的なものに解しては月並みになるが、日の当たった遠山を見て虚子の胸中に生じた暖かい感情を無視して単にことがらの報告のみと解してはつまらない句となる。
虚子は自己の代表句としてこれを揮毫している。26歳にしてこの鉱脈を掘り当てたのは虚子の幸福であった。枯淡静寂のうちにほのかに暖かみのある、虚子その人らしい句である。
《補説》虚子の長男の年尾(としお)が、この句を、春もそこまで来ていて、季節の移り変わる様子が読み取れ、一種の人生観めいたものが想像される、と説明してきたと言うと、虚子は〈そこ迄言ふのは月並的だね。人生観といふ必要はない。目の前にある姿で作ったものが本当だ。松山の御宝町のうちを出て道後の方を眺めると、道後のうしろの温泉山にぽっかり冬の日が当たっているのが見えた。その日の当っているところに何か頼りになるものがあった。それがあの句だ〉と言ったという(『定本虚子全集第一巻』解説)。


 上から目線で申し訳ないけど、この「鑑賞」は素晴らしい。「人生観的なものにしては月並みになる」、つまり前回のぼくの言い方では「観念の抽象じゃつまらない」ということになる。しかしまた「単にことがらの報告のみと解してはつまらない句になる」。つまりは、具体的な事物そのものが持つ魅力(姿、匂い、音などの感覚的なものから、背景の歴史など)を十分味わいつつ、その表現の背後にある「感情」も深く味わうこと、これが、俳句の、ひいては、詩歌の、さらには小説の味わい方ということになるだろう。

 今回、この《補説》で、句の中の「遠山」が、道後の温泉山だということを知ったのだが、それを知っているのと知らないのでは、この句の味わいもまた全然異なってくる。

 ぼくは今まで「枯野」のイメージに引きずられて、箱根の仙石原みたいな広大な「枯野」を思いえがいていたのだが、道後の町なかの景色だということになると、その広大な自然が消えてしまう。それはちょっと残念な気がする。

 町中といったって、東京なんかと違ってぎっしりと家が密集していたわけではないだろうから、「枯野」はあったわけだし、「枯野」からどんな広さの野原をイメージするかは、人ぞれぞれということになるわけだが、それがちっちゃな原っぱだとは、あんまり思わないだろう。

 それは、もしかしたら、「枯野」の語が、すぐに芭蕉のあの有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を思い起こさせるからかもしれない。芭蕉の「枯野」が、家の近くの原っぱであるはずはないからだ。そして、ひょっとしたら、虚子の心の中にも無意識のうちに、この芭蕉の句の「枯野」が浮かんでいたのかもしれない。

 こんなことを暇にまかせて書き連ねていると、なんだかとても幸せな気分になる。何よりも、一銭もかからないことが、その「幸せな気分」を何倍にもしてくれる。







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詩歌の森へ (12) 高浜虚子・金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな

2018-08-23 15:29:59 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (12) 高浜虚子・金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな

2018.8.23


 

金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな


   高浜虚子

 

 虚子のこの句を知ったのは、いつのことだったろうか。中学生のころの、国語の教科書に載っていたのではなかったろうか。初めて知って以来、忘れられない句となった。

 この句のだいたいの意味は、「部屋の中に飛び込んできたコガネムシをつかまえて、窓の外へ放り投げたら、虫は闇の中に消えていき、庭の闇の深さを感じた。」といったところだろう。たとえば、『俳句の解釈と鑑賞事典』(尾形仂編・旺文社1979刊)では、この句担当の村松友次は、次のように解説している。


《句解》こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。それを、窓から外の闇へ向かって力まかせになげうった。こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。
《鑑賞》明治41年8月11日「俳諧散心」(日盛会)、第11回、34歳の作である。
 こがね虫を窓の外へ投げるというようなことは日常よくあることである。そういう日常的な行動をとらえながら、〈闇の深さ〉という一語でかすかにではあるが、形而上の世界を連想させる。
 この人間を取り巻いている暗黒というものは、人知をもってはかることのできぬ、深いものである。しかもそれがごく日常的な行動に直接につながって、窓の外に深ぶかと存在しているのである。俳句のおもしろさの一つの典型である。


