日本近代文学の森へ (83) 徳田秋声『新所帯』 3 「視点」の問題
2019.1.22
お作の身元を調べた新吉は、まあ、飛びつくような縁談でもないけど、これくらいが自分の分際では十分だと思ったが、いちおう同じ村から出ている友達に相談して、見合いをすることにした。
そのことを、同じ村から出ている友達に相談してから、新吉はようやく談(はなし)を進めた。見合いは近間の寄席ですることにした。新吉はその友達と一緒に、和泉屋に連れられて、不断着のままでヒョコヒョコと出かけた。お作は薄ッぺらな小紋縮緬(こもんちりめん)のような白ッぽい羽織のうえに、ショールを着て、叔父と田舎から出ている兄との真中に、少し顔を斜(はす)にして坐っていた。叔父は毛むくじゃらのような顔をして、古い二重廻しを着ていた。兄は菱なりのような顔の口の大きい男で、これも綿ネルのシャツなど着て、土くさい様子をしていた。横向きであったので、新吉は女の顔をよく見得なかった。色の白い、丸ぽちゃだということだけは解った。お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていたが、新吉は胸がワクワクして、頭脳(あたま)が酔ったようになっていた。
寄席を出るとき、新吉は出てゆくお作の姿をチラリと見た。お作も振り顧(かえ)って、正面から男の立ち姿を二、三度熟視した。お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。
そこを出ると、和泉屋は不恰好な長い二重廻しの袖をヒラヒラさせて、一足先にお作の仲間と一緒に帰った。
「どうだい、どんな女だい。」と新吉はそっと友達に訊いた。
何だか頭脳がボッとしていた。叔父や兄貴の百姓百姓した風体が、何となく気にかかった。でも厭でたまらぬというほどでもなかった。
見合いの場所が「近間の寄席」だったというところがおもしろい。当時は、東京中のあちこちに寄席があって、そこが見合いの場所として使われることもあったというようなことは、今では考えられないことだが、この頃の小説には、歌舞伎などの芝居見物が、同時に見合いの場でもあるというようなことはよく出て来る。確か、泡鳴の小説に、見合いではないが、そんなふうな場面が出てきたような気がするが、忘れてしまった。
その寄席に、お作と、その叔父と兄が来ているわけだが、彼らの描写に注目したい。
「分析批評」では、「視点」ということがよく言われて、ぼくも、授業では何度もその「視点」のことを話してきた。それをここで簡単に説明しておくと、「視点」というのは、小説の文章をどの位置から書くかということで、大ざっぱにいうと、「全知視点(神の視点)」と「一人称視点」(この名称でよかったのか、記憶があやふやですが、いちおうこうしておきます。)の二つがある。「全知視点」で書く場合は、作者は、登場人物すべての心の中を知っているという前提で書く。一方、「一人称視点」で書く場合は、作者は、登場人物のうちのただ一人(大抵は主人公)の心の中は知っているが、それ以外の人物の心の中には入ることができず、その主人公の目からみた、あるいは主人公の感じた範囲でしか描けない、という前提で書くことになる。
例えば、「男は女をチラリとみて、不快だと思ったが、女の方は、なんて素敵な人なんだと思った。」と書くのは「全知視点」だが、「男は女を見て、不快だと思ったが、女は急に顔を赤らめて俯いてしまった。」なんて書くのは「一人称視点」だということになる。
「全知視点」で書かれた文章は、「客観的」な文章になるだろうし、「一人称視点」で書かれた文章は「主観的」な文章になるだろう。もちろん、厳密にいえば、そう簡単には言えないわけだが、まあ、そうしておく。
補足しておくが、この「全知視点」と「一人称視点」のどちらか一方だけで小説が書かれているということではない。片方の視点を厳密に守って書かれた小説もあるけれど、多くの小説は、必要に応じて、まぜこぜで書かれているといっていいだろう。
で、この見合いの場面での、お作とその叔父、兄の描写は、「全知視点」なのか「一人称視点」なのかを考えてみよう。
一見この文章は、「客観的」に書かれているように見える。「見合いは近間の寄席ですることにした。新吉はその友達と一緒に、和泉屋に連れられて、不断着のままでヒョコヒョコと出かけた。」と書くとき、作者の位置は、新吉や友達の「外側」にいて、彼らの行動を「客観的」に書いていると考えてもいいだろう。けれども、次の、「お作は薄ッぺらな小紋縮緬(こもんちりめん)のような白ッぽい羽織のうえに、ショールを着て、叔父と田舎から出ている兄との真中に、少し顔を斜(はす)にして坐っていた。」となると、どうか。ここだって「客観的」じゃないかというかもしれないが、最後の「少し顔を斜(はす)にして坐っていた。」というところに注目すると、あきらかに新吉に「視点」があることがわかる。新吉から見ると、「顔が斜」になるわけだ。つまり、新吉からは、顔の全体がちゃんと見えない。だから、どんな女なのかよく分からないということだ。つまり、ここは厳密にいうと「一人称視点」になっていると言える。