 日常のすぐ近くにある「闇」を、卑近な行動を描く中で見事に浮き彫りにしたということで、この句を高く評価しているわけで、それがまあ標準的な解釈なのだろうが、ぼくは、どうにも納得がいかない。

 まず、《句解》にある「こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。」というところ。これでは、「なぜ、こがね虫なのか?」が分からない。確かに、「こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。」というようなことは夏の夜にはよくあることだろう。(「自分でどこかへ突き当たって落ちた。」というのは、変な解説だけど。)多くの虫は、光に向かってくるから、暗い庭から家の灯りめがけて飛び込んできて、ふすまかなんかにぶつかって、畳の上に落ちる、ということはよくあるわけで、これは実際に起きたことだろう。そのこがね虫を、手でひろいあげて、窓の外に捨てた。村松さんは「力まかせに」と書いているが、別にそれほど力を入れなくてもいいことで(入れたっていいが)、とにかく、投げた。で、村松さんは「こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。」と説明するわけだが、やはり、じゃあ、投げたのが、「こがね虫」じゃなかったら、「闇の深さ」は実感されなかったのかという問題が生じるのである。

 食べようとして落としてしまった饅頭を庭に投げたら(まあ、そんなことはしないだろうが)、「闇の深さ」は感じられなかったのだろうか、という問題である。そんなことはバカバカしい屁理屈で、これが「こがね虫」という夏の季語だから、俳句になるんじゃないかと言われるかもしれないが、ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

 これは、やはり「こがね虫」だからこその「実感」なのだ。つまり、こがね虫は、饅頭とちがって、羽根があるので、投げられたあと、「飛んだ」のだ。ここがこの句の「肝」である、とぼくは確信している。(村松さんは、たぶん、こがね虫が「飛んだ」とは考えなかったので、わざわざ「力まかせに」と書いたのだろう。そうしないと「闇の深さ」が出ないからだ。しかし、こがね虫は「飛ぶ」とすれば、ぽいっと投げたっていいわけで、むしろそのほうが「捨て方」としては自然だ。もちろん、虚子がこがね虫が大嫌いだったら別だけど。)

 庭に饅頭を投げた場合、数秒しないうちに、ガサッとか、ゴソッとかいう音が聞こえてくるはずだ。投げたのが石で、それが庭石に当たったのなら、コツッという音が聞こえるはずだ。けれども、このこがね虫は、投げられた瞬間、羽根を広げ、飛んだので、何秒たっても落ちた音がしない。つまり「手ごたえ」がないのだ。

 こがね虫は、暗い闇の中に飛んでいってしまった。ひょっとしたら、ブーンという飛ぶ音がかすかに聞こえたかもしれない。けれども、眼前には、まっくらな庭があるばかり。姿の見えないこがね虫が、そのまっくらな庭の「闇」をどこまでも広げていく。そこに虚子は、ちょっと驚いたのだ。

 ぼくは、初めてこの句を読んだときに、たぶん、そう感じた。(「たぶん」と言うは、ひょっとしたら、国語の授業で、先生がそういう説明をしたかもしれないと思うからだけど、今となっては確かめようがない。)それは、昼間だけど、つかまえたこがね虫(あるいは別の甲虫類)を投げたことがあるからだ。手を放れた虫が、空中にさっと羽根を広げて軽々と飛んでいく様を、なんども見たからだ。

 虚子がこの句を作ったとき、その素朴な驚きをそのまま詠んだのではなかろうか。「形而上の世界」を垣間見たと思ったわけではないだろう。日常のすぐ近くにある「闇」の発見、といった「読み」「解釈」は、あとからのもので、虚子の驚きとはなんの関係もないんじゃなかろうか。

 俳句に限ったことではないが、俳句は特に言葉が少ないので、さまざまな「解釈」が可能となるし、それがまた魅力なのだが、あまり深読みすると、本来の素朴な面白さを見失ってしまうこともあるのだ。「深読み」は、時として、具体的な事物を捨象して、観念の抽象に陥る危険がある。

 少なくともぼくにとっては、この句における「形而上の世界」なんてどうでもいい。むしろ、夏の庭の闇に消えてゆくこがね虫の羽音と、手のひらにかすかに残ったこがね虫の匂いと、あたり一面にすだく虫の声と、うっとうしいほど茂る草木の匂いと、その隙間をぬって吹いてくる涼しい風、そんなものを「いつまでも」感じていたい。

 

 

 


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日本近代文学の森へ (36) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その5

2018-08-23 09:04:16 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (36) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その5

2018.8.23


 

 友人の有馬勇の家に転がり込んだ義男は、新聞記者の島田氷峰の家を訪ねる。マジメな勇は新聞記者との付き合いをほんとうは嫌がっている。どうもこの頃の新聞記者というものは、ろくなもんじゃないと思われていたようだ。ゴロツキという言葉も最近ではとんと聞かないが、新聞記者なんてゴロツキ同然だといった「偏見」が、つい最近まであったように思う。マジメな新聞記者には申し訳ないが、そうした職業的偏見は社会の随所にみられる。

 ことは新聞記者だけじゃない。なかでもぼくが自分の職業だからとりわけ敏感にならざるをえないのが「貧乏教師」という言葉に見られるような教師に対する偏見だ。

 この小説でいえば、有馬勇がまさにその教師だが、その「小物」ぶりが嘲笑的に描かれているし、主人公の義男自身だって、教師をやっていたわけだが、話題が教師になると、「もとはと云へば、矢張り教師根性を出して、自分等の俸給の上り方が遲いの、少いのとこぼし合ひ、土曜日の來るのを待ち兼ねたり、冬期休暇や夏期休業の近づくのを指折り數へたりしてゐた。」などと自嘲的に描かれるのが常である。

 これはなにも泡鳴に限ったことではなくて、正岡子規にも教師へに侮蔑にみちた表現があるし、第一田山花袋の代表作が『田舎教師』という、考えればヒドイ題だ。

 栄光学園に在学中も「オレはこんなところの田舎教師で終わりたくないんだ。」などと生徒の前で広言する嫌な教師もいたし、その当の教師から、都立高校から母校へ戻ったときに、面とむかって「なんだ、山本、おまえ、都落ちしてきたのか。」と冷笑されたこともある。都立高校時代に、文学部志望の息子の母親と面談したときには、「文学部に行ったって、教師ぐらいにしかなれませんからねえ。」と真顔で言われたことすらある。普段温厚なぼくでも(笑)、ちょっとつつけば、はらわたの煮えくりかえるような思いの百や二百は(おおげさか、、)すぐに飛び出てくるのだ。

 職業に貴賎はないとはいうものの、偏見は根強い。

 島田は、金持ちの知り合いに、「新聞記者の樣なきたない商賣などはよして、おれが資本を出してやるから、お前の考へ通りやつて見い」と言われて、小さな出版社を起こしたのだが、まだ雑誌を出すまでには至っていない。