もう少し言えば、「薄ッぺらな」「白ッぽい」という言葉が、お作を「見下した」感じを与える。「ぺら」「ぽい」といった響きが揶揄的だからだろう。ここも、新吉がそう「感じた」ということになるのか、あるいは作者の「意図」なのか、判然とせず、むずかしいところだ。
その次はどうか。「叔父は毛むくじゃらのような顔をして、古い二重廻しを着ていた。兄は菱なりのような顔の口の大きい男で、これも綿ネルのシャツなど着て、土くさい様子をしていた。」これも、「客観的」なようでいて、微妙な表現だ。「毛むくじゃらのような顔」「菱なりのような顔の口の大きい男」という表現は、たぶんに揶揄的で、馬鹿にしているようなニュアンスがある。「毛むくじゃら」というのは、「毛深いこと」の意だが、それに「ような」がついているのが不可解。辞書には載っていないが、「毛むくじゃら」で、「毛深い動物」のような意味があったのかもしれないし、作者の頭の中にそんなイメージがあったのかもしれない。いずれにしても、純粋に「客観的」に書くなら、「毛深い顔で」とすればいい。「毛むくじゃらのような」と書くことで、その叔父の品のなさを強調するような結果となっている。つまりは、ここには新吉の「印象」が紛れ込んでいるのか、あるいは、作者の「主観」が入りこんでいると考えることができるだろう。
「菱なりのような顔」も、同じだ。「菱なり」は「菱形」のことだが、顔が「菱形みたいだ」というのは、戯画化である。そんな極端な顔はないが、そう書くことで、「変な顔」を印象づける。その変な形の顔に大きな口がついているのだから、余計に変な顔になってしまう。
更に最後の「土くさい様子」が決定的で、ここは、新吉の印象(あるいは作者の主観)以外の何ものでもない。「様子」が「土くさい」かどうかは、見るものの「主観」の問題で、「毛深い」のとはわけが違う。「土くさい」という表現には、「田舎」を侮蔑するニュアンスがあきらかにある。
ここで、もうちょっとこだわれば、「毛深い顔」というのも、本当は「純粋に客観的」とは言えないだろう。この叔父の顔を描写するにあたって、ことさら顔にはえている毛に注目すること自体「客観的」とはいえない。毛のことなんか無視して、「鋭い目をした顔」と書いたっていいのに、わざわざ「毛深い顔」と書くのは、「毛深い」=「田舎くさい」という連想のなかで、書かれているからである。
こんなふうに「分析」してくると、文章を書くということは、めんどくさいことだなあとつくづく思い知らされる。報告などの文章を書くときには、「客観的」に書きなさいなどと作文指導をするけれど、自分の「主観」を離れてどんな文章が書けるだろうと一度でも考えてみれば、その困難さに愕然とするはずだ。
で、話は戻って、こんどは新吉とお作の描写だ。「横向きであったので、新吉は女の顔をよく見得なかった。色の白い、丸ぽちゃだということだけは解った。お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていたが、新吉は胸がワクワクして、頭脳(あたま)が酔ったようになっていた。」これをよく読むと、ここはあきらかに「一人称視点」で書かれていることが分かるのは説明を要しないだろう。新吉は「胸がワクワクして、頭脳(あたま)が酔ったようになっていた。」と書かれているのに、お作の心の中は何も書かれていない。「お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていた」と、その外側からみる行動だけが書かれている。
この後も、お作については、「お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。」と、あくまで新吉の「印象」として書かれているのだ。
「『どうだい、どんな女だい。』と新吉はそっと友達に訊いた。」と、自分では判断のつきかねる女についての意見を友達に求めつつ、まあ、親族が田舎くさいのは気になるけど、あんなもんか、といったそっけない感想しか新吉は持たなかったのである。
この女と結婚することになるのかと思うと、「胸がワクワクして、頭脳が酔ったように」なる新吉だが、それは、女への愛情を意味しない。ただ性欲の満足への一時的な期待にすぎず、それを除けば、お作への熱い思いなど起こりようもなかったのだ。