 さて、ある日、義男は有馬の家に帰ろうとして、ふと島田の家を訪ねようと、札幌の通りを歩いていると、焼きもろこしを売っている。


 左りに曲れば有馬の家へ行くのだ。然し渠は右に曲つて、氷峰の家へ向つた。例の鐵工場からは、かん/\云ふ音が聽えて來る。渠は今更らの如く生(せい)の響きを感じた。そして、それと同時に、悲痛孤獨の感じがもとの通り胸一杯に溢れて來た。
 工場とすぢかひになつてゐる角に、葉の大きなイタヤもみぢが立つてゐる。その太い根もとに、焜爐の火を起して唐もろこしを燒き賣りする爺さんがゐる。店の道具と云つては、もろこしを入れた箱と焜爐とだけである。
 こんな簡單な店を、義雄は、昨夜も、町の角で澤山見たが、なかには、林檎をもかたはらに並べてゐるのがあつた。渠はもろこしの實が燒けて、ぷす/\はじけるそのいいにほひを、昨夜、醉ひごこちで珍らしく思つた。今、爺さんの獨りぼツちでそのにほひをさせてゐるのがなつかしくなり、何とはなしにその前へ行き、燒きもろこしを二穗ばかり買つた。
 それを以つて實業雜誌社へ行くと、氷峰は今歸つたところで、茶の間で朝飯を喰つてゐる。
「何を買つて來たんぢや?」
「燒きもろこし、さ。」
「好きなのか?」
「なアに、うまさうだからよ。」義雄は一粒つまみ取つて口に入れたが、直ぐに二穗ともほうり出し、「にほひの香ばしい割合に、うまくない。」
「とても、うまいものか?──まア、飯を喰ひ給へ。」
「わたし好きよ」と、膳の用をしながら、お君さんの言葉だ。
「ぢやア、あげませう」と、義雄が二つともさし出す。
「燒きもろこしは」と、氷峰は微笑しながら、「東京の燒き芋の樣に、女の好くもの、さ。」
「女に好かれるにいい、ね」と答へながら、義雄も氷峰のそばで膳に向ふ。
 お君は二人の給仕をしながら、嬉しさうに、もろこしを一粒一粒喰つてゐる。そして二穗とも坊主になつてしまつた頃、二人の食事も濟んだ。



 今では、お祭りなんかの定番の「焼きもろこし」も、元はといえば北海道のものだったのかもしれない。この「焼きもろこし」に、醤油は塗ってあったのだろうか、ちょっと気になる。

 お君は、その「焼きもろこし」を、「一粒一粒喰つてゐる」とあるのがおもしろい。義男も食べるときには、「一粒つまみ取つて口に入れた」わけで、今のようにかじるわけではない。しかし現在「焼きもろこし」を一粒ずつ食べる人を見ることがないのはどうしてなのだろうか。いや、まだ実際にいるのだろうか。まあ、どっちでもいいことではあるが。

 この「お君」というのは、島田の妹ということになっているのだが、実は島田の兄の娘で、兄からはずっと一緒に育ったんだから結婚しろと命じられているらしい。島田は断っているが、それにしても姪との結婚は当時は法的に禁じられていなかったのだろうか。

 姪との関係といえば、すぐに島崎藤村が思い出されるわけだが、時代的にこの話とそれほど隔たっていないから、姪との関係は世間的にはわりとあったことなのかもしれない。

 しかし、表向き兄と妹となっている島田とお君を見て、義男はなんか変だなあと直感する。このあたりの義男の勘は鋭い。ある日、たまたま島田の家で寝てしまった義男の枕元で、お君が別の若い女と話しているのが聞こえてくる。その部分。



 ところが、夢うつつの樣にひそ/\話が隣りの室から聽えて來る。
「兄さんは、もう、出たの?」
「出たのよ、直き歸ると云うて。」
「ゆうべはどこへ行つたの?」
「お客さんと一緒にお女郎買ひ。」
「いやなこと、ねえ」と二人のくす/\笑ひ。
「その代り、ゆうべだけは夢を見なかつたでせう?」
「矢ツ張り、見たのよ。島田さんとわたしとが何か面白いお話をしてたら、大きな、堅い物があたまの上へ落ちて來るんでせう──それが火の出る樣にがんとわたしのあたまに當つたかと思うたら、目が覺めたの。」
「ぢやア、またお父(とつ)さんに蹴られたの、ね。」
「わたし、恥かしくもあるし、つらくもあるし、どうしようと思ふのよ。けさ、起きたら、直ぐお父さんが、いつもの通り、『色氣違ひめ、またうはことを云やアがつた』て叱るんでせう──」
「お父さんの足もとにあたまが行く樣な寢かたをしてをるから、行けないのだ、わ。」
「仕やうがないんですもの、それは──家が狹いんだから。」
「では、夢でのお話はおよしなさい。」
「わたしだツて、さうしたいことはありません、わ。けれども、夢に見るんですもの。」
「毎晩、癖になつたの、ね。」
「さう、ね。」
「わたしなら、いやアだ。」
「わたしもいやです、わ。」
「お鈴さんがそれをいやになつたら、兄さんをいやになるわけ、ね。」
「兄さんは好きよ、好きだから夢にまで見るんでせう。」
「色きちがひ、ね、あなたは?」
「あら、いやアだ、お君さん、兄さんにそんなこと云うたらいやよ。」
「云うてやる、云うてやる。」
「いやアよ、いやアよ。後生だから、そんなことは──」
「兄さんだツて、嬉しがるだらう。」
「後生だからよ。」
 段々、かういふ聲が大きくなるに從つて、義雄の眠りは覺めて來た。氣がつくと、いつのまにかどてらのかかつてゐるのを發見した。社員はすべて出拂つて、ここに誰れもゐない。
「靜かにおしなさい、お客さんに聽えるよ。」
「え? ゐるの?」
「寢てゐるの。」
「聽えやしなかつたでせうか?」
 その後は何か分らない小聲だ。
「お鈴、お鈴!」南隣りの家から呼び聲が聽えると、
「はい」と、大きな返事をして、一方の話相手は裏口から出て行つた樣子。
「お君さん、あれはどなた」と、義雄が聲をかけた。
「あなた、聽いていらツしやつたの?」
「目がさめたので、すまないが、聽えましたよ」と云ひながら、渠はから紙を明けて茶の間へ行つた。

 午前も、もう、そとは日の高いてか/\した光に照らされて、ほこりと共に暑い風が這入つて來る。
 お君さんは横になつてゐたからだを坐わり直して、
「あれはお隣りの娘さんです。」
「お鈴さんといふの?」
「ええ。」
「氷峰君に大層惚れてゐるんだ、ね。」
「さうよ」と、お君は答へて微笑したが、その顏には少しにが/\しい樣子が見えた。
「いくつ?」
「わたしに一つ下。」
「では、十九? 十八?」
「そこらあたりでせう。」
「太つてゐるの? 痩せてゐるの?」
「太つてをります、わ。」
「美人?」
「‥‥。」お君は笑つて返事がない。やがて、「去年の末、わたしの留守に、兄さんの病氣を親切に介抱してくれたさうです。」
「そして、氷峰君はその人を細君にするつもりですか?」
「さア、どうですか」と、かの女はにが笑ひして、心配さうな、しをれた顏つきをしてゐる。その樣子が、どうも、當り前の兄妹のする樣子ではない。「兄さんが病氣でぐツすり眠つてをりますと、隣りの室からこツそり出て行つて、お鈴さんは兄さんの顏を見てをつたことが度々あるさうです。」
「誰がそれを見たの?」
「うちのお母さんが──その時、お母さんもついてをつたので、寢たふりをしてお鈴さんの樣子を見てをつたのだ、て。」
 義雄はこの二人の女のどちらが氷峰の物であらうかと考へた。そして、
「あなたは氷峰君の本當の兄弟ですか」と聽くと、
「本當は、わたしのお父さんと兄弟だから叔父さんになるのですが、子供の時から一緒にをりますので、どうしても、兄さんとしか云へないの」と、かの女は答へて、多少元氣を囘復した樣だ。
「何のことだ、まさか持統天皇ではあるまいし」と、然し、義雄は心でつぶやいて、その問題には興がさめてしまつたので、丁度その時膝の上にあがつて來た玉といふ猫をだいて、その喉をごろごろ云はせながら、獨り言ともつかず、「ああ、まだ眠い」と云つてあくびをする。
「ゆうべのお疲れでせう」とかの女はにやり笑ふ。
 そこへ氷峰が歸つて來た。

 


 この後、島田氷峰から、実は、お君は、オレの兄の娘で、結婚しろと言われている云々の話が出て来るわけである。

 それにしても、義男は聞きにくいことをズケズケと聞く男だ。「太つてゐるの? 痩せてゐるの?」とか、「あなたは氷峰君の本當の兄弟ですか」とか、普通ならとても聞けない。泡鳴という男もまた、そういう男だったんだろう。

 「まさか持統天皇ではあるまいし」というあたり、持統天皇のことをすっかり忘れていたので、面食らったが、そういえば、持統天皇は叔父にあたる天武天皇と結婚したのだった。こうしたフレーズは、泡鳴独自のものではなくて、当時は一般に使われていたのかもしれない。時代は明治の末だが、今より「自由」な言論の空気を感じるのはぼくだけだろうか。

 二人の若い女の会話を聞いて、さてこの女たちのどっちが「氷峰の物であらうか」などとのんきなことを考え、事実が明らかになると、急に興ざめしてしまう義男も、なかなかおもしろい男だ。

 二人の会話から、お鈴の家の事情(父との関係、家の広さなど)から、二人の揺れ動く心まで、実に鮮やかに伝わってくる。こうしたところを読んでいると、泡鳴の小説は落語に似ているなあと思うのだが、どうだろう。泡鳴は落語好きだったのだろうか。

 

 

 


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木洩れ日抄 41 「カイベツ」の不思議

2018-08-21 15:06:04 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 41 「カイベツ」の不思議

2018.8.21


 

 『源氏物語』の読書が終わったあと、「日本近代文学の森へ」と題して、明治以来の近代文学を片っ端から読んでいこうという計画を立て、さしあたり、斎藤緑雨を読み始め、すぐに岩野泡鳴へ移ったら、ここでとんだ足止めをくらっている。

 まさに沼に足をとられ、もがいてももがいても、抜け出ることができないといった感じだ。別に仕事じゃないからいいんだけど、ちっとも先へ進まない。

 『源氏物語』のときは、毎日必ず数行から数ページを読んで、フェイスブックに、引用したり、感想を書いたりしていたので、全54巻という大長編でも、一年ちょっとで読了したのだが、近代文学のほうは、週に一度程度、ブログにアップするという形をとったので、読書にあてる時間からしてぜんぜん違うという事情もある。

 なぜ、フェイスブックではなくて、ブログにしたかというと、友人には、フェイスブックをやっていない人間がけっこういて、そういう人たちが、不満を言ってくるということもあるのだが、それ以上に、フェイスブックというのは、どうしても、その時その時の記事として読まれ、過去の記事に遡ることがなかなか難しいという事情もある。

 ホームページからブログに移行したときも、同じような不便さを感じ、「100のエッセイ」などは、ブログ掲載あとに、わざわざホームページの方にも「収納」した。

 そんなこんなで、遅々として進まない「泡鳴読書」だが、先日も、フェイスブックをやっていない友人から、「カイベツ」について、メールが来た。「カイベツ」というのは、岩野泡鳴の小説『放浪』に出て来る言葉で、「キャベツ」の北海道弁だということなのだ。その小説に何度も「カイベツ」と出てきて、泡鳴も、北海道ではこう言うのだと書いているわけだが、それに関してぼくは、前回の「泡鳴読書」の中で、


 またここに出て来る「カイベツ」というのは、「キャベツ」のことで、当時は、まだ英語の読みが北海道では「キャベツ」として定着していなかったということらしい。


と書いた。それに対するメールである。


 「きゃべつ」って、どこから来た言葉だろう、いつか調べよう、とおもってたので、今回のを読んで、「え? 英語なの? そんなに知られてるの?」と、わが無知を恥じて、ネットを検索、勉強しました。
 ひとつ、きみが知ってなさそうと見えたことを発見。caput(chapterなどの語源で「頭」のラテン語)→cabbage→キャベツらしいんだけど、「英語の読みが北海道で定着していなかった」のではなくて、「キヤベツという読みを、名古屋東海とか北日本とかdaikon(だいこん)をdeyakon(でやこん)と発音する地方の出身者で、北海道に暮らす人々が、もとの読みを「誤って推測して」、もとに匡して読もうとして「きや」→「かい」ベツ、と読んだ」のである、らしいぞ。
 調べたらすぐ分かったことなので、自慢ではなく、きみだと、エッセエのネタになるかな、とおもって。



 エッセイを読んでくれるだけでなく、ネタまで心配してくれるよき同級生であるが、この年になって「ネットを検索、勉強しました」などとは殊勝なことである。

 しかし、これには驚いた。そういうことなのかあ。

 英語の発音は「キャベッジ」に近いから、そこから「キャベツ」となることは自然な成り行きである。ところが、北海道に移住した名古屋あたりのひとが、同郷の人から聞いた「キャベツ」という言葉を、なんじゃそりゃ、そうか、おれたちが「エビフリャア」とか、「そうきゃあも」とか、「おみゃあさん」とか言うのと同じで、「キャベツ」というのも、オレたちのなまりに違いない。とすりゃあ、「きゃ」のっていうのは「かい」だから、「カイベツ」っていうのが「元」なのかしらん、いやそうに違いない、なんて、いろいろ考えているうちに、「カイベツ」として、北海道では定着した、ということになる。

 しかし、である。北海道には、名古屋から来た人ももちろん多かったろうけど、佐賀やら、高知やら、山梨やら、新潟やら(適当に並べただけです)から来た人も多かったはずだ。それなのに、どうして名古屋人が「修正」した「カイベツ」だけが、北海道中に広がったのだろうか。

 友人の紹介してくれた説では、名古屋人自身が「修正」したことになっているが、「修正」したのは、別の地方の人たちだったという可能性もあるのではないか。つまり、名古屋人が「キャベツ」と言うのを聞いて、別の地方出身者が、あいつら「エビフリャア」とかいうから、きっとなまってるに違いない。とすりゃあ、「カイベツ」ってのが「正しい」に違えねえ思ったという可能性である。

 しかし、それなら、なぜに、名古屋人ばかりが「キャベツ、キャベツ」と騒いでいたのだろうか。大阪人なら、お好み焼き食べるたびに、「今日はお好み焼きさかい、キャベツぎょうさん用意しや。」(いいかげんな大阪弁です。)とか叫んでもおかしくないけど、名古屋人が、どういう料理のときに、「キャベツはないかあ、そうきゃあ。エビフリャアしきゃにゃあのきゃあ。」(いいかげんな名古屋弁です。)とか叫ぶのだろうか。エビフライにはキャベツの千切りが付きものだとしても、お好み焼きにおけるキャベツとは比べものになるまい。

 仮に、名古屋人密集地で、「キャベツ! キャベツ!」の大合唱があったとしても、どうして、他の地方の人は、「キャベツ」って言ってるのは、名古屋人だけじゃないぜ。埼玉県人だって「キャベツ」というじゃないか、って思わなかったのだろう。埼玉県人が「キャベツ」と言っても、それはきっと名古屋人の影響に違いないと思わせる「何か」があったのだろうか。

 などとどうでもいいことを考えているうちに、時はたち、「泡鳴読書」は進まない、というわけである。




 友人が「調べたらすぐわかった」というサイトはこちらです。勝手にリンクを張らせていただきました。

 



 


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一日一書 1474 蒙霧升降(七十二候)

2018-08-18 09:36:14 | 一日一書

 

蒙霧升降(ふかききりまとう)

 

七十二候

 

8/17〜8/22

 

ハガキ

 

 

 

 


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